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第十六話 辺境伯の申し出
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フェデリカが穏やかな日々を送っている頃、レナートはとても疲弊していた。
エカチェリーナ皇女は、わかりやすくレナートに迫ってくるのだ。頻繁なボディタッチに猫なで声、気づくなという方が無理な話だ。同時に交易についての再検討を要求してくる官吏たちの対処、所轄領の災害対策、立太子の準備など、やることは目白押しであった。
レナートは机の隅に放り出した手紙のことを思う。
大学に帰還したフェデリカとは、5日に一度の頻度で手紙のやりとりをしている。この前の手紙には、好きな人が出来たらご自由に、と書いてあった。
——共犯者と思っていたのだが。
神殿法に基づき、愛人は禁止されている。貴族階級では妾や側室について暗黙の了解があり、砂の皇国に至ってはその部分だけ削除した都合のいい神殿法を用いているが、神殿の不興を買うことは間違いない。レナートを気遣ったつもりかもしれないが、逆効果である。思わず破り捨てたくなった。
——送り出したはいいが、婚約者が不在というのもなかなか不自由だな。
周囲の者は婚姻無効計画など知らないので、令嬢に王妃教育をさせろ、大学などやめさせろ、と口うるさく騒いでいる。それだけならまだいい方で、レナートの寝室に娘を送り込んだり媚薬を盛ったりと、手段問わず婚約者を挿げ替えようとする猛者もおり、気を抜く暇がなかった。辺境伯家当主らが王都にいないのは、むしろ幸いだったかもしれない。砂漠の民と交戦する彼らに手出ししようという愚か者は、今のところ現れていない。
従者には婚約者を呼び戻しては、と何度か提言されたが、そのつもりはなかった。国王から遠ざけたいのが第一の理由だが、楽しそうに研究のことを話していた彼女を大学から離れさせるのは惜しいというのが第二だ。
「――どうかされましたか、殿下」
「......いえ。少し、ぼうっとしてしまいました。失礼を」
エカチェリーナとの晩餐である。レナートは気を引き締めて笑みを浮かべた。
「殿下はお忙しいですもの、仕方ありませんわ。領地の管轄に外交政策に、おひとりでは大変ではありませんか? 婚約者の方がいらっしゃればいいのに」
「幸い、頼りになる側近は多数おりますから」
「そうですか。殿下の人望あってのこと、素晴らしいですわね」
エカチェリーナとは相変わらず世間話が続いている。王都観光の話や帝国の話も、ここ数日で何度か聞いていた。当たり障りない会話に時折混ぜられた探りを躱し、レナートは微笑みを浮かべ続ける。
「殿下は心を捧げた方がいると伺っておりましたから、婚約なさると聞いて驚きましたわ。お辛くはありませんの?」
「いえ。アンヌンツィアータ令嬢は博識で、言葉を交わすだけでも楽しさを感じます」
「まあ、そうでしたか。確かご令嬢はキエザ大学に通われているのですよね」
「ええ、物理学を専攻していて、論文も書いておられますよ」
「ご令嬢は勇敢な方ですわね」
大学と勇敢が結びつかずレナートが首を傾げると、エカチェリーナの唇が弧を描いた。
「我が国ではまだ女性に学問の自由が認められず、少しでも男性と違う発言をすれば白い目で見られるのです。こちらでもまだそのような風潮が残っていると聞きましたが、ご令嬢は周囲の声を物ともせず、己が道を自由に進まれているのですね」
貴族子女としての最大の責務である結婚、出産もしていないフェデリカへの当てこすりである。
レナートは貴族議会の後、道に迷っている彼女に声をかけた時のことを思い出した。
目を輝かせて研究内容を語った彼女は、貴族議会の当初、淡々と老伯爵の言葉に反論した姿とは別人のようだった。
知らず、レナートの口元には笑みが浮かんでいた。
「――ええ。物理学のことを語っている時の彼女は可愛いんですよ。同時に、私にはとても眩しく見えます」
エカチェリーナは目を見開いた。
「......左様ですか。殿下は二つの心をお持ちなのですね。ご令嬢に心を捧げる日も遠くなさそうですわ」
「そうかもしれません」
浮気性と罵られたようだが、偽りに偽りを重ねているだけなので何とも思わなかった。
晩餐を終えてレナートが部屋に戻った直後、侍従が慌てた様子で入室してきた。
「――辺境伯家当主が?」
アンヌンツィアータ辺境伯家当主——フェデリカの養父が謁見を求めているという報せであった。
***
「王弟殿下に拝謁いたします」
黒い髪と瞳、筋骨隆々な体つき。片足を引きずっているのは、戦争の後遺症だという。研究熱心なフェデリカとはあまり似ていない、彼女の伯父。
