7 / 40
第七話 静かな決断
しおりを挟む
第七話 静かな決断
辺境公爵領からの返書が、ルーヴェン家に届いたのは、穏やかな朝だった。
封蝋を見た瞬間、マルグリット・フォン・ルーヴェンは、それが誰からのものかを理解する。
簡素で無駄のない紋章――フェリクス・フォン・グランツ。
彼女は応接間の窓辺に腰を下ろし、静かに封を切った。
――政策顧問としての役割は、領政全体の監督補佐。
――決裁権は公爵に帰属し、責任の所在は明確にする。
――意見は忌憚なく述べてほしいが、最終判断は私が下す。
――拘束は最小限。必要以上に時間を奪うことはしない。
――条件が合わなければ、断っていただいて構わない。
読み進めるほどに、マルグリットの表情は変わらなかった。
だが、胸の奥に、確かな感覚が芽生えている。
――尊重されている。
能力を欲されることは、これまでもあった。
だが、意思を尊重される経験は、ほとんどなかった。
「……よく考えられていますわね」
王宮の要請は、いつも曖昧だった。
責任だけを押しつけ、権限は与えない。
失敗すれば彼女のせい、成功しても名は残らない。
だが、この書簡は違う。
役割と責任が分かれている。
上下関係はあっても、対話の余地がある。
そして何より、「必要以上に縛らない」と明言している。
それは、彼女にとって、初めて提示された“健全な条件”だった。
その日の午後、マルグリットは父と向かい合っていた。
「……辺境公爵領、か」
ルーヴェン侯は、書簡に目を通し、ゆっくりと頷く。
「悪くない話だ。いや、正直に言えば、王宮よりもずっと健全だな」
「お父様も、そう思われますか」
「当然だ。王宮は、お前を“便利な存在”として扱っていた」
父は、珍しく辛辣だった。
「お前がいなくなって初めて、その価値に気づいたようだが……遅すぎる」
マルグリットは、静かに頷く。
「私は、戻るつもりはありません」
「分かっている」
父は微笑む。
「ならば、自分で選べ。今度こそな」
その言葉が、背中を押した。
夕暮れ時、マルグリットは書斎に戻り、ペンを取った。
何度も書き直す必要はなかった。
彼女の中では、すでに答えが固まっている。
――条件、拝読いたしました。
――政策顧問の役割について、了承いたします。
――ただし、提示された条件を正式文書として取り交わした上で、着任したく存じます。
――私の判断が、公爵領の利益に資するよう、最善を尽くします。
それは、感情を交えない、簡潔な承諾だった。
だが、その裏には、確かな決意がある。
書簡を封じた瞬間、マルグリットはふと、王宮での日々を思い出した。
終わりの見えない会議。
眠れぬ夜。
評価されない努力。
「……もう、戻りません」
それは誰に向けた言葉でもない。
自分自身への、確認だった。
一方、王宮では――。
「辺境公爵領に、行く……?」
その報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、言葉を失っていた。
「正式に、だそうです。条件付きで」
側近の声が、遠く聞こえる。
――条件付き。
その言葉が、胸に突き刺さる。
かつて、自分は彼女に条件を示したことがあっただろうか。
ただ、「そばにいろ」「支えろ」「分かってくれるだろう」と、
一方的に期待していただけではなかったか。
「……なぜ、俺のところには来ない」
小さな呟きは、誰にも届かない。
マルグリットは、すでに別の場所で、自分の意思を選んだ。
それは、彼の手の届かないところで進む、静かな決断だった。
辺境公爵フェリクス・フォン・グランツは、返書を受け取り、短く息を吐いた。
「そうか」
それだけで、十分だった。
「歓迎の準備を。だが、過剰なことはするな」
彼女は、飾りではない。
必要なのは、静かに働ける場所だけだ。
その夜、マルグリットは窓を開け、外の空気を吸い込んだ。
王宮の高い壁は、もう見えない。
あるのは、広がる夜空と、新しい道。
静かな決断は、
彼女の人生を、確かに別の方向へと導き始めていた。
辺境公爵領からの返書が、ルーヴェン家に届いたのは、穏やかな朝だった。
封蝋を見た瞬間、マルグリット・フォン・ルーヴェンは、それが誰からのものかを理解する。
簡素で無駄のない紋章――フェリクス・フォン・グランツ。
彼女は応接間の窓辺に腰を下ろし、静かに封を切った。
――政策顧問としての役割は、領政全体の監督補佐。
――決裁権は公爵に帰属し、責任の所在は明確にする。
――意見は忌憚なく述べてほしいが、最終判断は私が下す。
――拘束は最小限。必要以上に時間を奪うことはしない。
――条件が合わなければ、断っていただいて構わない。
読み進めるほどに、マルグリットの表情は変わらなかった。
だが、胸の奥に、確かな感覚が芽生えている。
――尊重されている。
能力を欲されることは、これまでもあった。
だが、意思を尊重される経験は、ほとんどなかった。
「……よく考えられていますわね」
王宮の要請は、いつも曖昧だった。
責任だけを押しつけ、権限は与えない。
失敗すれば彼女のせい、成功しても名は残らない。
だが、この書簡は違う。
役割と責任が分かれている。
上下関係はあっても、対話の余地がある。
そして何より、「必要以上に縛らない」と明言している。
それは、彼女にとって、初めて提示された“健全な条件”だった。
その日の午後、マルグリットは父と向かい合っていた。
「……辺境公爵領、か」
ルーヴェン侯は、書簡に目を通し、ゆっくりと頷く。
「悪くない話だ。いや、正直に言えば、王宮よりもずっと健全だな」
「お父様も、そう思われますか」
「当然だ。王宮は、お前を“便利な存在”として扱っていた」
父は、珍しく辛辣だった。
「お前がいなくなって初めて、その価値に気づいたようだが……遅すぎる」
マルグリットは、静かに頷く。
「私は、戻るつもりはありません」
「分かっている」
父は微笑む。
「ならば、自分で選べ。今度こそな」
その言葉が、背中を押した。
夕暮れ時、マルグリットは書斎に戻り、ペンを取った。
何度も書き直す必要はなかった。
彼女の中では、すでに答えが固まっている。
――条件、拝読いたしました。
――政策顧問の役割について、了承いたします。
――ただし、提示された条件を正式文書として取り交わした上で、着任したく存じます。
――私の判断が、公爵領の利益に資するよう、最善を尽くします。
それは、感情を交えない、簡潔な承諾だった。
だが、その裏には、確かな決意がある。
書簡を封じた瞬間、マルグリットはふと、王宮での日々を思い出した。
終わりの見えない会議。
眠れぬ夜。
評価されない努力。
「……もう、戻りません」
それは誰に向けた言葉でもない。
自分自身への、確認だった。
一方、王宮では――。
「辺境公爵領に、行く……?」
その報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、言葉を失っていた。
「正式に、だそうです。条件付きで」
側近の声が、遠く聞こえる。
――条件付き。
その言葉が、胸に突き刺さる。
かつて、自分は彼女に条件を示したことがあっただろうか。
ただ、「そばにいろ」「支えろ」「分かってくれるだろう」と、
一方的に期待していただけではなかったか。
「……なぜ、俺のところには来ない」
小さな呟きは、誰にも届かない。
マルグリットは、すでに別の場所で、自分の意思を選んだ。
それは、彼の手の届かないところで進む、静かな決断だった。
辺境公爵フェリクス・フォン・グランツは、返書を受け取り、短く息を吐いた。
「そうか」
それだけで、十分だった。
「歓迎の準備を。だが、過剰なことはするな」
彼女は、飾りではない。
必要なのは、静かに働ける場所だけだ。
その夜、マルグリットは窓を開け、外の空気を吸い込んだ。
王宮の高い壁は、もう見えない。
あるのは、広がる夜空と、新しい道。
静かな決断は、
彼女の人生を、確かに別の方向へと導き始めていた。
84
あなたにおすすめの小説
【完結】無能に何か用ですか?
凛 伊緒
恋愛
「お前との婚約を破棄するッ!我が国の未来に、無能な王妃は不要だ!」
とある日のパーティーにて……
セイラン王国王太子ヴィアルス・ディア・セイランは、婚約者のレイシア・ユシェナート侯爵令嬢に向かってそう言い放った。
隣にはレイシアの妹ミフェラが、哀れみの目を向けている。
だがレイシアはヴィアルスには見えない角度にて笑みを浮かべていた。
ヴィアルスとミフェラの行動は、全てレイシアの思惑通りの行動に過ぎなかったのだ……
主人公レイシアが、自身を貶めてきた人々にざまぁする物語──
※現在、読者様が読み易いように文面を調整・加筆しております。
※ご感想・ご意見につきましては、近況ボードをご覧いただければ幸いです。
《皆様のご愛読、誠に感謝致しますm(*_ _)m
当初、完結後の番外編等は特に考えておりませんでしたが、皆様のご愛読に感謝し、書かせて頂くことに致しました。加筆等が終わり次第、番外編として物語の更新を予定しております。更新を今暫くお待ちくださいませ。 凛 伊緒》
これまでは悉く妹に幸せを邪魔されていました。今後は違いますよ?
satomi
恋愛
ディラーノ侯爵家の義姉妹の姉・サマンサとユアノ。二人は同じ侯爵家のアーロン=ジェンキンスとの縁談に臨む。もともとはサマンサに来た縁談話だったのだが、姉のモノを悉く奪う義妹ユアノがお父様に「見合いの席に同席したい」と懇願し、何故かディラーノ家からは二人の娘が見合いの席に。
結果、ユアノがアーロンと婚約することになるのだが…
【完結済】恋の魔法が解けた時 ~ 理不尽な婚約破棄の後には、王太子殿下との幸せな結婚が待っていました ~
鳴宮野々花@書籍4作品発売中
恋愛
侯爵令嬢のクラリッサは、幼少の頃からの婚約者であるダリウスのことが大好きだった。優秀で勤勉なクラリッサはダリウスの苦手な分野をさり気なくフォローし、助けてきた。
しかし当のダリウスはクラリッサの細やかな心遣いや愛を顧みることもなく、フィールズ公爵家の長女アレイナに心を移してしまい、無情にもクラリッサを捨てる。
傷心のクラリッサは長い時間をかけてゆっくりと元の自分を取り戻し、ようやくダリウスへの恋の魔法が解けた。その時彼女のそばにいたのは、クラリッサと同じく婚約者を失ったエリオット王太子だった。
一方様々な困難を乗り越え、多くの人を傷付けてまでも真実の愛を手に入れたと思っていたアレイナ。やがてその浮かれきった恋の魔法から目覚めた時、そばにいたのは公爵令息の肩書きだけを持った無能な男ただ一人だった─────
※※作者独自の架空の世界のお話ですので、その点ご理解の上お読みいただけると嬉しいです。
※※こちらの作品はカクヨム、小説家になろうにも投稿しています。
婚約を奪った義妹は王太子妃になりましたが、王子が廃嫡され“廃嫡王子の妻”になりました
鷹 綾
恋愛
「お姉様には、こちらの方がお似合いですわ」
そう言って私の婚約者を奪ったのは、可憐で愛らしい義妹でした。
王子に見初められ、王太子妃となり、誰もが彼女の勝利を疑わなかった――あの日までは。
私は“代わり”の婚約者を押し付けられ、笑いものにされ、社交界の端に追いやられました。
けれど、選ばれなかったことは、終わりではありませんでした。
華やかな王宮。
厳しい王妃許育。
揺らぐ王家の威信。
そして――王子の重大な過ち。
王太子の座は失われ、運命は静かに反転していく。
離縁を望んでも叶わない義妹。
肩書きを失ってなお歩き直す王子。
そして、奪われたはずの私が最後に選び取った人生。
ざまあは、怒鳴り声ではなく、選択の積み重ねで訪れる。
婚約を奪われた姉が、静かに価値を積み上げていく王宮逆転劇。
「価値がない」と言われた私、隣国では国宝扱いです
ゆっこ
恋愛
「――リディア・フェンリル。お前との婚約は、今日をもって破棄する」
高らかに響いた声は、私の心を一瞬で凍らせた。
王城の大広間。煌びやかなシャンデリアの下で、私は静かに頭を垂れていた。
婚約者である王太子エドモンド殿下が、冷たい眼差しで私を見下ろしている。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
「理由など、簡単なことだ。お前には“何の価値もない”からだ」
【完結済】王妃になりたかったのではありません。ただあなたの妻になりたかったのです。
鳴宮野々花@書籍4作品発売中
恋愛
公爵令嬢のフィオレンサ・ブリューワーは婚約者のウェイン王太子を心から愛していた。しかしフィオレンサが献身的な愛を捧げてきたウェイン王太子は、子爵令嬢イルゼ・バトリーの口車に乗せられフィオレンサの愛を信じなくなった。ウェイン王太子はイルゼを選び、フィオレンサは婚約破棄されてしまう。
深く傷付き失意のどん底に落ちたフィオレンサだが、やがて自分を大切にしてくれる侯爵令息のジェレミー・ヒースフィールドに少しずつ心を開きはじめる。一方イルゼと結婚したウェイン王太子はその後自分の選択が間違いであったことに気付き、フィオレンサに身勝手な頼みをする────
※この作品は小説家になろうにも投稿しています。
【完結】私から全てを奪った妹は、地獄を見るようです。
凛 伊緒
恋愛
「サリーエ。すまないが、君との婚約を破棄させてもらう!」
リデイトリア公爵家が開催した、パーティー。
その最中、私の婚約者ガイディアス・リデイトリア様が他の貴族の方々の前でそう宣言した。
当然、注目は私達に向く。
ガイディアス様の隣には、私の実の妹がいた──
「私はシファナと共にありたい。」
「分かりました……どうぞお幸せに。私は先に帰らせていただきますわ。…失礼致します。」
(私からどれだけ奪えば、気が済むのだろう……。)
妹に宝石類を、服を、婚約者を……全てを奪われたサリーエ。
しかし彼女は、妹を最後まで責めなかった。
そんな地獄のような日々を送ってきたサリーエは、とある人との出会いにより、運命が大きく変わっていく。
それとは逆に、妹は──
※全11話構成です。
※作者がシステムに不慣れな時に書いたものなので、ネタバレの嫌な方はコメント欄を見ないようにしていただければと思います……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる