23 / 39
第23話 名前のない評価
しおりを挟む
第23話 名前のない評価
辺境伯領の朝は、静かに始まる。
鐘の音は短く、必要以上に人を急かさない。
商人の馬車が通り、職人たちが店を開け、農夫たちが畑へ向かう。
その一つ一つが、計画書の数字ではなく、生活として息づいている。
ミディア・バイエルンは、政庁の窓からその様子を眺めていた。
「……順調ですね」
呟きは独り言に近い。
隣で書類を整理していたアイロス・アルツハイムが、顔を上げた。
「はい。先月の施策、想定より定着が早い」
「無理をさせていないからでしょう」
ミディアは、机に置かれた報告書を手に取る。
収穫量、物流、雇用。
どの項目も、派手ではないが、確実に改善している。
「王都なら……」
アイロスが、言いかけて止めた。
「数字を盛る、ですね」
「ええ」
ミディアは、淡々と答える。
「成果を急げば、必ずどこかが歪みます」
その歪みを、彼女はよく知っていた。
王太子の隣で、何度も見てきたからだ。
午前中、政庁に一人の来客があった。
王都の商会に所属する、中年の男。
派手な服装ではないが、身なりは整っている。
「突然の訪問、失礼いたします」
男は、深く頭を下げた。
「用件を」
ミディアは、形式的な挨拶を省いた。
「はい。辺境伯領の物流について、視察を……」
彼は、慎重に言葉を選んでいる。
「“視察”ですか」
「……ええ。個人的な判断で」
その一言で、背景は十分だった。
王都として動けない。
だから、“個人”として来る。
「許可は、出しています」
ミディアは、書類に目を落としたまま言った。
「ただし、条件があります」
「条件、ですか」
「評価を、王都へ持ち帰らないこと」
男は、言葉を失った。
「……それは」
「公的な評価ではなく、あなた自身の目で見てください」
ミディアは、顔を上げ、静かに続けた。
「良いと思えば、良い。
悪いと思えば、悪い。
ただし、名前を付けないでください」
「名前……?」
「王都の言葉で評価しない、という意味です」
沈黙が落ちる。
男は、やがて、ゆっくりと頷いた。
「……承知しました」
視察は、その日の午後に行われた。
街道、倉庫、作業場。
どこも、過剰な演出はない。
「特別なことは、何もしていませんね」
男が、正直に言う。
「はい」
ミディアは、即答した。
「特別なことは、続きませんから」
作業中の職人が、二人に気づいて声をかけてきた。
「お疲れさまです!」
「この前の資材、助かりました!」
誰も、肩書きを確認しない。
誰も、媚びない。
それが、男には衝撃だった。
夕方、視察を終え、政庁に戻る。
「……率直に申し上げます」
男は、深く息を吸った。
「ここは、王都よりも“普通”です」
「そうでしょう」
ミディアは、微笑まない。
「普通であることは、評価されません」
「ええ」
男は、苦笑した。
「だからこそ、怖い」
その言葉に、ミディアは少しだけ目を細めた。
「壊れにくい、という意味ですね」
「はい」
男は、正直だった。
「王都では、これを“地味”と呼びます」
「ここでは、“安定”と呼びます」
夜、来客を見送った後、アイロスが言った。
「王都は、どう動くでしょう」
「動きません」
ミディアは、即答する。
「評価できないものは、扱えない」
「では、なぜ受け入れたのですか」
「彼のためです」
ミディアは、静かに続けた。
「王都の言葉を使わずに見る経験は、
きっと、彼の中に残ります」
それで十分だった。
誰かに褒められるためではない。
誰かに恐れられるためでもない。
ただ、続けるため。
夜更け、机に向かい、次の施策を確認する。
書類の隅に、ふと、かつての自分の名前がよぎる。
――王太子妃候補。
今となっては、空虚な肩書きだ。
「……名前はいらない」
ミディアは、小さく呟いた。
評価に名前を付ければ、序列が生まれる。
序列が生まれれば、争いが始まる。
ここでは、それをしない。
それが、彼女の選んだやり方だった。
辺境の夜は、静かに更けていく。
王都の喧騒とは、別の時間が流れている。
ミディア・バイエルンは、
名のない評価の中で、確かに前に進んでいた。
辺境伯領の朝は、静かに始まる。
鐘の音は短く、必要以上に人を急かさない。
商人の馬車が通り、職人たちが店を開け、農夫たちが畑へ向かう。
その一つ一つが、計画書の数字ではなく、生活として息づいている。
ミディア・バイエルンは、政庁の窓からその様子を眺めていた。