「面を上げよ。アンヌンツィアータ当主、此度は如何した」
「突然の訪問と相成りましたこと、誠に申し訳なく存じます。一時停戦まで持ち込みましたので、ご報告に上がりました」
「そうか! 流石は武門のアンヌンツィアータ家だ。後程陛下に奏上し、褒美を取らせよう」
砂漠の民は砂の皇国と我が国の間の交易路上に暮らす流浪の民だ。王朝の交代と前後して攻撃的になり、こと我が国の東方で略奪行為が行われていた。アンヌンツィアータ家に討伐命令が下ったのが20年前のこと、元いた部族と血縁関係のある部族も加わり、戦線は長い間膠着していた。
「ありがとう存じます。また、ひとつ殿下にお願いしたき儀がございます」
「なんであろうか」
「我が養女フェデリカとの婚約を、どうか解消していただきたい」
その声はどこまでも静謐で、レナートは束の間黙り込んだ。
「......王命でのものと分かってのことか」
「はい。ですがこの婚約で王家がなんら利益を得ることがないこともまた事実であります」
「ああ。しかし陛下が頑として譲らぬ」
「破棄という形でも構いません。養女が失態を犯しただとか、不妊であるとか......養女の名誉はこの際お捨て置きください」
レナートは眉を寄せた。確かにフェデリカは名誉など気にしなさそうであるが、ここまで当主が言い切るのは不可思議なことに思われた。
「なぜそうも婚約解消を願う。王家に利益はなくとも、辺境伯家には悪い話ではなかろう」
「はい。しかし養女には好きな道を歩んでほしいと思っているのです。大学で研究しているのが、一番性に合うでしょう」
「確かにそうであろうな」
「であれば」
「しかし、私も再三奏上し、イゾラ公にもとりなしてもらったが、王命の撤回は終ぞ叶わなかった。貴公の願いを叶えることは困難であろう」
当主は黙り込んだ。
「......では、どうか白い結婚を貫いていただきたい」
「辺境伯」
「さすれば養女は自由になれるでしょう」
奇しくも養女と同じことを望んだが、その瞳には欲求よりも疲弊の色が濃い。
「......なぜそうも令嬢を自由にせんと望む」
当主はふ、と笑んだ。自嘲の笑みのようにも見えた。
「あの子は妹が遺した最後の縁です。私は妹に苦労をかけたことを悔やんでいる。その分、姪には好きに生きてほしい。おかしなことでしょうか」
「......相分かった。当主の提案も検討しておく」
ありがとうございます、と深く頭を下げて当主は下がった。
——何か、あるな。
当主は何かを隠している。しかし何をなのかが分からない。
レナートは影を呼び、これまでの辺境伯家の動向を探るように命じた。
エカチェリーナ皇女は、わかりやすくレナートに迫ってくるのだ。頻繁なボディタッチに猫なで声、気づくなという方が無理な話だ。同時に交易についての再検討を要求してくる官吏たちの対処、所轄領の災害対策、立太子の準備など、やることは目白押しであった。
レナートは机の隅に放り出した手紙のことを思う。
大学に帰還したフェデリカとは、5日に一度の頻度で手紙のやりとりをしている。この前の手紙には、好きな人が出来たらご自由に、と書いてあった。
——共犯者と思っていたのだが。
神殿法に基づき、愛人は禁止されている。貴族階級では妾や側室について暗黙の了解があり、砂の皇国に至ってはその部分だけ削除した都合のいい神殿法を用いているが、神殿の不興を買うことは間違いない。レナートを気遣ったつもりかもしれないが、逆効果である。思わず破り捨てたくなった。
——送り出したはいいが、婚約者が不在というのもなかなか不自由だな。
周囲の者は婚姻無効計画など知らないので、令嬢に王妃教育をさせろ、大学などやめさせろ、と口うるさく騒いでいる。それだけならまだいい方で、レナートの寝室に娘を送り込んだり媚薬を盛ったりと、手段問わず婚約者を挿げ替えようとする猛者もおり、気を抜く暇がなかった。辺境伯家当主らが王都にいないのは、むしろ幸いだったかもしれない。砂漠の民と交戦する彼らに手出ししようという愚か者は、今のところ現れていない。
従者には婚約者を呼び戻しては、と何度か提言されたが、そのつもりはなかった。国王から遠ざけたいのが第一の理由だが、楽しそうに研究のことを話していた彼女を大学から離れさせるのは惜しいというのが第二だ。
「――どうかされましたか、殿下」
「......いえ。少し、ぼうっとしてしまいました。失礼を」
エカチェリーナとの晩餐である。レナートは気を引き締めて笑みを浮かべた。
「殿下はお忙しいですもの、仕方ありませんわ。領地の管轄に外交政策に、おひとりでは大変ではありませんか? 婚約者の方がいらっしゃればいいのに」
「幸い、頼りになる側近は多数おりますから」
「そうですか。殿下の人望あってのこと、素晴らしいですわね」
エカチェリーナとは相変わらず世間話が続いている。王都観光の話や帝国の話も、ここ数日で何度か聞いていた。当たり障りない会話に時折混ぜられた探りを躱し、レナートは微笑みを浮かべ続ける。
「殿下は心を捧げた方がいると伺っておりましたから、婚約なさると聞いて驚きましたわ。お辛くはありませんの?」
「いえ。アンヌンツィアータ令嬢は博識で、言葉を交わすだけでも楽しさを感じます」
「まあ、そうでしたか。確かご令嬢はキエザ大学に通われているのですよね」
「ええ、物理学を専攻していて、論文も書いておられますよ」
「ご令嬢は勇敢な方ですわね」
大学と勇敢が結びつかずレナートが首を傾げると、エカチェリーナの唇が弧を描いた。
「我が国ではまだ女性に学問の自由が認められず、少しでも男性と違う発言をすれば白い目で見られるのです。こちらでもまだそのような風潮が残っていると聞きましたが、ご令嬢は周囲の声を物ともせず、己が道を自由に進まれているのですね」
貴族子女としての最大の責務である結婚、出産もしていないフェデリカへの当てこすりである。
レナートは貴族議会の後、道に迷っている彼女に声をかけた時のことを思い出した。
目を輝かせて研究内容を語った彼女は、貴族議会の当初、淡々と老伯爵の言葉に反論した姿とは別人のようだった。
知らず、レナートの口元には笑みが浮かんでいた。
「――ええ。物理学のことを語っている時の彼女は可愛いんですよ。同時に、私にはとても眩しく見えます」
エカチェリーナは目を見開いた。
「......左様ですか。殿下は二つの心をお持ちなのですね。ご令嬢に心を捧げる日も遠くなさそうですわ」
「そうかもしれません」
浮気性と罵られたようだが、偽りに偽りを重ねているだけなので何とも思わなかった。
晩餐を終えてレナートが部屋に戻った直後、侍従が慌てた様子で入室してきた。
「――辺境伯家当主が?」
アンヌンツィアータ辺境伯家当主——フェデリカの養父が謁見を求めているという報せであった。
***
「王弟殿下に拝謁いたします」
黒い髪と瞳、筋骨隆々な体つき。片足を引きずっているのは、戦争の後遺症だという。研究熱心なフェデリカとはあまり似ていない、彼女の伯父。
「面を上げよ。アンヌンツィアータ当主、此度は如何した」
「突然の訪問と相成りましたこと、誠に申し訳なく存じます。一時停戦まで持ち込みましたので、ご報告に上がりました」
「そうか! 流石は武門のアンヌンツィアータ家だ。後程陛下に奏上し、褒美を取らせよう」
砂漠の民は砂の皇国と我が国の間の交易路上に暮らす流浪の民だ。王朝の交代と前後して攻撃的になり、こと我が国の東方で略奪行為が行われていた。アンヌンツィアータ家に討伐命令が下ったのが20年前のこと、元いた部族と血縁関係のある部族も加わり、戦線は長い間膠着していた。
「ありがとう存じます。また、ひとつ殿下にお願いしたき儀がございます」
「なんであろうか」
「我が養女フェデリカとの婚約を、どうか解消していただきたい」
その声はどこまでも静謐で、レナートは束の間黙り込んだ。
「......王命でのものと分かってのことか」
「はい。ですがこの婚約で王家がなんら利益を得ることがないこともまた事実であります」
「ああ。しかし陛下が頑として譲らぬ」
「破棄という形でも構いません。養女が失態を犯しただとか、不妊であるとか......養女の名誉はこの際お捨て置きください」
レナートは眉を寄せた。確かにフェデリカは名誉など気にしなさそうであるが、ここまで当主が言い切るのは不可思議なことに思われた。
「なぜそうも婚約解消を願う。王家に利益はなくとも、辺境伯家には悪い話ではなかろう」
「はい。しかし養女には好きな道を歩んでほしいと思っているのです。大学で研究しているのが、一番性に合うでしょう」
「確かにそうであろうな」
「であれば」
「しかし、私も再三奏上し、イゾラ公にもとりなしてもらったが、王命の撤回は終ぞ叶わなかった。貴公の願いを叶えることは困難であろう」
当主は黙り込んだ。
「......では、どうか白い結婚を貫いていただきたい」
「辺境伯」
「さすれば養女は自由になれるでしょう」
奇しくも養女と同じことを望んだが、その瞳には欲求よりも疲弊の色が濃い。
「......なぜそうも令嬢を自由にせんと望む」
当主はふ、と笑んだ。自嘲の笑みのようにも見えた。
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