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第四十話 静かな自由
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第四十話 静かな自由
朝の光が、辺境公爵領の屋敷をやわらかく満たしていた。
特別な日ではない。
祝賀も、儀式も、報告会もない。
それでも――
今日という日は、確かに節目だった。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、執務室の机に置かれた最後の書類に署名を終えた。
それは、権限委譲の最終確認書だ。
名前を書く手は、迷わない。
これで、彼女が担っていた判断のすべては、
規定と仕組みと、次の世代へと完全に移る。
「……終わりました」
そう呟く声は、驚くほど穏やかだった。
扉の向こうで待っていたフェリクス・フォン・グランツが、静かに入室する。
「顔色がいいな」
「ええ。
とても」
彼女は、机から離れ、窓辺へ歩く。
外では、いつもどおりの朝が始まっている。
役人が行き交い、
商人が店を開き、
子どもたちが笑いながら走っていく。
誰も、彼女を気に留めない。
それが、今は心地よかった。
「……これから、どうされますか」
フェリクスの問いに、マルグリットは少し考える。
「何もしません」
「それが、一番難しいな」
「ええ。でも――」
彼女は、微笑んだ。
「ずっと、望んでいたことです」
昼前、簡単な引き継ぎの場が設けられた。
形式的なものだ。
内容も、すでに共有されている。
「何か、最後にお言葉を」
そう求められ、マルグリットは一瞬だけ考え、首を横に振った。
「ありません」
場が、少しだけざわめく。
「もう、十分に話しました。
これからは――皆さんの番です」
それだけ言って、彼女は席を立つ。
拍手は、起こらない。
だが、誰も困惑もしない。
それでいい。
午後、彼女は荷物をまとめていた。
大きなものはない。
本を数冊。
筆記具。
個人的な手紙。
役職に紐づいたものは、何一つ持ち出さない。
「……本当に、行くんだな」
フェリクスが、半ば呆れたように言う。
「ええ。
戻る理由が、ありませんから」
「呼ばれることは、あるかもしれない」
「その時は、考えます」
彼女は、肩をすくめる。
「でも、今は――
自由でいたいのです」
夕方、屋敷を出る。
見送りは、ない。
告知も、ない。
ただ、一人の女性が、静かに門をくぐるだけだ。
城下町を抜ける途中、パン屋の前で足を止める。
「今日は、よく焼けてますよ」
店主が、いつもどおりに声をかける。
「では、それを一つ」
名前を呼ばれることもない。
肩書きを気にされることもない。
それが、何よりの証だった。
夜、宿の窓辺。
マルグリットは、灯りを落とし、外を眺めていた。
遠くに、辺境公爵領の灯が見える。
もう、自分の居場所ではない。
だが、否定する気持ちもない。
「……静かな自由」
小さく、そう呟く。
誰かに必要とされ続ける人生ではなく、
誰にも縛られない時間。
そのために、
彼女は、すべてを整えてきた。
外では、風が木々を揺らす。
世界は、今日も何事もなく回っている。
それでいい。
それが、最高だ。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、
初めて、
何の役割も持たない夜を迎えた。
――物語は、ここで終わる。
だが、
彼女の人生は、
ようやく、
本当の意味で始まったのだった。
朝の光が、辺境公爵領の屋敷をやわらかく満たしていた。
特別な日ではない。
祝賀も、儀式も、報告会もない。
それでも――
今日という日は、確かに節目だった。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、執務室の机に置かれた最後の書類に署名を終えた。
それは、権限委譲の最終確認書だ。
名前を書く手は、迷わない。
これで、彼女が担っていた判断のすべては、
規定と仕組みと、次の世代へと完全に移る。
「……終わりました」
そう呟く声は、驚くほど穏やかだった。
扉の向こうで待っていたフェリクス・フォン・グランツが、静かに入室する。
「顔色がいいな」
「ええ。
とても」
彼女は、机から離れ、窓辺へ歩く。
外では、いつもどおりの朝が始まっている。
役人が行き交い、
商人が店を開き、
子どもたちが笑いながら走っていく。
誰も、彼女を気に留めない。
それが、今は心地よかった。
「……これから、どうされますか」
フェリクスの問いに、マルグリットは少し考える。
「何もしません」
「それが、一番難しいな」
「ええ。でも――」
彼女は、微笑んだ。
「ずっと、望んでいたことです」
昼前、簡単な引き継ぎの場が設けられた。
形式的なものだ。
内容も、すでに共有されている。
「何か、最後にお言葉を」
そう求められ、マルグリットは一瞬だけ考え、首を横に振った。
「ありません」
場が、少しだけざわめく。
「もう、十分に話しました。
これからは――皆さんの番です」
それだけ言って、彼女は席を立つ。
拍手は、起こらない。
だが、誰も困惑もしない。
それでいい。
午後、彼女は荷物をまとめていた。
大きなものはない。
本を数冊。
筆記具。
個人的な手紙。
役職に紐づいたものは、何一つ持ち出さない。
「……本当に、行くんだな」
フェリクスが、半ば呆れたように言う。
「ええ。
戻る理由が、ありませんから」
「呼ばれることは、あるかもしれない」
「その時は、考えます」
彼女は、肩をすくめる。
「でも、今は――
自由でいたいのです」
夕方、屋敷を出る。
見送りは、ない。
告知も、ない。
ただ、一人の女性が、静かに門をくぐるだけだ。
城下町を抜ける途中、パン屋の前で足を止める。
「今日は、よく焼けてますよ」
店主が、いつもどおりに声をかける。
「では、それを一つ」
名前を呼ばれることもない。
肩書きを気にされることもない。
それが、何よりの証だった。
夜、宿の窓辺。
マルグリットは、灯りを落とし、外を眺めていた。
遠くに、辺境公爵領の灯が見える。
もう、自分の居場所ではない。
だが、否定する気持ちもない。
「……静かな自由」
小さく、そう呟く。
誰かに必要とされ続ける人生ではなく、
誰にも縛られない時間。
そのために、
彼女は、すべてを整えてきた。
外では、風が木々を揺らす。
世界は、今日も何事もなく回っている。
それでいい。
それが、最高だ。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、
初めて、
何の役割も持たない夜を迎えた。
――物語は、ここで終わる。
だが、
彼女の人生は、
ようやく、
本当の意味で始まったのだった。
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