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第2章 ――揺れる想いと、新しい婚約者
9話
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リリアナと直接顔を合わせた翌日、私は珍しく早く目が覚めた。昨夜はなかなか眠れず、うとうとと浅い眠りを繰り返していたのだが、不思議と体の怠さは少ない。
朝食を軽く摂ったあと、サラの手を借りながら庭を散歩してみることにした。少しずつ歩ける距離を延ばしていくのもリハビリの一環だ。
「ねぇ、サラ。ちょっと遠回りして、あの薔薇園のほうまで行ってみない?」
「はい、もちろん。ゆっくりで大丈夫ですからね」
サラが優しく微笑み、私たちは蔦の絡まるアーチがある小道を通る。私の中の庭の記憶は十年前で止まっているが、思い出してみれば、ここは昔から薔薇がたくさん咲いていた場所だった。
足元に気をつけながら歩いていると、様々な品種の薔薇が整然と並んでいるのが見える。色鮮やかな花を目にして、わずかに気持ちが晴れるのを感じた。
「きれい……。子供の頃の記憶に比べても、花の数が増えてる気がする……」
「そうですね。庭師さんが替わってから、特に薔薇に力を入れてくださっていて。春から初夏にかけては、見応えがすごいですよ」
サラがそう教えてくれる。私は一歩一歩、慎重に歩を進めながら花の香りを味わう。体もだいぶ動かしやすくなってきている。
やがて薔薇園の中央に設置された白いガゼボ(東屋)にたどり着いた。サラが気を利かせてガゼボの椅子を拭いてくれ、私を促す。
「ここで少し休まれますか?」
「うん、そうする」
私はガゼボの椅子にゆっくり腰を下ろし、穏やかな風を感じながら目を閉じる。時間がゆったりと流れているように感じられる。
――こんなふうに外の空気を感じられるのは、まるで久しぶりのような気がする。もっとも、本当に久しぶりなのだ。十年の眠りのあとに少しずつ回復し、ようやくここまで来られた。
サラは私の隣に立ちながら、そっと声をかける。
「アーシア様、今日はお顔の色が少し明るいですね。何か良いことがあったのでしょうか?」
「え……そうかな?」
思わず自分の頬を触れる。特に意識していなかったが、昨夜リリアナと会って、気持ちが一段落したのかもしれない。もちろん、解決したわけではない。けれど、すこし肩の力が抜けたような……そんな感覚がある。
「うん、そうかも。リリアナ嬢と話して、なんだか吹っ切れたような部分があるのかもしれない。私、ずっと彼女のことを『怖い相手』だと思ってたんだけど……実際には、すごく真っ直ぐで、良い人だってわかったから」
「リリアナ嬢が、ですか……。そうですよね、私もお噂を聞くだけでしたが、聡明で優れた方だとか……」
サラは感心したように微笑む。私もほんの少しだけ微笑を返してから、ぽつりと呟いた。
「でも、そうなってくると、ますます私の立場が不確かになるというか……。彼女がレオンと婚約していることに、文句をつける気もないし……かといって、完全に諦めきれているわけでもない」
自分の本音を言葉にするたび、胸に小さな痛みが走る。でも、もう目を背けることはできない。
「昔の私なら、まだまだ子供だったから……レオンがいればそれだけで満足だった。でも今は、私も大人になって、彼も大人になって……きっと、もう昔のままじゃいられないんだろうな」
静かに薔薇の香りが風に運ばれ、ガゼボの中を満たしていく。サラは何も言わずに、私の言葉を受け止めるように聞いてくれる。それだけで、心が少し軽くなる。
