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第7話 何もしていない、と言われるということ
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第7話 何もしていない、と言われるということ
王太子ユピテル・アストラが帰ったあと、ルクス公爵邸はいつも通りの静けさを取り戻していた。
噴水の水音は一定で、廊下を行き交う使用人の足音も控えめだ。
だが、ルナ・ルクスの内側は、珍しくざわついていた。
――何もしていない、ですか。
応接間で交わされた会話を、頭の中で何度もなぞる。
声の調子。
視線の向き。
言葉の選び方。
ユピテルは終始、丁寧だった。
尊大でもなく、乱暴でもない。
むしろ、誠実で、真面目で、非の打ちどころがない。
だからこそ、彼の言葉は余計に刺さる。
「王太子妃としての自覚を」
それは責めではない。
期待だ。
――前世で、一番重たかった種類の言葉。
ルナは、自室の椅子に腰を下ろし、背もたれに身を預けた。
力を抜いた瞬間、どっと疲労が押し寄せる。
思い返してみれば、彼女はこの数日、何一つ「目に見える成果」を出していない。
書類を作ったわけでも、命令を出したわけでも、数字を動かしたわけでもない。
ただ、
微笑み、
聞き、
空気を読み、
正解を選び続けただけだ。
――それが「何もしていない」と言われる。
前世の記憶が、ふと重なる。
会議を円滑に終わらせても、
トラブルを未然に防いでも、
評価されるのは「成果物」を出した人間だけ。
問題が起きなかった理由を作った人間は、
最初から数えられない。
「……本当に、そっくりですわね」
誰もいない部屋で、ルナは小さく笑った。
乾いた笑いだった。
その日の午後、彼女は久しぶりに何の予定も入れなかった。
読書も、散策も、来客もなし。
ただ、窓辺の椅子に座り、庭を眺める。
庭師たちが剪定をしている。
余分な枝を落とし、形を整え、風通しをよくする。
その仕事は、誰の目にも分かりやすい。
成果が、はっきりと形になる。
対して、自分の仕事はどうだろう。
社交の場で衝突を防いだこと。
無用な誤解を生まなかったこと。
空気を荒立てず、場を終わらせたこと。
それらはすべて、
起きなかった出来事として処理される。
――評価されないのも、当然ですわね。
夕方、侍女が紅茶を運んでくる。
今日の配合は、少し気持ちを落ち着かせるものだった。
「殿下は、いかがでしたか」
侍女の問いは控えめだが、意味は重い。
この屋敷にとって、王太子は「未来」そのものだから。
ルナは一拍置いて答える。
「とても、お忙しそうでしたわ」
嘘ではない。
そして、すべてを語らない、正解の返答でもある。
侍女はそれ以上踏み込まず、静かに下がった。
――誰も悪くない。
それが、なおさら厄介。
夜、書斎で帳簿を眺める。
これは彼女の「業務」ではない。
だが、自然と目が行く。
公爵領の収支は、安定している。
派手な増加はないが、落ち込みもない。
理由は分かっている。
商人が息をしている。
職人が仕事をしている。
人の流れが、滞っていない。
――私は、本当に何もしていないのかしら。
答えは、はっきりしている。
している。
だが、それは「見えない」。
ユピテルのやり方は、正しい。
彼は努力し、数字を追い、倹約を重ねている。
けれど彼の視線には、
流れが映っていない。
削ること。
締めること。
耐えること。
それは短期的には、美徳だ。
だが、長く続ければ、人も金も動かなくなる。
ルナは、紅茶を一口含み、静かに呟いた。
「何もしていない、と言われるということは……」
一度言葉を切り、続ける。
「私の仕事が、
あまりにも地味だということですわね」
それは誇りでもなく、卑下でもない。
ただの事実確認。
そして、心の奥で、はっきりと形を持ち始める。
――このままでは、
私は一生、
「何もしていない人間」として扱われる。
それは、
前世で最も嫌だった立場だ。
ルナ・ルクスは、静かに決意する。
まだ声に出すほどではない。
だが確かに、思考は次の段階へ進んでいた。
見えない仕事を、
評価されないまま続ける契約に、
私は縛られない。
それは反抗ではない。
逃避でもない。
前世の失敗を繰り返さないための、
ごく自然な判断だった。
そしてその判断が、
やがて――
婚約破棄という「解雇通知」へと、
つながっていくことになる。
王太子ユピテル・アストラが帰ったあと、ルクス公爵邸はいつも通りの静けさを取り戻していた。
噴水の水音は一定で、廊下を行き交う使用人の足音も控えめだ。
だが、ルナ・ルクスの内側は、珍しくざわついていた。
――何もしていない、ですか。
応接間で交わされた会話を、頭の中で何度もなぞる。
声の調子。
視線の向き。
言葉の選び方。
ユピテルは終始、丁寧だった。
尊大でもなく、乱暴でもない。
むしろ、誠実で、真面目で、非の打ちどころがない。
だからこそ、彼の言葉は余計に刺さる。
「王太子妃としての自覚を」
それは責めではない。
期待だ。
――前世で、一番重たかった種類の言葉。
ルナは、自室の椅子に腰を下ろし、背もたれに身を預けた。
力を抜いた瞬間、どっと疲労が押し寄せる。
思い返してみれば、彼女はこの数日、何一つ「目に見える成果」を出していない。
書類を作ったわけでも、命令を出したわけでも、数字を動かしたわけでもない。
ただ、
微笑み、
聞き、
空気を読み、
正解を選び続けただけだ。
――それが「何もしていない」と言われる。
前世の記憶が、ふと重なる。
会議を円滑に終わらせても、
トラブルを未然に防いでも、
評価されるのは「成果物」を出した人間だけ。
問題が起きなかった理由を作った人間は、
最初から数えられない。
「……本当に、そっくりですわね」
誰もいない部屋で、ルナは小さく笑った。
乾いた笑いだった。
その日の午後、彼女は久しぶりに何の予定も入れなかった。
読書も、散策も、来客もなし。
ただ、窓辺の椅子に座り、庭を眺める。
庭師たちが剪定をしている。
余分な枝を落とし、形を整え、風通しをよくする。
その仕事は、誰の目にも分かりやすい。
成果が、はっきりと形になる。
対して、自分の仕事はどうだろう。
社交の場で衝突を防いだこと。
無用な誤解を生まなかったこと。
空気を荒立てず、場を終わらせたこと。
それらはすべて、
起きなかった出来事として処理される。
――評価されないのも、当然ですわね。
夕方、侍女が紅茶を運んでくる。
今日の配合は、少し気持ちを落ち着かせるものだった。
「殿下は、いかがでしたか」
侍女の問いは控えめだが、意味は重い。
この屋敷にとって、王太子は「未来」そのものだから。
ルナは一拍置いて答える。
「とても、お忙しそうでしたわ」
嘘ではない。
そして、すべてを語らない、正解の返答でもある。
侍女はそれ以上踏み込まず、静かに下がった。
――誰も悪くない。
それが、なおさら厄介。
夜、書斎で帳簿を眺める。
これは彼女の「業務」ではない。
だが、自然と目が行く。
公爵領の収支は、安定している。
派手な増加はないが、落ち込みもない。
理由は分かっている。
商人が息をしている。
職人が仕事をしている。
人の流れが、滞っていない。
――私は、本当に何もしていないのかしら。
答えは、はっきりしている。
している。
だが、それは「見えない」。
ユピテルのやり方は、正しい。
彼は努力し、数字を追い、倹約を重ねている。
けれど彼の視線には、
流れが映っていない。
削ること。
締めること。
耐えること。
それは短期的には、美徳だ。
だが、長く続ければ、人も金も動かなくなる。
ルナは、紅茶を一口含み、静かに呟いた。
「何もしていない、と言われるということは……」
一度言葉を切り、続ける。
「私の仕事が、
あまりにも地味だということですわね」
それは誇りでもなく、卑下でもない。
ただの事実確認。
そして、心の奥で、はっきりと形を持ち始める。
――このままでは、
私は一生、
「何もしていない人間」として扱われる。
それは、
前世で最も嫌だった立場だ。
ルナ・ルクスは、静かに決意する。
まだ声に出すほどではない。
だが確かに、思考は次の段階へ進んでいた。
見えない仕事を、
評価されないまま続ける契約に、
私は縛られない。
それは反抗ではない。
逃避でもない。
前世の失敗を繰り返さないための、
ごく自然な判断だった。
そしてその判断が、
やがて――
婚約破棄という「解雇通知」へと、
つながっていくことになる。
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