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第九話 価値を測る者
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第九話 価値を測る者
辺境公爵領での生活が始まってから、五日が過ぎていた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、与えられた執務室で淡々と書類に目を通していた。
初日から山のように積まれていた案件は、決して少なくない。だが、それらは王宮で扱ってきたものと比べれば、むしろ整理されていると言えた。
「……無理のない構造ですね」
思わず口に出た言葉は、感嘆に近い。
辺境公爵領の行政は、中央ほど複雑ではない。
だが、その分、現場の声が直に上がってくる。
領民の生活、物流、治安、軍備――すべてが直結しており、一つの判断がすぐに結果として現れる。
だからこそ、曖昧な決定は許されない。
マルグリットは、ある報告書に目を留めた。
――北部街道の補修計画。
予算不足を理由に、延期が続いている。
「……これは」
数字を追い、過去の判断を確認する。
資金がないわけではない。ただ、優先順位が後回しにされているだけだ。
彼女は、簡単な試算を行い、別の資料と照らし合わせる。
「補修を先延ばしにすれば、輸送効率が落ちる。結果として税収が減り、結局は損失になる……」
ペンを走らせ、簡潔な意見書をまとめる。
――補修を前倒しすべき。
――短期的な支出は増えるが、中長期で回収可能。
――人員配置を調整すれば、追加負担は抑えられる。
それを持って、マルグリットはフェリクス・フォン・グランツの執務室を訪れた。
「入れ」
低い声に応じ、扉を開ける。
「失礼します」
「もう慣れたか」
フェリクスは書類から顔を上げ、簡潔に尋ねた。
「はい。思っていた以上に、現場が見えやすいです」
「それは良い」
彼は、余計な社交辞令を挟まない。
「意見があれば、遠慮なく言え」
マルグリットは頷き、先ほどまとめた意見書を差し出した。
「北部街道の補修についてです。延期が続いていますが、長期的には損失が大きいと判断しました」
フェリクスは、黙って目を通す。
室内に、紙をめくる音だけが響く。
王宮では、この沈黙が恐怖だった。
上の機嫌を伺い、言葉を選び、顔色を読み、沈黙の意味を測る。
だが、ここでは違う。
フェリクスは、ただ読んでいるだけだ。
「……なるほど」
やがて彼は顔を上げた。
「予算の再配分案も考えているか」
「はい。こちらです」
別の紙を差し出す。
「現行計画をすべて否定する必要はありません。優先順位を入れ替えるだけで、実行可能です」
フェリクスは、その案にも目を通し、短く息を吐いた。
「実務的だな」
それは、賞賛でも皮肉でもない。
ただの評価だった。
「王宮では、どうだった」
不意に問われ、マルグリットは一瞬だけ考える。
「……同じ意見を出しても、判断は別の場所でなされました」
「理由は」
「政治的配慮です」
フェリクスは、わずかに眉を動かした。
「つまり、合理性よりも立場を優先した」
「はい」
「この領では、それは通らない」
彼は断言する。
「領民の生活に直結する判断を、見栄や体裁で遅らせるつもりはない」
そして、机の上の書類に決裁印を押した。
「補修計画を前倒しで進めろ」
その一言で、決まった。
マルグリットは、内心で小さく息を吸う。
――これが、価値を測るということ。
感情でも、過去の立場でもない。
出した意見が、妥当かどうか。それだけで判断される。
「よろしいのですか。反対意見も出るかもしれません」
「出るだろう」
フェリクスは気にも留めない様子で言う。
「だが、説明できる。あなたの案ならな」
その言葉に、マルグリットは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ」
フェリクスは視線を戻す。
「あなたは、仕事をした。それだけだ」
執務室を出た後、マルグリットは廊下を歩きながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。
評価されること自体は、初めてではない。
だが、これほど自然に、当たり前のように受け止められた経験は、ほとんどなかった。
その日の夕方、城下町を視察する機会があった。
補修予定の街道を歩き、商人や職人の話を聞く。
「道が悪くてな、荷が遅れるんだ」
「直るなら、本当に助かる」
彼らの声は、率直だった。
マルグリットは、頷きながら話を聞く。
数字だけでは見えない現実が、そこにはあった。
「……判断は、間違っていませんでした」
自分自身に、そう言い聞かせる。
一方、王宮では。
「辺境公爵領で、もう成果を出しているそうです」
その報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、手を止めた。
「……何の成果だ」
「街道整備の前倒し決定です。商人たちからも評価が高いと」
ロイドは、無言で書類を見つめる。
かつて、同じような提案を受けたことがあった。
だが彼は、政治的配慮を理由に先送りにした。
――誰が、正しかったのか。
その答えは、もう明白だった。
夜、マルグリットは宿舎の部屋で一人、窓を開けた。
涼しい風が、心地よく頬を撫でる。
「……ここでは、ちゃんと測ってもらえる」
それは、能力だけではない。
考え方も、判断も、責任の取り方も。
価値を測る者がいる場所。
それが、彼女にとっての新しい居場所だった。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、静かに確信する。
