9 / 40
第九話 価値を測る者
しおりを挟む
第九話 価値を測る者
辺境公爵領での生活が始まってから、五日が過ぎていた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、与えられた執務室で淡々と書類に目を通していた。
初日から山のように積まれていた案件は、決して少なくない。だが、それらは王宮で扱ってきたものと比べれば、むしろ整理されていると言えた。
「……無理のない構造ですね」
思わず口に出た言葉は、感嘆に近い。
辺境公爵領の行政は、中央ほど複雑ではない。
だが、その分、現場の声が直に上がってくる。
領民の生活、物流、治安、軍備――すべてが直結しており、一つの判断がすぐに結果として現れる。
だからこそ、曖昧な決定は許されない。
マルグリットは、ある報告書に目を留めた。
――北部街道の補修計画。
予算不足を理由に、延期が続いている。
「……これは」
数字を追い、過去の判断を確認する。
資金がないわけではない。ただ、優先順位が後回しにされているだけだ。
彼女は、簡単な試算を行い、別の資料と照らし合わせる。
「補修を先延ばしにすれば、輸送効率が落ちる。結果として税収が減り、結局は損失になる……」
ペンを走らせ、簡潔な意見書をまとめる。
――補修を前倒しすべき。
――短期的な支出は増えるが、中長期で回収可能。
――人員配置を調整すれば、追加負担は抑えられる。
それを持って、マルグリットはフェリクス・フォン・グランツの執務室を訪れた。
「入れ」
低い声に応じ、扉を開ける。
「失礼します」
「もう慣れたか」
フェリクスは書類から顔を上げ、簡潔に尋ねた。
「はい。思っていた以上に、現場が見えやすいです」
「それは良い」
彼は、余計な社交辞令を挟まない。
「意見があれば、遠慮なく言え」
マルグリットは頷き、先ほどまとめた意見書を差し出した。
「北部街道の補修についてです。延期が続いていますが、長期的には損失が大きいと判断しました」
フェリクスは、黙って目を通す。
室内に、紙をめくる音だけが響く。
王宮では、この沈黙が恐怖だった。
上の機嫌を伺い、言葉を選び、顔色を読み、沈黙の意味を測る。
だが、ここでは違う。
フェリクスは、ただ読んでいるだけだ。
「……なるほど」
やがて彼は顔を上げた。
「予算の再配分案も考えているか」
「はい。こちらです」
別の紙を差し出す。
「現行計画をすべて否定する必要はありません。優先順位を入れ替えるだけで、実行可能です」
フェリクスは、その案にも目を通し、短く息を吐いた。
「実務的だな」
それは、賞賛でも皮肉でもない。
ただの評価だった。
「王宮では、どうだった」
不意に問われ、マルグリットは一瞬だけ考える。
「……同じ意見を出しても、判断は別の場所でなされました」
「理由は」
「政治的配慮です」
フェリクスは、わずかに眉を動かした。
「つまり、合理性よりも立場を優先した」
「はい」
「この領では、それは通らない」
彼は断言する。
「領民の生活に直結する判断を、見栄や体裁で遅らせるつもりはない」
そして、机の上の書類に決裁印を押した。
「補修計画を前倒しで進めろ」
その一言で、決まった。
マルグリットは、内心で小さく息を吸う。
――これが、価値を測るということ。
感情でも、過去の立場でもない。
出した意見が、妥当かどうか。それだけで判断される。
「よろしいのですか。反対意見も出るかもしれません」
「出るだろう」
フェリクスは気にも留めない様子で言う。
「だが、説明できる。あなたの案ならな」
その言葉に、マルグリットは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ」
フェリクスは視線を戻す。
「あなたは、仕事をした。それだけだ」
執務室を出た後、マルグリットは廊下を歩きながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。
評価されること自体は、初めてではない。
だが、これほど自然に、当たり前のように受け止められた経験は、ほとんどなかった。
その日の夕方、城下町を視察する機会があった。
補修予定の街道を歩き、商人や職人の話を聞く。
「道が悪くてな、荷が遅れるんだ」
「直るなら、本当に助かる」
彼らの声は、率直だった。
マルグリットは、頷きながら話を聞く。
数字だけでは見えない現実が、そこにはあった。
「……判断は、間違っていませんでした」
自分自身に、そう言い聞かせる。
一方、王宮では。
「辺境公爵領で、もう成果を出しているそうです」
その報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、手を止めた。
「……何の成果だ」
「街道整備の前倒し決定です。商人たちからも評価が高いと」
ロイドは、無言で書類を見つめる。
かつて、同じような提案を受けたことがあった。
だが彼は、政治的配慮を理由に先送りにした。
――誰が、正しかったのか。
その答えは、もう明白だった。
夜、マルグリットは宿舎の部屋で一人、窓を開けた。
涼しい風が、心地よく頬を撫でる。
「……ここでは、ちゃんと測ってもらえる」
それは、能力だけではない。
考え方も、判断も、責任の取り方も。
価値を測る者がいる場所。
それが、彼女にとっての新しい居場所だった。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、静かに確信する。
――もう、戻る理由はない。
ここでなら、自分は“人”として働ける。
その実感が、確かに、胸に根を下ろし始めていた。
辺境公爵領での生活が始まってから、五日が過ぎていた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、与えられた執務室で淡々と書類に目を通していた。
初日から山のように積まれていた案件は、決して少なくない。だが、それらは王宮で扱ってきたものと比べれば、むしろ整理されていると言えた。
「……無理のない構造ですね」
思わず口に出た言葉は、感嘆に近い。
辺境公爵領の行政は、中央ほど複雑ではない。
だが、その分、現場の声が直に上がってくる。
領民の生活、物流、治安、軍備――すべてが直結しており、一つの判断がすぐに結果として現れる。
だからこそ、曖昧な決定は許されない。
マルグリットは、ある報告書に目を留めた。
――北部街道の補修計画。
予算不足を理由に、延期が続いている。
「……これは」
数字を追い、過去の判断を確認する。
資金がないわけではない。ただ、優先順位が後回しにされているだけだ。
彼女は、簡単な試算を行い、別の資料と照らし合わせる。
「補修を先延ばしにすれば、輸送効率が落ちる。結果として税収が減り、結局は損失になる……」
ペンを走らせ、簡潔な意見書をまとめる。
――補修を前倒しすべき。
――短期的な支出は増えるが、中長期で回収可能。
――人員配置を調整すれば、追加負担は抑えられる。
それを持って、マルグリットはフェリクス・フォン・グランツの執務室を訪れた。
「入れ」
低い声に応じ、扉を開ける。
「失礼します」
「もう慣れたか」
フェリクスは書類から顔を上げ、簡潔に尋ねた。
「はい。思っていた以上に、現場が見えやすいです」
「それは良い」
彼は、余計な社交辞令を挟まない。
「意見があれば、遠慮なく言え」
マルグリットは頷き、先ほどまとめた意見書を差し出した。
「北部街道の補修についてです。延期が続いていますが、長期的には損失が大きいと判断しました」
フェリクスは、黙って目を通す。
室内に、紙をめくる音だけが響く。
王宮では、この沈黙が恐怖だった。
上の機嫌を伺い、言葉を選び、顔色を読み、沈黙の意味を測る。
だが、ここでは違う。
フェリクスは、ただ読んでいるだけだ。
「……なるほど」
やがて彼は顔を上げた。
「予算の再配分案も考えているか」
「はい。こちらです」
別の紙を差し出す。
「現行計画をすべて否定する必要はありません。優先順位を入れ替えるだけで、実行可能です」
フェリクスは、その案にも目を通し、短く息を吐いた。
「実務的だな」
それは、賞賛でも皮肉でもない。
ただの評価だった。
「王宮では、どうだった」
不意に問われ、マルグリットは一瞬だけ考える。
「……同じ意見を出しても、判断は別の場所でなされました」
「理由は」
「政治的配慮です」
フェリクスは、わずかに眉を動かした。
「つまり、合理性よりも立場を優先した」
「はい」
「この領では、それは通らない」
彼は断言する。
「領民の生活に直結する判断を、見栄や体裁で遅らせるつもりはない」
そして、机の上の書類に決裁印を押した。
「補修計画を前倒しで進めろ」
その一言で、決まった。
マルグリットは、内心で小さく息を吸う。
――これが、価値を測るということ。
感情でも、過去の立場でもない。
出した意見が、妥当かどうか。それだけで判断される。
「よろしいのですか。反対意見も出るかもしれません」
「出るだろう」
フェリクスは気にも留めない様子で言う。
「だが、説明できる。あなたの案ならな」
その言葉に、マルグリットは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ」
フェリクスは視線を戻す。
「あなたは、仕事をした。それだけだ」
執務室を出た後、マルグリットは廊下を歩きながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。
評価されること自体は、初めてではない。
だが、これほど自然に、当たり前のように受け止められた経験は、ほとんどなかった。
その日の夕方、城下町を視察する機会があった。
補修予定の街道を歩き、商人や職人の話を聞く。
「道が悪くてな、荷が遅れるんだ」
「直るなら、本当に助かる」
彼らの声は、率直だった。
マルグリットは、頷きながら話を聞く。
数字だけでは見えない現実が、そこにはあった。
「……判断は、間違っていませんでした」
自分自身に、そう言い聞かせる。
一方、王宮では。
「辺境公爵領で、もう成果を出しているそうです」
その報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、手を止めた。
「……何の成果だ」
「街道整備の前倒し決定です。商人たちからも評価が高いと」
ロイドは、無言で書類を見つめる。
かつて、同じような提案を受けたことがあった。
だが彼は、政治的配慮を理由に先送りにした。
――誰が、正しかったのか。
その答えは、もう明白だった。
夜、マルグリットは宿舎の部屋で一人、窓を開けた。
涼しい風が、心地よく頬を撫でる。
「……ここでは、ちゃんと測ってもらえる」
それは、能力だけではない。
考え方も、判断も、責任の取り方も。
価値を測る者がいる場所。
それが、彼女にとっての新しい居場所だった。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、静かに確信する。
――もう、戻る理由はない。
ここでなら、自分は“人”として働ける。
その実感が、確かに、胸に根を下ろし始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる