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第2章 ――揺れる想いと、新しい婚約者
8話
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そんな話から数日後の午前。小綺麗に整えられた応接室に、私は一人で座っていた。サラや両親、ほかの使用人たちは控え室に下がっている。先方の到着を待っている状態だ。
――リリアナ・クラウゼ。
レオンの新しい婚約者。どんな女性なのか、母から説明を受けてもまだ想像がつかない。どこかで、怖さのようなものを感じている。
もともと私が「婚約者」としての立場を失ったにせよ、リリアナのほうも快くは思っていないかもしれない。十年ぶりに目覚めた“かつての婚約者”が急に現れたら、誰だって複雑な気持ちになるはずだ。
応接室の時計が、静かな音を刻む。妙に息苦しく感じられて、一度深呼吸をしたときだった。ドアの外で控えていたメイドが、「お客様がお見えです」と声をかけてくれた。
「……はい、どうぞ」
ドアが開き、静かな足取りが聞こえる。私が緊張で声も出せずにいると、現れたのは――想像以上に美しい令嬢だった。
リリアナ・クラウゼは、母の言うとおり、洗練された物腰と気品を備えた女性だった。背はそこまで高くないが、スラリとした姿勢、落ち着いた振る舞い。淡い琥珀色の髪をきちんとまとめていて、優雅なドレスを着こなし、まるで見本のように完璧な貴族令嬢という印象を受ける。
「初めまして。アーシア・ロウェル様……でいらっしゃいますね?」
耳に心地よい、上品な声。私はすぐに立ち上がろうとしてバランスを崩しかけたが、どうにか踏みとどまる。まだ体に力が入りきらない。
「ご、ごめんなさい……今、リハビリ中で、ちょっとよろけてしまって……。あの……アーシア・ロウェルです。本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
私は一応、礼をするように頭を下げる。社交的なマナーは子供の頃に習っていたが、十年のブランクがあるせいで手順も曖昧だ。かえってぎこちない動きになってしまった。
リリアナは微かな驚きの表情を見せながらも、すぐににこりと優雅に微笑んだ。
「お体がまだ本調子ではないと伺っています。無理なさらないでくださいね。――リリアナ・クラウゼと申します。そちらに座ってもよろしいでしょうか?」
「あ、はい……もちろん」
私は焦りながら座り直し、リリアナを向かいの椅子へと促す。こういう場面に慣れているのだろう。彼女の動作は一つひとつが流れるようにスムーズで、私とはまるで対照的だ。
サラがさっとお茶と菓子を用意し、テーブルに並べていく。リリアナはティーカップを手に取り、香りを楽しむように軽く目を閉じた。
「……ありがとうございます。さすがロウェル伯爵家、茶葉の扱いも優雅ですね」
柔らかなほめ言葉に、私はどう返事をすればいいか戸惑う。それが表情に出たのか、リリアナはすぐに本題へと切り替えるように口を開いた。
「本日は、突然の訪問にもかかわらず、こうしてお時間をいただき感謝いたします。私、実は……以前からアーシア様のことを、一度直接お会いして確認したいと思っていました」
「え……私のことを、確認……?」
リリアナは言葉を選ぶかのように一瞬視線を落とす。そこには敵意というより、何か決意のようなものが感じられた。
「ええ。もちろん、失礼を承知で申し上げます。レオン様――いえ、レオンが、過去にどんな方と婚約していたのか、どんな想いを抱いていたのか、それを知らずに私が彼の隣を歩くことは……私自身、納得できなかったものですから」
淡々とした語り口だが、その裏には確かな信念があるとわかる。リリアナは続ける。
「レオンがアーシア様のことを想っていたのは、彼の言葉や行動から、私も痛いほど理解していました。ですから、こうして目覚められたと聞いて、本当に驚いたのです。どのような奇跡が起こったのかと……」
「奇跡、か……そうかもしれないね。私も……まさか自分が目覚めるなんて、思ってもいなかったから……」
リリアナは微かにうなずき、言葉を継ぐ。
「アーシア様が10年の眠りから目覚めたという知らせを聞いたとき、最初は正直、不安でした。……もし彼の心が揺れてしまったら、どうしようって」
彼女の口調は毅然としているが、その瞳には揺らぎがあるように感じた。やはり、私という存在が彼女の中に大きな不安を与えているのだろう。
私が何も言えずにいると、リリアナはそこではっきりと微笑み、言った。
「けれど、いざこうしてお会いして思うのです。――アーシア様を目の前にして、私はどこか安心している、と」
「安、心……?」
意外な言葉だった。彼女は私を警戒しているのではないだろうか。少なくとも、私がリリアナの立場なら、元婚約者が戻ってくるなんて穏やかではいられないはずだ。
リリアナは静かにティーカップを置き、そのまま視線を私に向けた。
「アーシア様の瞳を見ればわかります。いまのあなたは、まだ外の世界に慣れていない。自分が失った十年という時間を、どう扱っていいか迷っている。……申し訳ないのですが、少なくとも『私の婚約者を奪おう』という強い感情をお持ちではないように感じられます」
「……っ」
言い返せない。なぜなら、彼女の言うとおりだからだ。私はレオンへの想いを完全に消し去ったわけではない。しかし、だからといって今のレオンを取り戻すために行動する意欲があるかといえば、正直そこまで気持ちに整理がつかないのだ。
「私は少し安心しました。そして、同時に……あなたの気持ちを考えると、胸が痛むのです」
リリアナの瞳に、一瞬だけ憐憫の色が宿る。それを見た瞬間、私は何とも言えない居心地の悪さを感じた。
「私の気持ち……?」
「ええ。十年もの間、眠り続けて、目覚めたら世界が変わっていた。……心は10歳のままなのに、身体は大人になってしまった。そんな状態で、かつての婚約者に新しい婚約者がいる、と知ったのですもの。何をどう思えばいいのか、混乱するのも当然です」
その通りだ。まるで私の胸の内をすべて見透かされたようで、思わず息が詰まる。彼女がここまで私の気持ちに寄り添うような言葉をくれるとは、正直予想していなかった。
「……そう、だね……。私、本当にどうしたいのかもわからなくて……。ただ、あなたには……申し訳ないというか……」
「謝らないでください。……あなたが悪いわけではありません」
リリアナはそう言いながら、穏やかに首を振った。
「もともと、レオンとあなたは結婚するはずだった。それが叶わなかったのは、事故という不可抗力によるもの。――だから、私のほうこそ、あなたに対して負い目を感じる面があるのです」
「負い目……?」
「ええ。私がレオンと婚約したのは、そうしなければ彼を“救えなかった”から。アルヴェルト家の跡取り問題のため、レオンに降りかかった重圧は、とても大きなものでした。彼がいくら『アーシアを待ちたい』と言っても、周囲は納得しなかったのです。『どれだけ待てばいいのか』という声が日に日に強くなっていって……」
リリアナは軽く唇を噛みしめ、回想するように瞳を伏せる。
「私の家も名家と呼ばれる家柄ですから、彼の婚約者として申し分ないとみなされました。私は……レオンを好きでしたし、だからこそ手を取り合いたいと思っていました。でも、そんな私の想いより先に、周囲の思惑がどんどん形になっていって……」
――なるほど。彼女自身も、周囲の圧力で半ば強引にレオンとの婚約を進められたという面があったのかもしれない。もちろん、レオンへの好意があったのだとしても、一筋縄ではいかなかったのだろう。
「レオンもずっと、あなたのことを忘れられない様子でした。少なくとも、私が婚約するまでの間、たびたびロウェル伯爵家を訪れていたみたいですから。それを見ているのは辛かった。私が彼の心をすべて奪える自信なんて、ありませんでした」
――リリアナは苦しそうに微笑む。そこには、彼女なりのせつない恋があるのだ。子供の頃からの想いを胸に抱きながら、しかしレオンの過去の婚約者である私の存在を常に感じていた。
自分だけが苦しかったのではない。この人もまた、それぞれの立場で傷つきながら、レオンを支えようとしてきたのだ。
「でも、時が経つにつれ、レオンもようやくあなたのことを『思い出』として折り合いをつけようとしてくれた。だから私も、勇気を出して、彼を想う気持ちを伝えたのです。……それで、やっと婚約が結ばれた。最初は形だけでも、そのうちお互い本当に愛し合えるようになると信じて……」
リリアナの口ぶりには、強い決意と愛情がにじんでいる。私は、その言葉を否定できない。むしろ、この人だからこそ、レオンは婚約に踏み切れたのだろう、とさえ思えてしまう。
「そこへ、あなたが目覚めた。私としては……嬉しいような、怖いような、とても複雑な気持ちでした。レオンはどんな反応をするのか、あなたは何を想うのか……。けれど、こうして直接お会いして、あなたの優しさに触れると……自分が思っていた以上に、あなたの存在が大きかったと痛感します」
リリアナはそう言うと、すっと椅子から立ち上がった。私もつられて立ち上がろうとしたが、まだ少し足元に力が入らず、よろめく。すぐに彼女が手を差し伸べて支えてくれた。
「あ……ごめん、ありがとう……」
「いえ。怪我はありませんか?」
彼女の手は温かく、支える力はしっかりしている。まるで今の私に足りないものを、すべて持っているような人だ、と改めて感じた。
「……リリアナ嬢。あの……私、本当に何もわからないままここにいるだけで……あなたに言えることは、正直あまりないんです」
支えられながら、私は本音を口にする。彼女に対して「レオンを返して」なんて言う権利が、今の私にあるはずもない。かといって、「あなたたちを祝福する」というには、心の整理が追いついていない。
リリアナはそっと私の手を握り返す。表情は硬いが、そこには敵意が感じられない。むしろ、同じ「レオンを大事に想う者同士」の対話のようにも思えた。
「いいえ。それでも、あなたが『今』の自分として、どう生きるかを模索しているのが伝わってきます。私は……あなたの敵ではありません。ただ、あなたの存在が、私に試練を与えているのも事実です」
「試練、って……?」
「私が真にレオンの隣に立つべき人間なのか、彼の心を支えられるのか。それが問われる、という意味での試練です。……あなたが戻ってきたという現実を、私もレオンも乗り越えなければならない」
その言葉に、胸がざわめく。リリアナの視線は、どこまでも澄んでいて揺るぎない。私は思わず息を飲んだ。
「ですから、どうかあなたも……焦らずに、ご自身の気持ちを見極めてください。あなたは私たちの婚約関係を妨害するつもりがないのか、それともレオンを取り戻したいと思うのか。そのどちらも、私には止める資格はないのですから」
――優雅な口調とは裏腹に、なんと強い意志を持った言葉だろう。それを言えるだけの度量を、彼女は備えているのだ。
私はしばらく言葉に詰まったあと、真摯に答えた。
「……ごめんなさい。私、自分の気持ちがまだよくわからない。レオンを取り戻したいっていうのは、正直わからない。でも、もう婚約解消されてるのに、まだ特別な存在だと感じてしまうのも事実で……」
「わかります。あなただけでなく、レオンも同じくらい戸惑っているでしょう。なにしろ、10年ぶりにあなたが戻ってきたのですもの」
リリアナは微笑みながらそう言うと、私の手を離して深々と礼をした。
「貴重なお時間を、ありがとうございました。お身体を大事にしてくださいね。もしまたお会いする機会がありましたら、そのときはどうか、もう少し……元気になった姿を見せていただければ幸いです」
「……ええ、ぜひ……」
私も頭を下げて見送る。リリアナは背筋を伸ばし、優雅な足取りで部屋を出ていった。
部屋には、しんと静かな空気だけが残る。ほんの短い対面だったのに、心は大きく揺さぶられていた。
――ああ、なんて人だろう。彼女の気高さや思いやり、強さ……どれをとっても、まだ子供の心のままの私には、到底かなわないと思ってしまう。
それでも、彼女の言葉の一つひとつは、決して私を傷つけるためではなく、互いに正面から向き合うためのものだと感じた。だからこそ、私は余計に複雑な感情を抱えてしまう。
「どうしたいんだろう、私……」
ぽつりと漏れた呟きが、静まり返った応接室に小さく響いた。
――リリアナ・クラウゼ。
レオンの新しい婚約者。どんな女性なのか、母から説明を受けてもまだ想像がつかない。どこかで、怖さのようなものを感じている。
もともと私が「婚約者」としての立場を失ったにせよ、リリアナのほうも快くは思っていないかもしれない。十年ぶりに目覚めた“かつての婚約者”が急に現れたら、誰だって複雑な気持ちになるはずだ。
応接室の時計が、静かな音を刻む。妙に息苦しく感じられて、一度深呼吸をしたときだった。ドアの外で控えていたメイドが、「お客様がお見えです」と声をかけてくれた。
「……はい、どうぞ」
ドアが開き、静かな足取りが聞こえる。私が緊張で声も出せずにいると、現れたのは――想像以上に美しい令嬢だった。
リリアナ・クラウゼは、母の言うとおり、洗練された物腰と気品を備えた女性だった。背はそこまで高くないが、スラリとした姿勢、落ち着いた振る舞い。淡い琥珀色の髪をきちんとまとめていて、優雅なドレスを着こなし、まるで見本のように完璧な貴族令嬢という印象を受ける。
「初めまして。アーシア・ロウェル様……でいらっしゃいますね?」
耳に心地よい、上品な声。私はすぐに立ち上がろうとしてバランスを崩しかけたが、どうにか踏みとどまる。まだ体に力が入りきらない。
「ご、ごめんなさい……今、リハビリ中で、ちょっとよろけてしまって……。あの……アーシア・ロウェルです。本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
私は一応、礼をするように頭を下げる。社交的なマナーは子供の頃に習っていたが、十年のブランクがあるせいで手順も曖昧だ。かえってぎこちない動きになってしまった。
リリアナは微かな驚きの表情を見せながらも、すぐににこりと優雅に微笑んだ。
「お体がまだ本調子ではないと伺っています。無理なさらないでくださいね。――リリアナ・クラウゼと申します。そちらに座ってもよろしいでしょうか?」
「あ、はい……もちろん」
私は焦りながら座り直し、リリアナを向かいの椅子へと促す。こういう場面に慣れているのだろう。彼女の動作は一つひとつが流れるようにスムーズで、私とはまるで対照的だ。
サラがさっとお茶と菓子を用意し、テーブルに並べていく。リリアナはティーカップを手に取り、香りを楽しむように軽く目を閉じた。
「……ありがとうございます。さすがロウェル伯爵家、茶葉の扱いも優雅ですね」
柔らかなほめ言葉に、私はどう返事をすればいいか戸惑う。それが表情に出たのか、リリアナはすぐに本題へと切り替えるように口を開いた。
「本日は、突然の訪問にもかかわらず、こうしてお時間をいただき感謝いたします。私、実は……以前からアーシア様のことを、一度直接お会いして確認したいと思っていました」
「え……私のことを、確認……?」
リリアナは言葉を選ぶかのように一瞬視線を落とす。そこには敵意というより、何か決意のようなものが感じられた。
「ええ。もちろん、失礼を承知で申し上げます。レオン様――いえ、レオンが、過去にどんな方と婚約していたのか、どんな想いを抱いていたのか、それを知らずに私が彼の隣を歩くことは……私自身、納得できなかったものですから」
淡々とした語り口だが、その裏には確かな信念があるとわかる。リリアナは続ける。
「レオンがアーシア様のことを想っていたのは、彼の言葉や行動から、私も痛いほど理解していました。ですから、こうして目覚められたと聞いて、本当に驚いたのです。どのような奇跡が起こったのかと……」
「奇跡、か……そうかもしれないね。私も……まさか自分が目覚めるなんて、思ってもいなかったから……」
リリアナは微かにうなずき、言葉を継ぐ。
「アーシア様が10年の眠りから目覚めたという知らせを聞いたとき、最初は正直、不安でした。……もし彼の心が揺れてしまったら、どうしようって」
彼女の口調は毅然としているが、その瞳には揺らぎがあるように感じた。やはり、私という存在が彼女の中に大きな不安を与えているのだろう。
私が何も言えずにいると、リリアナはそこではっきりと微笑み、言った。
「けれど、いざこうしてお会いして思うのです。――アーシア様を目の前にして、私はどこか安心している、と」
「安、心……?」
意外な言葉だった。彼女は私を警戒しているのではないだろうか。少なくとも、私がリリアナの立場なら、元婚約者が戻ってくるなんて穏やかではいられないはずだ。
リリアナは静かにティーカップを置き、そのまま視線を私に向けた。
「アーシア様の瞳を見ればわかります。いまのあなたは、まだ外の世界に慣れていない。自分が失った十年という時間を、どう扱っていいか迷っている。……申し訳ないのですが、少なくとも『私の婚約者を奪おう』という強い感情をお持ちではないように感じられます」
「……っ」
言い返せない。なぜなら、彼女の言うとおりだからだ。私はレオンへの想いを完全に消し去ったわけではない。しかし、だからといって今のレオンを取り戻すために行動する意欲があるかといえば、正直そこまで気持ちに整理がつかないのだ。
「私は少し安心しました。そして、同時に……あなたの気持ちを考えると、胸が痛むのです」
リリアナの瞳に、一瞬だけ憐憫の色が宿る。それを見た瞬間、私は何とも言えない居心地の悪さを感じた。
「私の気持ち……?」
「ええ。十年もの間、眠り続けて、目覚めたら世界が変わっていた。……心は10歳のままなのに、身体は大人になってしまった。そんな状態で、かつての婚約者に新しい婚約者がいる、と知ったのですもの。何をどう思えばいいのか、混乱するのも当然です」
その通りだ。まるで私の胸の内をすべて見透かされたようで、思わず息が詰まる。彼女がここまで私の気持ちに寄り添うような言葉をくれるとは、正直予想していなかった。
「……そう、だね……。私、本当にどうしたいのかもわからなくて……。ただ、あなたには……申し訳ないというか……」
「謝らないでください。……あなたが悪いわけではありません」
リリアナはそう言いながら、穏やかに首を振った。
「もともと、レオンとあなたは結婚するはずだった。それが叶わなかったのは、事故という不可抗力によるもの。――だから、私のほうこそ、あなたに対して負い目を感じる面があるのです」
「負い目……?」
「ええ。私がレオンと婚約したのは、そうしなければ彼を“救えなかった”から。アルヴェルト家の跡取り問題のため、レオンに降りかかった重圧は、とても大きなものでした。彼がいくら『アーシアを待ちたい』と言っても、周囲は納得しなかったのです。『どれだけ待てばいいのか』という声が日に日に強くなっていって……」
リリアナは軽く唇を噛みしめ、回想するように瞳を伏せる。
「私の家も名家と呼ばれる家柄ですから、彼の婚約者として申し分ないとみなされました。私は……レオンを好きでしたし、だからこそ手を取り合いたいと思っていました。でも、そんな私の想いより先に、周囲の思惑がどんどん形になっていって……」
――なるほど。彼女自身も、周囲の圧力で半ば強引にレオンとの婚約を進められたという面があったのかもしれない。もちろん、レオンへの好意があったのだとしても、一筋縄ではいかなかったのだろう。
「レオンもずっと、あなたのことを忘れられない様子でした。少なくとも、私が婚約するまでの間、たびたびロウェル伯爵家を訪れていたみたいですから。それを見ているのは辛かった。私が彼の心をすべて奪える自信なんて、ありませんでした」
――リリアナは苦しそうに微笑む。そこには、彼女なりのせつない恋があるのだ。子供の頃からの想いを胸に抱きながら、しかしレオンの過去の婚約者である私の存在を常に感じていた。
自分だけが苦しかったのではない。この人もまた、それぞれの立場で傷つきながら、レオンを支えようとしてきたのだ。
「でも、時が経つにつれ、レオンもようやくあなたのことを『思い出』として折り合いをつけようとしてくれた。だから私も、勇気を出して、彼を想う気持ちを伝えたのです。……それで、やっと婚約が結ばれた。最初は形だけでも、そのうちお互い本当に愛し合えるようになると信じて……」
リリアナの口ぶりには、強い決意と愛情がにじんでいる。私は、その言葉を否定できない。むしろ、この人だからこそ、レオンは婚約に踏み切れたのだろう、とさえ思えてしまう。
「そこへ、あなたが目覚めた。私としては……嬉しいような、怖いような、とても複雑な気持ちでした。レオンはどんな反応をするのか、あなたは何を想うのか……。けれど、こうして直接お会いして、あなたの優しさに触れると……自分が思っていた以上に、あなたの存在が大きかったと痛感します」
リリアナはそう言うと、すっと椅子から立ち上がった。私もつられて立ち上がろうとしたが、まだ少し足元に力が入らず、よろめく。すぐに彼女が手を差し伸べて支えてくれた。
「あ……ごめん、ありがとう……」
「いえ。怪我はありませんか?」
彼女の手は温かく、支える力はしっかりしている。まるで今の私に足りないものを、すべて持っているような人だ、と改めて感じた。
「……リリアナ嬢。あの……私、本当に何もわからないままここにいるだけで……あなたに言えることは、正直あまりないんです」
支えられながら、私は本音を口にする。彼女に対して「レオンを返して」なんて言う権利が、今の私にあるはずもない。かといって、「あなたたちを祝福する」というには、心の整理が追いついていない。
リリアナはそっと私の手を握り返す。表情は硬いが、そこには敵意が感じられない。むしろ、同じ「レオンを大事に想う者同士」の対話のようにも思えた。
「いいえ。それでも、あなたが『今』の自分として、どう生きるかを模索しているのが伝わってきます。私は……あなたの敵ではありません。ただ、あなたの存在が、私に試練を与えているのも事実です」
「試練、って……?」
「私が真にレオンの隣に立つべき人間なのか、彼の心を支えられるのか。それが問われる、という意味での試練です。……あなたが戻ってきたという現実を、私もレオンも乗り越えなければならない」
その言葉に、胸がざわめく。リリアナの視線は、どこまでも澄んでいて揺るぎない。私は思わず息を飲んだ。
「ですから、どうかあなたも……焦らずに、ご自身の気持ちを見極めてください。あなたは私たちの婚約関係を妨害するつもりがないのか、それともレオンを取り戻したいと思うのか。そのどちらも、私には止める資格はないのですから」
――優雅な口調とは裏腹に、なんと強い意志を持った言葉だろう。それを言えるだけの度量を、彼女は備えているのだ。
私はしばらく言葉に詰まったあと、真摯に答えた。
「……ごめんなさい。私、自分の気持ちがまだよくわからない。レオンを取り戻したいっていうのは、正直わからない。でも、もう婚約解消されてるのに、まだ特別な存在だと感じてしまうのも事実で……」
「わかります。あなただけでなく、レオンも同じくらい戸惑っているでしょう。なにしろ、10年ぶりにあなたが戻ってきたのですもの」
リリアナは微笑みながらそう言うと、私の手を離して深々と礼をした。
「貴重なお時間を、ありがとうございました。お身体を大事にしてくださいね。もしまたお会いする機会がありましたら、そのときはどうか、もう少し……元気になった姿を見せていただければ幸いです」
「……ええ、ぜひ……」
私も頭を下げて見送る。リリアナは背筋を伸ばし、優雅な足取りで部屋を出ていった。
部屋には、しんと静かな空気だけが残る。ほんの短い対面だったのに、心は大きく揺さぶられていた。
――ああ、なんて人だろう。彼女の気高さや思いやり、強さ……どれをとっても、まだ子供の心のままの私には、到底かなわないと思ってしまう。
それでも、彼女の言葉の一つひとつは、決して私を傷つけるためではなく、互いに正面から向き合うためのものだと感じた。だからこそ、私は余計に複雑な感情を抱えてしまう。
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