「サラ、私……どうすればいいんだろう」
思わず零れた弱音に、サラは小首を傾げて、真剣な表情で考え込む。
「私のような者が、勝手なことを申し上げてよいのか……迷うところですが……。少なくとも、私がアーシア様を拝見していて思うのは、“今のままではいられない”ということですね」
「……今のままでは、いられない……」
サラの言葉を反芻する。眠っていた十年という時間がいかに大きかったか、目覚めてから痛感している。もう子供ではない。だけど、心はあの頃のまま。
「はい。レオン様の気持ちも、リリアナ様のお気持ちも、アーシア様のご両親のお気持ちも……それぞれにいろいろあって、どれが正しいとか間違っているとか、一概に言えるものではないと思います。でも、アーシア様は今、少しずつ前に進もうとしている。だったら、その先に何があるのか……動かなければわからないと思うのです」
サラの言葉には、私への信頼と、未来への希望が混ざっているように感じた。目覚めたばかりの頃からずっと私を支えてくれたサラは、私がただ眠っていた存在ではなく、「この先を生きていく人間」だと受け止めてくれている。
私はその優しさに救われる思いで、サラに微笑んだ。
「……ありがとう。私、少しずつでもいいから、自分の人生をちゃんと歩いてみるね」
サラは嬉しそうに微笑み返す。その時、小走りの足音が聞こえ、屋敷の使用人の一人が慌てた様子でガゼボに駆け寄ってきた。
「アーシア様、サラ様……! 今、アルヴェルト侯爵家のレオン様がお越しになっています!」
「レオンが……?」
思わず目を見開く。リリアナではなく、レオン本人が再びこの屋敷に……?
「はい。先ほど玄関先に到着されまして、『アーシアと少し話がしたい』と仰っているのですが……いかがいたしましょう?」
使用人は困惑気味に私の意向を尋ねてくる。私だって困惑する。まさか、リリアナが帰った直後のこのタイミングで、彼が直接来るとは思っていなかった。
「ど、どうしよう……」
私はサラを見上げる。するとサラは、落ち着いた口調で提案してくれた。
「このままお庭にお通ししてはいかがでしょう。まだ長時間の移動は大変でしょうし、気分転換も兼ねてここでお話されるのが良いのでは」
「……そうだね。レオンのほうは、それで大丈夫なのかしら……」
使用人に尋ねると、「お伺いしてまいります」と言って走り去る。私は心の準備もままならないまま、レオンを待つことになった。
――リリアナとの面会のことを、レオンは知っているのだろうか。それとも、全く別の用事で来たのか……。考えていると、胸の奥がざわめくように落ち着かない。
「大丈夫ですよ、アーシア様。まだ無理せず、椅子に座ってお待ちになってください」
サラは私を気遣うように微笑む。私は緊張しながらも、深呼吸をしてガゼボの椅子に座った。
それから数分後。薔薇園のアーチの向こうから、落ち着いた足音が二つ聞こえ、やがてレオンの姿が見えてくる。案内しているのは先ほどの使用人だ。
レオンは相変わらず、端正な顔立ちとすらりとした体躯で、その場に気品を漂わせていた。子供の頃の面影を残しながらも、やはり今の彼は“頼れる大人の男性”にしか見えない。
「アーシア……こんにちは。急にすまないが、話せるか?」
視線が交わった瞬間、私は思わずうつむきかける。けれど、逃げたくないという思いがあり、何とか目を合わせた。
「ううん、来てくれて……ありがとう。私もちょうど、外の空気が吸いたかったから……」
「そうか。ならよかった」
レオンは使用人に礼を言い、退がってもらう。サラも離れた場所で様子を見守ってくれている。私とレオンは、気まずい沈黙の中、しばらく視線を合わせられないまま立ち尽くした。
やがて、レオンが小さくため息をつく。
「少し……座っていいか? 立ったままじゃ、話しづらいし」
「うん……」
レオンは私と向かい合うように、ガゼボの椅子に腰掛ける。薔薇の香りが風に乗って漂い、二人の間に微妙な空気が流れる。
「……昨日、リリアナがお前のところへ行ったんだってな」
先に口を開いたのは、レオンだった。その言葉に、私は「うん……」と返事をする。どうやらリリアナは、レオンに会いに行くことを伝えていたようだ。
「彼女が戻ってきて、『やはりアーシアはアーシアだった』って言ってたよ。……詳しくは教えてくれなかったけど、何を話したんだ?」
「えっと……いろいろ、かな。お互いの気持ちを……正直に伝え合った感じ、かも……」
言葉を濁す私に、レオンは苦笑する。
「リリアナは、俺にとって大切な婚約者だ。……でも、同時にお前も、俺にとって大事な存在だった。だから、正直……お前が目覚めたと聞いたとき、どうすればいいのかわからなかった。今でもそうだ」
「……そう、なんだ」
胸が痛む。でも、レオンの素直な告白に、私は嬉しさと切なさがない交ぜになった感情を抱く。レオンにとって私は、完全に過去の存在というわけでもないのだろう。
「昨日、リリアナから『あなたはアーシアときちんと話をすべきだ』って言われた。自分の気持ちをごまかさないで、向き合ってこいって。だから、今日はお前に会いに来たんだ」
――リリアナは、やはり強くて優しい人だ。自分の婚約者が元婚約者に揺れているかもしれないのに、それでも私とレオンを対話させようとする。
レオンは視線を薔薇の花へと向けて、思い出を呼び起こすように言った。
「お前とここで遊んだ記憶……よく覚えてる。お前が薔薇のトゲで指を刺したことがあって、俺が慌てて手当てしようとしたら、逆に怖がられたんだよな」
「え……覚えてる、それ……。私が血を見るのが怖くて、レオンの上着の裾を掴んで泣いたんだっけ……」
私も思い出した。確か、あれは私が七歳くらいの頃だ。幼かった私は、ほんの小さな傷でも大袈裟に泣いてしまい、レオンが赤面しながらも慰めてくれた。
「そうそう。結局お前が泣いて抱きついてくるから、俺のほうがオロオロして……。でも、あのとき、本当に『俺はお前を守りたい』って思ったんだよ」
レオンが懐かしそうに微笑む。私の中にも、そのときの情景が鮮やかに浮かぶ。あの頃のレオンは、まだ少年らしい不安定さを持ちながらも、私にとっては頼りになる“少し年上のお兄ちゃん”だった。
「……今は、私のほうが守ってもらえないくらい大人になっちゃったね。私、まだ子供みたいな気持ちのままなのに……」
自嘲気味に呟く私に、レオンは首を横に振った。
「そんなことない。お前は十分強いよ。10年の空白を抱えていながら、こうして前を向いて生きようとしているじゃないか。……それだけで、すごいことだ」
彼の優しい声に、胸がじんと熱くなる。ほんの少しうるんだ瞳で、私はレオンを見つめた。
「……ありがとう」
「アーシア、俺は……お前がまだ眠っている頃、何度も後悔した。あのとき、もっと強く周囲に反発してでも、お前を待ち続ける意志を貫けなかったのか、って……。でも、現実はそう甘くない。家の問題も、周囲の期待も、いろいろあって、俺は結局リリアナとの婚約を受け入れた」
「うん……わかってる。仕方ないこと、だよね」
レオンの瞳には深い苦悩がある。私が寝ているあいだに、彼はどれほど葛藤してきたのだろう。