「……順調ですね」
呟きは独り言に近い。
隣で書類を整理していたアイロス・アルツハイムが、顔を上げた。
「はい。先月の施策、想定より定着が早い」
「無理をさせていないからでしょう」
ミディアは、机に置かれた報告書を手に取る。
収穫量、物流、雇用。
どの項目も、派手ではないが、確実に改善している。
「王都なら……」
アイロスが、言いかけて止めた。
「数字を盛る、ですね」
「ええ」
ミディアは、淡々と答える。
「成果を急げば、必ずどこかが歪みます」
その歪みを、彼女はよく知っていた。
王太子の隣で、何度も見てきたからだ。
午前中、政庁に一人の来客があった。
王都の商会に所属する、中年の男。
派手な服装ではないが、身なりは整っている。
「突然の訪問、失礼いたします」
男は、深く頭を下げた。
「用件を」
ミディアは、形式的な挨拶を省いた。
「はい。辺境伯領の物流について、視察を……」
彼は、慎重に言葉を選んでいる。
「“視察”ですか」
「……ええ。個人的な判断で」
その一言で、背景は十分だった。
王都として動けない。
だから、“個人”として来る。
「許可は、出しています」
ミディアは、書類に目を落としたまま言った。
「ただし、条件があります」
「条件、ですか」
「評価を、王都へ持ち帰らないこと」
男は、言葉を失った。
「……それは」
「公的な評価ではなく、あなた自身の目で見てください」
ミディアは、顔を上げ、静かに続けた。
「良いと思えば、良い。
悪いと思えば、悪い。
ただし、名前を付けないでください」
「名前……?」
「王都の言葉で評価しない、という意味です」
沈黙が落ちる。
男は、やがて、ゆっくりと頷いた。
「……承知しました」
視察は、その日の午後に行われた。
街道、倉庫、作業場。
どこも、過剰な演出はない。
「特別なことは、何もしていませんね」
男が、正直に言う。
「はい」
ミディアは、即答した。
「特別なことは、続きませんから」
作業中の職人が、二人に気づいて声をかけてきた。
「お疲れさまです!」
「この前の資材、助かりました!」
誰も、肩書きを確認しない。
誰も、媚びない。
それが、男には衝撃だった。
夕方、視察を終え、政庁に戻る。
「……率直に申し上げます」
男は、深く息を吸った。
「ここは、王都よりも“普通”です」
「そうでしょう」
ミディアは、微笑まない。
「普通であることは、評価されません」
「ええ」
男は、苦笑した。
「だからこそ、怖い」
その言葉に、ミディアは少しだけ目を細めた。
「壊れにくい、という意味ですね」
「はい」
男は、正直だった。
「王都では、これを“地味”と呼びます」
「ここでは、“安定”と呼びます」
夜、来客を見送った後、アイロスが言った。
「王都は、どう動くでしょう」
「動きません」
ミディアは、即答する。
「評価できないものは、扱えない」
「では、なぜ受け入れたのですか」
「彼のためです」
ミディアは、静かに続けた。
「王都の言葉を使わずに見る経験は、
きっと、彼の中に残ります」
それで十分だった。
誰かに褒められるためではない。
誰かに恐れられるためでもない。
ただ、続けるため。
夜更け、机に向かい、次の施策を確認する。
書類の隅に、ふと、かつての自分の名前がよぎる。
――王太子妃候補。
今となっては、空虚な肩書きだ。
「……名前はいらない」
ミディアは、小さく呟いた。
評価に名前を付ければ、序列が生まれる。
序列が生まれれば、争いが始まる。
ここでは、それをしない。
それが、彼女の選んだやり方だった。
辺境の夜は、静かに更けていく。
王都の喧騒とは、別の時間が流れている。
ミディア・バイエルンは、
名のない評価の中で、確かに前に進んでいた。
2
あなたにおすすめの小説
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
私を利用するための婚約だと気付いたので、別れるまでチクチク攻撃することにしました
柚木ゆず
恋愛
※22日、本編は完結となりました。明日(23日)より、番外編を投稿させていただきます。
そちらでは、レオが太っちょレオを捨てるお話と、もう一つ別のお話を描く予定となっております。
婚約者であるエリックの卑劣な罠を知った、令嬢・リナ。
リナはエリックと別れる日まで、何も知らないフリをしてチクチク攻撃することにしたのでした。
【完結】陛下、花園のために私と離縁なさるのですね?
紺
ファンタジー
ルスダン王国の王、ギルバートは今日も執務を妻である王妃に押し付け後宮へと足繁く通う。ご自慢の後宮には3人の側室がいてギルバートは美しくて愛らしい彼女たちにのめり込んでいった。
世継ぎとなる子供たちも生まれ、あとは彼女たちと後宮でのんびり過ごそう。だがある日うるさい妻は後宮を取り壊すと言い出した。ならばいっそ、お前がいなくなれば……。
ざまぁ必須、微ファンタジーです。
【完結】貴方の後悔など、聞きたくありません。
なか
恋愛
学園に特待生として入学したリディアであったが、平民である彼女は貴族家の者には目障りだった。
追い出すようなイジメを受けていた彼女を救ってくれたのはグレアルフという伯爵家の青年。
優しく、明るいグレアルフは屈託のない笑顔でリディアと接する。
誰にも明かさずに会う内に恋仲となった二人であったが、
リディアは知ってしまう、グレアルフの本性を……。
全てを知り、死を考えた彼女であったが、
とある出会いにより自分の価値を知った時、再び立ち上がる事を選択する。
後悔の言葉など全て無視する決意と共に、生きていく。
冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判
七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。
「では開廷いたします」
家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。
婚約破棄されたのでファンシーショップ始めました。 ― 元婚約者が、お人形さんを側室にしようとして大恥をかきました ―
鷹 綾
恋愛
隣国の王子から「政略的にも個人的にも魅力を感じない」と婚約破棄された、ファンタジア王国第三女王タナー。
泣きも怒りもせず、彼女が考えたのは――「いつか王宮の庇護がなくなっても困らない生き方」だった。
まだ八歳。
それでも先を見据え、タナーは王都の片隅で小さなファンシーショップを開くことを決意する。
並ぶのは、かわいい雑貨。
そして、かわいい魔法の雑貨。
お茶を淹れてくれるクマのぬいぐるみ店員《テイデイ・バトラー》、
冷めないティーカップ、
時間になると小鳥が飛び出すアンティーク時計――。
静かに広がる評判の裏で、
かつての元婚約者は「お人形さんを側室にしようとして」赤っ恥をかくことに。
ざまぁは控えめ、日常はやさしく。
かわいいものに囲まれながら、女王は今日も穏やかにお店を開けています。
---
この文面は
✔ アルファポリス向け文字数
✔ 女子読者に刺さるワード配置
✔ ネタバレしすぎない
✔ ほのぼの感キープ
を全部満たしています。
次は
👉 タグ案
👉 ランキング用超短縮あらすじ(100字)
どちらにしますか?
婚約者が選んだのは私から魔力を盗んだ妹でした
今川幸乃
恋愛
バートン伯爵家のミアの婚約者、パーシーはいつも「魔法が使える人がいい」とばかり言っていた。
実はミアは幼いころに水の精霊と親しくなり、魔法も得意だった。
妹のリリーが怪我した時に母親に「リリーが可哀想だから魔法ぐらい譲ってあげなさい」と言われ、精霊を譲っていたのだった。
リリーはとっくに怪我が治っているというのにずっと仮病を使っていて一向に精霊を返すつもりはない。
それでもミアはずっと我慢していたが、ある日パーシーとリリーが仲良くしているのを見かける。
パーシーによると「怪我しているのに頑張っていてすごい」ということらしく、リリーも満更ではなさそうだった。
そのためミアはついに彼女から精霊を取り戻すことを決意する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる