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第八話 新しい場所へ
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第八話 新しい場所へ
辺境公爵領へ向かう馬車が、ルーヴェン家の門前に止まったのは、朝靄がまだ残る時刻だった。
荷は多くない。
王宮を出るときもそうだったが、マルグリット・フォン・ルーヴェンは、物に執着する性質ではない。必要な書籍と記録、最低限の衣類、それだけで十分だった。
「お気をつけて」
見送りに立つ侍女たちに、マルグリットは穏やかに微笑む。
「戻る予定は、しばらくありません。ですが……元気でいることは、お約束します」
その言葉に、侍女たちは胸を撫で下ろしたように頭を下げた。
――王太子妃になるための旅立ちではない。
――誰かの期待に応えるための赴任でもない。
これは、彼女自身が選んだ場所へ向かう、初めての移動だった。
馬車が走り出すと、景色は次第に変わっていく。
整備された王都の街道から、少しずつ素朴な風景へ。
人の数は減り、代わりに広い空と、遠く連なる山々が見えてきた。
「……空が、広いですね」
思わず漏れた言葉は、誰に聞かせるでもない独り言だった。
王宮では、建物に囲まれ、常に誰かの視線を意識していた。
だが今は違う。
視線も、評価も、噂も、ここまでは追ってこない。
数日後、馬車は辺境公爵領の城下町へと到着した。
活気はあるが、王都のような華美さはない。
人々の表情は素朴で、どこか落ち着いている。
「歓迎の準備は、最低限にするよう指示されております」
案内役の騎士が、少し申し訳なさそうに言った。
「……それで結構ですわ」
マルグリットは即座に答える。
「私は、歓迎されに来たのではありませんから」
その言葉に、騎士は一瞬驚いたような顔をした後、深く頷いた。
城に通されると、応接室には一人の男が立っていた。
フェリクス・フォン・グランツ。
書類でしか知らなかった辺境公爵が、目の前にいる。
背は高く、体格は鍛えられているが、威圧感はない。
派手さはないが、視線は鋭く、無駄がない。
「遠路、感謝します。マルグリット・フォン・ルーヴェン」
彼はそう言って、形式ばらない一礼をした。
「こちらこそ。お招きいただき、ありがとうございます」
互いに、余計な言葉はない。
それだけで、十分だった。
「まずは、条件の再確認を」
フェリクスは、席を勧めながら言う。
「あなたは政策顧問。私の補佐として意見を述べる立場です。決裁権は私にあります。責任の所在は明確にします」
「承知しています」
「拘束は最小限。必要以上に働くことは求めません」
その一言に、マルグリットの目が、ほんのわずかに細められた。
「……その条件を、守っていただけるのなら」
「守ります」
即答だった。
「私が求めているのは、あなたの判断力であって、あなたの時間や人生を奪うことではない」
その言葉に、マルグリットは深く息を吸う。
「……では、全力を尽くしますわ」
それは、これまで何度も口にしてきた言葉だ。
だが今回は、意味が違う。
誰かに命じられてではない。
期待に縛られてでもない。
自分で選び、納得した上での「全力」だった。
その日の夕方、マルグリットは城の一室に案内された。
「こちらが、執務用の部屋です」
案内役が示した部屋は、質素だが機能的だった。
過不足のない机と書棚。
窓からは、領地全体を見渡せる。
「……いい部屋ですね」
そう言うと、案内役は少し驚いたように笑った。
「そう言っていただけるとは。王宮の豪華さに慣れておられるかと」
「豪華さは、仕事を楽にしてくれませんから」
その言葉に、案内役は納得したように頷いた。
夜、マルグリットは一人、部屋の窓辺に立った。
遠くに灯る町の明かり。
静かな風。
王宮とは、まるで別の世界だ。
「……ここから、始めるのですね」
誰にともなく呟く。
一方、王宮では――。
「正式に着任した、だと?」
報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、呆然と立ち尽くしていた。
「はい。辺境公爵領の政策顧問として」
その言葉が、胸に重くのしかかる。
彼女は、もう「待っている存在」ではない。
誰かの決断を待つ必要もない。
マルグリットは、新しい場所で、新しい役割を得た。
――それは、取り戻せない距離が、確かに生まれた瞬間だった。
夜空を見上げるマルグリットの表情は、静かだった。
不安もある。
責任もある。
だが同時に、確かな感覚があった。
ここは――
彼女が、初めて「自分の足で立つ」場所なのだと。
新しい場所へ。
新しい人生へ。
歯車は、もう二度と、元の位置には戻らない。
辺境公爵領へ向かう馬車が、ルーヴェン家の門前に止まったのは、朝靄がまだ残る時刻だった。
荷は多くない。
王宮を出るときもそうだったが、マルグリット・フォン・ルーヴェンは、物に執着する性質ではない。必要な書籍と記録、最低限の衣類、それだけで十分だった。
「お気をつけて」
見送りに立つ侍女たちに、マルグリットは穏やかに微笑む。
「戻る予定は、しばらくありません。ですが……元気でいることは、お約束します」
その言葉に、侍女たちは胸を撫で下ろしたように頭を下げた。
――王太子妃になるための旅立ちではない。
――誰かの期待に応えるための赴任でもない。
これは、彼女自身が選んだ場所へ向かう、初めての移動だった。
馬車が走り出すと、景色は次第に変わっていく。
整備された王都の街道から、少しずつ素朴な風景へ。
人の数は減り、代わりに広い空と、遠く連なる山々が見えてきた。
「……空が、広いですね」
思わず漏れた言葉は、誰に聞かせるでもない独り言だった。
王宮では、建物に囲まれ、常に誰かの視線を意識していた。
だが今は違う。
視線も、評価も、噂も、ここまでは追ってこない。
数日後、馬車は辺境公爵領の城下町へと到着した。
活気はあるが、王都のような華美さはない。
人々の表情は素朴で、どこか落ち着いている。
「歓迎の準備は、最低限にするよう指示されております」
案内役の騎士が、少し申し訳なさそうに言った。
「……それで結構ですわ」
マルグリットは即座に答える。
「私は、歓迎されに来たのではありませんから」
その言葉に、騎士は一瞬驚いたような顔をした後、深く頷いた。
城に通されると、応接室には一人の男が立っていた。
フェリクス・フォン・グランツ。
書類でしか知らなかった辺境公爵が、目の前にいる。
背は高く、体格は鍛えられているが、威圧感はない。
派手さはないが、視線は鋭く、無駄がない。
「遠路、感謝します。マルグリット・フォン・ルーヴェン」
彼はそう言って、形式ばらない一礼をした。
「こちらこそ。お招きいただき、ありがとうございます」
互いに、余計な言葉はない。
それだけで、十分だった。
「まずは、条件の再確認を」
フェリクスは、席を勧めながら言う。
「あなたは政策顧問。私の補佐として意見を述べる立場です。決裁権は私にあります。責任の所在は明確にします」
「承知しています」
「拘束は最小限。必要以上に働くことは求めません」
その一言に、マルグリットの目が、ほんのわずかに細められた。
「……その条件を、守っていただけるのなら」
「守ります」
即答だった。
「私が求めているのは、あなたの判断力であって、あなたの時間や人生を奪うことではない」
その言葉に、マルグリットは深く息を吸う。
「……では、全力を尽くしますわ」
それは、これまで何度も口にしてきた言葉だ。
だが今回は、意味が違う。
誰かに命じられてではない。
期待に縛られてでもない。
自分で選び、納得した上での「全力」だった。
その日の夕方、マルグリットは城の一室に案内された。
「こちらが、執務用の部屋です」
案内役が示した部屋は、質素だが機能的だった。
過不足のない机と書棚。
窓からは、領地全体を見渡せる。
「……いい部屋ですね」
そう言うと、案内役は少し驚いたように笑った。
「そう言っていただけるとは。王宮の豪華さに慣れておられるかと」
「豪華さは、仕事を楽にしてくれませんから」
その言葉に、案内役は納得したように頷いた。
夜、マルグリットは一人、部屋の窓辺に立った。
遠くに灯る町の明かり。
静かな風。
王宮とは、まるで別の世界だ。
「……ここから、始めるのですね」
誰にともなく呟く。
一方、王宮では――。
「正式に着任した、だと?」
報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、呆然と立ち尽くしていた。
「はい。辺境公爵領の政策顧問として」
その言葉が、胸に重くのしかかる。
彼女は、もう「待っている存在」ではない。
誰かの決断を待つ必要もない。
マルグリットは、新しい場所で、新しい役割を得た。
――それは、取り戻せない距離が、確かに生まれた瞬間だった。
夜空を見上げるマルグリットの表情は、静かだった。
不安もある。
責任もある。
だが同時に、確かな感覚があった。
ここは――
彼女が、初めて「自分の足で立つ」場所なのだと。
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新しい人生へ。
歯車は、もう二度と、元の位置には戻らない。
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