「仕方ない……そう言ってもらえると救われるよ。でも、だからこそ……今俺がどうすればいいのか、まだ答えは見つからない。でも、リリアナの言うとおり、俺はもう少しお前と話したい。お互いに気持ちを整理できるように……」
レオンが手を伸ばしかけ、途中で止める。私はその動きを見逃さなかった。心の中に、じわりと切なさが広がる。
「私も……ちゃんとあなたと話して、今の気持ちに折り合いをつけたい。子供の頃のままじゃなくて、今の私として……レオンと向き合いたい」
――そう告げると、レオンは安心したように頷いた。
「ありがとう。……今日はあまり長居するつもりはなかったんだ。お前の体調もあるし、まずは『きちんと話したい』っていうことだけ伝えたかった」
「わかった。私も体を慣らして、もう少し動けるようになったら……改めてゆっくり、話そう?」
「うん、そうしよう」
レオンは立ち上がり、私もゆっくり腰を浮かせる。まだ少しふらつくが、レオンがそっと支えてくれた。
「ごめん。以前の俺なら、もっとスマートに支えられたんだろうけど……今はどうにもぎこちなくて……」
私が照れくさそうに言うと、レオンはクスリと笑う。
「俺だって、自分がこんなに戸惑うなんて思ってなかったよ。気がつけば、昔のお前と今のお前が頭の中でごちゃ混ぜになってる。……でも、それでいいんだろうな。今のお前を俺がちゃんと知るまで、じっくり時間をかけたい」
レオンの言葉に、私は素直に心が温かくなるのを感じた。けれど、一方で胸のどこかには罪悪感も生まれる。――私がこうしてレオンと近づけば近づくほど、リリアナはどう思うのか。
そんな疑問が頭をもたげるが、今はただ、レオンが私に向き合おうとしてくれている。その事実だけを受け止めることにした。
「じゃあ、今日はこれで。……また会おう、アーシア」
「うん、また……」
レオンは少し名残惜しそうに微笑み、薔薇園のアーチをくぐって去っていく。その背中が遠ざかるのを見送りながら、私はもう一度、ため息混じりに「どうすればいいんだろう」と心の中で繰り返す。
――でも、ほんのわずかに光が見えたような気がした。十年というブランクを埋めるのは簡単なことではない。けれど、こうして少しずつお互いを知ろうとすることで、いつかは答えを見つけられるかもしれない。
リリアナの言葉にあったように、“どうしたいのか”を自分で見極める。それはきっと、私自身が前へ進むために必要なことなのだ。
私は足元の芝生を踏みしめる。まだ心は揺れているけれど、迷いながらでも、歩いていかなければ――。
朝食を軽く摂ったあと、サラの手を借りながら庭を散歩してみることにした。少しずつ歩ける距離を延ばしていくのもリハビリの一環だ。
「ねぇ、サラ。ちょっと遠回りして、あの薔薇園のほうまで行ってみない?」
「はい、もちろん。ゆっくりで大丈夫ですからね」
サラが優しく微笑み、私たちは蔦の絡まるアーチがある小道を通る。私の中の庭の記憶は十年前で止まっているが、思い出してみれば、ここは昔から薔薇がたくさん咲いていた場所だった。
足元に気をつけながら歩いていると、様々な品種の薔薇が整然と並んでいるのが見える。色鮮やかな花を目にして、わずかに気持ちが晴れるのを感じた。
「きれい……。子供の頃の記憶に比べても、花の数が増えてる気がする……」
「そうですね。庭師さんが替わってから、特に薔薇に力を入れてくださっていて。春から初夏にかけては、見応えがすごいですよ」
サラがそう教えてくれる。私は一歩一歩、慎重に歩を進めながら花の香りを味わう。体もだいぶ動かしやすくなってきている。
やがて薔薇園の中央に設置された白いガゼボ(東屋)にたどり着いた。サラが気を利かせてガゼボの椅子を拭いてくれ、私を促す。