――もう、戻る理由はない。
ここでなら、自分は“人”として働ける。
その実感が、確かに、胸に根を下ろし始めていた。
辺境公爵領での生活が始まってから、五日が過ぎていた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、与えられた執務室で淡々と書類に目を通していた。
初日から山のように積まれていた案件は、決して少なくない。だが、それらは王宮で扱ってきたものと比べれば、むしろ整理されていると言えた。
「……無理のない構造ですね」
思わず口に出た言葉は、感嘆に近い。
辺境公爵領の行政は、中央ほど複雑ではない。
だが、その分、現場の声が直に上がってくる。
領民の生活、物流、治安、軍備――すべてが直結しており、一つの判断がすぐに結果として現れる。
だからこそ、曖昧な決定は許されない。
マルグリットは、ある報告書に目を留めた。
――北部街道の補修計画。
予算不足を理由に、延期が続いている。
「……これは」
数字を追い、過去の判断を確認する。
資金がないわけではない。ただ、優先順位が後回しにされているだけだ。
彼女は、簡単な試算を行い、別の資料と照らし合わせる。
「補修を先延ばしにすれば、輸送効率が落ちる。結果として税収が減り、結局は損失になる……」
ペンを走らせ、簡潔な意見書をまとめる。
――補修を前倒しすべき。
――短期的な支出は増えるが、中長期で回収可能。
――人員配置を調整すれば、追加負担は抑えられる。
それを持って、マルグリットはフェリクス・フォン・グランツの執務室を訪れた。
「入れ」
低い声に応じ、扉を開ける。
「失礼します」
「もう慣れたか」
フェリクスは書類から顔を上げ、簡潔に尋ねた。
「はい。思っていた以上に、現場が見えやすいです」
「それは良い」
彼は、余計な社交辞令を挟まない。
「意見があれば、遠慮なく言え」
マルグリットは頷き、先ほどまとめた意見書を差し出した。
「北部街道の補修についてです。延期が続いていますが、長期的には損失が大きいと判断しました」
フェリクスは、黙って目を通す。
室内に、紙をめくる音だけが響く。
王宮では、この沈黙が恐怖だった。
上の機嫌を伺い、言葉を選び、顔色を読み、沈黙の意味を測る。
だが、ここでは違う。
フェリクスは、ただ読んでいるだけだ。
「……なるほど」
やがて彼は顔を上げた。
「予算の再配分案も考えているか」
「はい。こちらです」
別の紙を差し出す。
「現行計画をすべて否定する必要はありません。優先順位を入れ替えるだけで、実行可能です」
フェリクスは、その案にも目を通し、短く息を吐いた。
「実務的だな」
それは、賞賛でも皮肉でもない。
ただの評価だった。
「王宮では、どうだった」
不意に問われ、マルグリットは一瞬だけ考える。
「……同じ意見を出しても、判断は別の場所でなされました」
「理由は」
「政治的配慮です」
フェリクスは、わずかに眉を動かした。
「つまり、合理性よりも立場を優先した」
「はい」
「この領では、それは通らない」
彼は断言する。
「領民の生活に直結する判断を、見栄や体裁で遅らせるつもりはない」
そして、机の上の書類に決裁印を押した。
「補修計画を前倒しで進めろ」
その一言で、決まった。
マルグリットは、内心で小さく息を吸う。
――これが、価値を測るということ。
感情でも、過去の立場でもない。
出した意見が、妥当かどうか。それだけで判断される。
「よろしいのですか。反対意見も出るかもしれません」
「出るだろう」
フェリクスは気にも留めない様子で言う。
「だが、説明できる。あなたの案ならな」
その言葉に、マルグリットは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ」
フェリクスは視線を戻す。
「あなたは、仕事をした。それだけだ」
執務室を出た後、マルグリットは廊下を歩きながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。
評価されること自体は、初めてではない。
だが、これほど自然に、当たり前のように受け止められた経験は、ほとんどなかった。
その日の夕方、城下町を視察する機会があった。
補修予定の街道を歩き、商人や職人の話を聞く。
「道が悪くてな、荷が遅れるんだ」
「直るなら、本当に助かる」
彼らの声は、率直だった。
マルグリットは、頷きながら話を聞く。
数字だけでは見えない現実が、そこにはあった。
「……判断は、間違っていませんでした」
自分自身に、そう言い聞かせる。
一方、王宮では。
「辺境公爵領で、もう成果を出しているそうです」
その報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、手を止めた。
「……何の成果だ」
「街道整備の前倒し決定です。商人たちからも評価が高いと」
ロイドは、無言で書類を見つめる。
かつて、同じような提案を受けたことがあった。
だが彼は、政治的配慮を理由に先送りにした。
――誰が、正しかったのか。
その答えは、もう明白だった。
夜、マルグリットは宿舎の部屋で一人、窓を開けた。
涼しい風が、心地よく頬を撫でる。
「……ここでは、ちゃんと測ってもらえる」
それは、能力だけではない。
考え方も、判断も、責任の取り方も。
価値を測る者がいる場所。
それが、彼女にとっての新しい居場所だった。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、静かに確信する。
――もう、戻る理由はない。
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