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第3話 王宮を去る背中
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第3話 王宮を去る背中
翌朝の王宮は、昨夜の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
しかし、その静けさは安らぎではなく、嵐の前触れのような、張りつめた空気を孕んでいる。
ミディア・バイエルンは、窓辺に立ち、朝の光が庭園に落ちる様子を眺めていた。夜露を含んだ芝は淡く輝き、鳥の声が規則正しく響く。王宮の朝は、いつも通り完璧だった。――人の感情など、何もなかったかのように。
「本日中に、王宮をお引き払いください」
昨夜、父の使者から伝えられた言葉が、脳裏をよぎる。
冷たい表現ではあったが、そこに悪意はない。むしろ、形式を重んじる父らしい配慮だ。これ以上、王宮に留まる理由はない。留まれば、余計な噂と視線を浴びるだけだ。
ミディアは、すでに荷造りを終えていた。必要最低限の衣類と書類、そして数冊の本。贅沢な装飾品は、ひとつも持たない。もともと、それらは自分の趣味ではなかった。
扉をノックする音がした。
「……どうぞ」
入ってきたのは、長年ミディアに仕えてきた年配の侍女だった。白髪混じりの髪をきっちりとまとめ、どんなときも礼を失わない女性だ。
「お荷物は、こちらでお運びいたします」
「ありがとうございます。でも、ひとつだけ、お願いがあります」
ミディアは静かに言った。
「最後に、庭園を通らせてください」
侍女は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。
「……かしこまりました」
王宮の廊下を進むと、早くも人の気配が増えていた。貴族、役人、使用人――彼らは皆、ミディアに気づくと、わずかに足を止める。中には、露骨に視線を向ける者もいた。
同情。
好奇。
あるいは、密かな優越感。
それらが、言葉にならない圧となって、肌に触れる。
だが、ミディアは歩調を乱さなかった。背筋を伸ばし、視線は前へ。誰とも目を合わせず、しかし逃げるようでもない。
――私は、何も恥じることをしていない。
そう、心の中で繰り返す。
庭園に出ると、朝の空気が一気に肺へ流れ込んだ。花々が咲き誇り、噴水の水音が規則正しく響いている。ここは、かつてアルトゥールと並んで歩いた場所でもあった。
「……覚えていますか」
思わず、独り言が漏れる。
あの日、彼は未来を語った。王国をどう導くか、理想の王妃像はどうあるべきか。その隣で、ミディアは黙って耳を傾け、必要なときだけ意見を述べた。
だが、その理想の中に、「ミディア自身」は存在していなかった。
庭園の奥から、複数の足音が聞こえてくる。貴族の一団だ。彼らはミディアを見るなり、露骨に話し声を落とした。
「……あの方が……」
「泣き叫ぶかと思っていましたが……」
「やはり、聖女様が……」
最後まで聞く必要はない。ミディアは、ただ通り過ぎた。
噂は、もう始まっている。
それを止めることはできないし、止めるつもりもない。
庭園の出口近くで、ミディアは一度だけ立ち止まった。噴水の向こうに、王宮の塔が見える。この場所で過ごした年月が、胸に重くのしかかる。
――ここで、私は生きてきた。
だが、それは「自分の人生」ではなかった。
「ミディア様」
不意に、聞き覚えのある声がした。振り返ると、若い文官が立っている。王宮で何度か顔を合わせた人物だ。彼は一瞬、言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
「……どうか、お体を大切に」
それだけだった。余計な慰めも、好奇心もない。純粋な気遣い。
ミディアは、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
王宮の正門が見えてくる。外には、バイエルン家の馬車が待っていた。黒地に控えめな紋章。派手さはないが、確かな誇りを感じさせる。
ミディアは、最後に一度だけ振り返った。
高くそびえる王宮。
華やかで、冷たく、完璧な場所。
――さようなら。
声には出さず、心の中で告げる。
馬車に乗り込むと、扉が静かに閉じられた。外の世界が遮断され、車輪が動き出す。
窓の外で、王宮が少しずつ遠ざかっていく。
不思議なことに、胸は軽かった。
婚約破棄された令嬢。
そう呼ばれる現実は、確かに重い。
けれど、それ以上に――
役割から解放されたという感覚が、ミディアを支えていた。
馬車が門を抜け、王都の通りへ出る。
ここから先は、誰かの筋書きではない。
ミディア・バイエルン自身の道だ。
彼女は、静かに目を閉じた。
そして、次に目を開くときには、もう過去を振り返らないと、心に決めていた。
翌朝の王宮は、昨夜の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
しかし、その静けさは安らぎではなく、嵐の前触れのような、張りつめた空気を孕んでいる。
ミディア・バイエルンは、窓辺に立ち、朝の光が庭園に落ちる様子を眺めていた。夜露を含んだ芝は淡く輝き、鳥の声が規則正しく響く。王宮の朝は、いつも通り完璧だった。――人の感情など、何もなかったかのように。
「本日中に、王宮をお引き払いください」
昨夜、父の使者から伝えられた言葉が、脳裏をよぎる。
冷たい表現ではあったが、そこに悪意はない。むしろ、形式を重んじる父らしい配慮だ。これ以上、王宮に留まる理由はない。留まれば、余計な噂と視線を浴びるだけだ。
ミディアは、すでに荷造りを終えていた。必要最低限の衣類と書類、そして数冊の本。贅沢な装飾品は、ひとつも持たない。もともと、それらは自分の趣味ではなかった。
扉をノックする音がした。
「……どうぞ」
入ってきたのは、長年ミディアに仕えてきた年配の侍女だった。白髪混じりの髪をきっちりとまとめ、どんなときも礼を失わない女性だ。
「お荷物は、こちらでお運びいたします」
「ありがとうございます。でも、ひとつだけ、お願いがあります」
ミディアは静かに言った。
「最後に、庭園を通らせてください」
侍女は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。
「……かしこまりました」
王宮の廊下を進むと、早くも人の気配が増えていた。貴族、役人、使用人――彼らは皆、ミディアに気づくと、わずかに足を止める。中には、露骨に視線を向ける者もいた。
同情。
好奇。
あるいは、密かな優越感。
それらが、言葉にならない圧となって、肌に触れる。
だが、ミディアは歩調を乱さなかった。背筋を伸ばし、視線は前へ。誰とも目を合わせず、しかし逃げるようでもない。
――私は、何も恥じることをしていない。
そう、心の中で繰り返す。
庭園に出ると、朝の空気が一気に肺へ流れ込んだ。花々が咲き誇り、噴水の水音が規則正しく響いている。ここは、かつてアルトゥールと並んで歩いた場所でもあった。
「……覚えていますか」
思わず、独り言が漏れる。
あの日、彼は未来を語った。王国をどう導くか、理想の王妃像はどうあるべきか。その隣で、ミディアは黙って耳を傾け、必要なときだけ意見を述べた。
だが、その理想の中に、「ミディア自身」は存在していなかった。
庭園の奥から、複数の足音が聞こえてくる。貴族の一団だ。彼らはミディアを見るなり、露骨に話し声を落とした。
「……あの方が……」
「泣き叫ぶかと思っていましたが……」
「やはり、聖女様が……」
最後まで聞く必要はない。ミディアは、ただ通り過ぎた。
噂は、もう始まっている。
それを止めることはできないし、止めるつもりもない。
庭園の出口近くで、ミディアは一度だけ立ち止まった。噴水の向こうに、王宮の塔が見える。この場所で過ごした年月が、胸に重くのしかかる。
――ここで、私は生きてきた。
だが、それは「自分の人生」ではなかった。
「ミディア様」
不意に、聞き覚えのある声がした。振り返ると、若い文官が立っている。王宮で何度か顔を合わせた人物だ。彼は一瞬、言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
「……どうか、お体を大切に」
それだけだった。余計な慰めも、好奇心もない。純粋な気遣い。
ミディアは、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
王宮の正門が見えてくる。外には、バイエルン家の馬車が待っていた。黒地に控えめな紋章。派手さはないが、確かな誇りを感じさせる。
ミディアは、最後に一度だけ振り返った。
高くそびえる王宮。
華やかで、冷たく、完璧な場所。
――さようなら。
声には出さず、心の中で告げる。
馬車に乗り込むと、扉が静かに閉じられた。外の世界が遮断され、車輪が動き出す。
窓の外で、王宮が少しずつ遠ざかっていく。
不思議なことに、胸は軽かった。
婚約破棄された令嬢。
そう呼ばれる現実は、確かに重い。
けれど、それ以上に――
役割から解放されたという感覚が、ミディアを支えていた。
馬車が門を抜け、王都の通りへ出る。
ここから先は、誰かの筋書きではない。
ミディア・バイエルン自身の道だ。
彼女は、静かに目を閉じた。
そして、次に目を開くときには、もう過去を振り返らないと、心に決めていた。
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