「ここで少し休まれますか?」
「うん、そうする」
私はガゼボの椅子にゆっくり腰を下ろし、穏やかな風を感じながら目を閉じる。時間がゆったりと流れているように感じられる。
――こんなふうに外の空気を感じられるのは、まるで久しぶりのような気がする。もっとも、本当に久しぶりなのだ。十年の眠りのあとに少しずつ回復し、ようやくここまで来られた。
サラは私の隣に立ちながら、そっと声をかける。
「アーシア様、今日はお顔の色が少し明るいですね。何か良いことがあったのでしょうか?」
「え……そうかな?」
思わず自分の頬を触れる。特に意識していなかったが、昨夜リリアナと会って、気持ちが一段落したのかもしれない。もちろん、解決したわけではない。けれど、すこし肩の力が抜けたような……そんな感覚がある。
「うん、そうかも。リリアナ嬢と話して、なんだか吹っ切れたような部分があるのかもしれない。私、ずっと彼女のことを『怖い相手』だと思ってたんだけど……実際には、すごく真っ直ぐで、良い人だってわかったから」
「リリアナ嬢が、ですか……。そうですよね、私もお噂を聞くだけでしたが、聡明で優れた方だとか……」
サラは感心したように微笑む。私もほんの少しだけ微笑を返してから、ぽつりと呟いた。
「でも、そうなってくると、ますます私の立場が不確かになるというか……。彼女がレオンと婚約していることに、文句をつける気もないし……かといって、完全に諦めきれているわけでもない」
自分の本音を言葉にするたび、胸に小さな痛みが走る。でも、もう目を背けることはできない。
「昔の私なら、まだまだ子供だったから……レオンがいればそれだけで満足だった。でも今は、私も大人になって、彼も大人になって……きっと、もう昔のままじゃいられないんだろうな」
静かに薔薇の香りが風に運ばれ、ガゼボの中を満たしていく。サラは何も言わずに、私の言葉を受け止めるように聞いてくれる。それだけで、心が少し軽くなる。
「サラ、私……どうすればいいんだろう」
思わず零れた弱音に、サラは小首を傾げて、真剣な表情で考え込む。
「私のような者が、勝手なことを申し上げてよいのか……迷うところですが……。少なくとも、私がアーシア様を拝見していて思うのは、“今のままではいられない”ということですね」
「……今のままでは、いられない……」
サラの言葉を反芻する。眠っていた十年という時間がいかに大きかったか、目覚めてから痛感している。もう子供ではない。だけど、心はあの頃のまま。
「はい。レオン様の気持ちも、リリアナ様のお気持ちも、アーシア様のご両親のお気持ちも……それぞれにいろいろあって、どれが正しいとか間違っているとか、一概に言えるものではないと思います。でも、アーシア様は今、少しずつ前に進もうとしている。だったら、その先に何があるのか……動かなければわからないと思うのです」
サラの言葉には、私への信頼と、未来への希望が混ざっているように感じた。目覚めたばかりの頃からずっと私を支えてくれたサラは、私がただ眠っていた存在ではなく、「この先を生きていく人間」だと受け止めてくれている。
私はその優しさに救われる思いで、サラに微笑んだ。
「……ありがとう。私、少しずつでもいいから、自分の人生をちゃんと歩いてみるね」
サラは嬉しそうに微笑み返す。その時、小走りの足音が聞こえ、屋敷の使用人の一人が慌てた様子でガゼボに駆け寄ってきた。
「アーシア様、サラ様……! 今、アルヴェルト侯爵家のレオン様がお越しになっています!」
「レオンが……?」
思わず目を見開く。リリアナではなく、レオン本人が再びこの屋敷に……?
「はい。先ほど玄関先に到着されまして、『アーシアと少し話がしたい』と仰っているのですが……いかがいたしましょう?」
使用人は困惑気味に私の意向を尋ねてくる。私だって困惑する。まさか、リリアナが帰った直後のこのタイミングで、彼が直接来るとは思っていなかった。
「ど、どうしよう……」
私はサラを見上げる。するとサラは、落ち着いた口調で提案してくれた。
「このままお庭にお通ししてはいかがでしょう。まだ長時間の移動は大変でしょうし、気分転換も兼ねてここでお話されるのが良いのでは」
「……そうだね。レオンのほうは、それで大丈夫なのかしら……」
使用人に尋ねると、「お伺いしてまいります」と言って走り去る。私は心の準備もままならないまま、レオンを待つことになった。
――リリアナとの面会のことを、レオンは知っているのだろうか。それとも、全く別の用事で来たのか……。考えていると、胸の奥がざわめくように落ち着かない。
「大丈夫ですよ、アーシア様。まだ無理せず、椅子に座ってお待ちになってください」
サラは私を気遣うように微笑む。私は緊張しながらも、深呼吸をしてガゼボの椅子に座った。
それから数分後。薔薇園のアーチの向こうから、落ち着いた足音が二つ聞こえ、やがてレオンの姿が見えてくる。案内しているのは先ほどの使用人だ。
レオンは相変わらず、端正な顔立ちとすらりとした体躯で、その場に気品を漂わせていた。子供の頃の面影を残しながらも、やはり今の彼は“頼れる大人の男性”にしか見えない。
「アーシア……こんにちは。急にすまないが、話せるか?」
視線が交わった瞬間、私は思わずうつむきかける。けれど、逃げたくないという思いがあり、何とか目を合わせた。
「ううん、来てくれて……ありがとう。私もちょうど、外の空気が吸いたかったから……」
「そうか。ならよかった」
レオンは使用人に礼を言い、退がってもらう。サラも離れた場所で様子を見守ってくれている。私とレオンは、気まずい沈黙の中、しばらく視線を合わせられないまま立ち尽くした。
やがて、レオンが小さくため息をつく。
「少し……座っていいか? 立ったままじゃ、話しづらいし」
「うん……」
レオンは私と向かい合うように、ガゼボの椅子に腰掛ける。薔薇の香りが風に乗って漂い、二人の間に微妙な空気が流れる。
「……昨日、リリアナがお前のところへ行ったんだってな」
先に口を開いたのは、レオンだった。その言葉に、私は「うん……」と返事をする。どうやらリリアナは、レオンに会いに行くことを伝えていたようだ。
「彼女が戻ってきて、『やはりアーシアはアーシアだった』って言ってたよ。……詳しくは教えてくれなかったけど、何を話したんだ?」
「えっと……いろいろ、かな。お互いの気持ちを……正直に伝え合った感じ、かも……」
言葉を濁す私に、レオンは苦笑する。
「リリアナは、俺にとって大切な婚約者だ。……でも、同時にお前も、俺にとって大事な存在だった。だから、正直……お前が目覚めたと聞いたとき、どうすればいいのかわからなかった。今でもそうだ」
「……そう、なんだ」
胸が痛む。でも、レオンの素直な告白に、私は嬉しさと切なさがない交ぜになった感情を抱く。レオンにとって私は、完全に過去の存在というわけでもないのだろう。
「昨日、リリアナから『あなたはアーシアときちんと話をすべきだ』って言われた。自分の気持ちをごまかさないで、向き合ってこいって。だから、今日はお前に会いに来たんだ」
――リリアナは、やはり強くて優しい人だ。自分の婚約者が元婚約者に揺れているかもしれないのに、それでも私とレオンを対話させようとする。
レオンは視線を薔薇の花へと向けて、思い出を呼び起こすように言った。
「お前とここで遊んだ記憶……よく覚えてる。お前が薔薇のトゲで指を刺したことがあって、俺が慌てて手当てしようとしたら、逆に怖がられたんだよな」
「え……覚えてる、それ……。私が血を見るのが怖くて、レオンの上着の裾を掴んで泣いたんだっけ……」
私も思い出した。確か、あれは私が七歳くらいの頃だ。幼かった私は、ほんの小さな傷でも大袈裟に泣いてしまい、レオンが赤面しながらも慰めてくれた。
「そうそう。結局お前が泣いて抱きついてくるから、俺のほうがオロオロして……。でも、あのとき、本当に『俺はお前を守りたい』って思ったんだよ」
レオンが懐かしそうに微笑む。私の中にも、そのときの情景が鮮やかに浮かぶ。あの頃のレオンは、まだ少年らしい不安定さを持ちながらも、私にとっては頼りになる“少し年上のお兄ちゃん”だった。
「……今は、私のほうが守ってもらえないくらい大人になっちゃったね。私、まだ子供みたいな気持ちのままなのに……」
自嘲気味に呟く私に、レオンは首を横に振った。
「そんなことない。お前は十分強いよ。10年の空白を抱えていながら、こうして前を向いて生きようとしているじゃないか。……それだけで、すごいことだ」
彼の優しい声に、胸がじんと熱くなる。ほんの少しうるんだ瞳で、私はレオンを見つめた。
「……ありがとう」
「アーシア、俺は……お前がまだ眠っている頃、何度も後悔した。あのとき、もっと強く周囲に反発してでも、お前を待ち続ける意志を貫けなかったのか、って……。でも、現実はそう甘くない。家の問題も、周囲の期待も、いろいろあって、俺は結局リリアナとの婚約を受け入れた」
「うん……わかってる。仕方ないこと、だよね」
レオンの瞳には深い苦悩がある。私が寝ているあいだに、彼はどれほど葛藤してきたのだろう。
「仕方ない……そう言ってもらえると救われるよ。でも、だからこそ……今俺がどうすればいいのか、まだ答えは見つからない。でも、リリアナの言うとおり、俺はもう少しお前と話したい。お互いに気持ちを整理できるように……」
レオンが手を伸ばしかけ、途中で止める。私はその動きを見逃さなかった。心の中に、じわりと切なさが広がる。
「私も……ちゃんとあなたと話して、今の気持ちに折り合いをつけたい。子供の頃のままじゃなくて、今の私として……レオンと向き合いたい」
――そう告げると、レオンは安心したように頷いた。
「ありがとう。……今日はあまり長居するつもりはなかったんだ。お前の体調もあるし、まずは『きちんと話したい』っていうことだけ伝えたかった」
「わかった。私も体を慣らして、もう少し動けるようになったら……改めてゆっくり、話そう?」
「うん、そうしよう」
レオンは立ち上がり、私もゆっくり腰を浮かせる。まだ少しふらつくが、レオンがそっと支えてくれた。
「ごめん。以前の俺なら、もっとスマートに支えられたんだろうけど……今はどうにもぎこちなくて……」
私が照れくさそうに言うと、レオンはクスリと笑う。
「俺だって、自分がこんなに戸惑うなんて思ってなかったよ。気がつけば、昔のお前と今のお前が頭の中でごちゃ混ぜになってる。……でも、それでいいんだろうな。今のお前を俺がちゃんと知るまで、じっくり時間をかけたい」
レオンの言葉に、私は素直に心が温かくなるのを感じた。けれど、一方で胸のどこかには罪悪感も生まれる。――私がこうしてレオンと近づけば近づくほど、リリアナはどう思うのか。
そんな疑問が頭をもたげるが、今はただ、レオンが私に向き合おうとしてくれている。その事実だけを受け止めることにした。
「じゃあ、今日はこれで。……また会おう、アーシア」
「うん、また……」
レオンは少し名残惜しそうに微笑み、薔薇園のアーチをくぐって去っていく。その背中が遠ざかるのを見送りながら、私はもう一度、ため息混じりに「どうすればいいんだろう」と心の中で繰り返す。
――でも、ほんのわずかに光が見えたような気がした。十年というブランクを埋めるのは簡単なことではない。けれど、こうして少しずつお互いを知ろうとすることで、いつかは答えを見つけられるかもしれない。
リリアナの言葉にあったように、“どうしたいのか”を自分で見極める。それはきっと、私自身が前へ進むために必要なことなのだ。
私は足元の芝生を踏みしめる。まだ心は揺れているけれど、迷いながらでも、歩いていかなければ――。
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