婚約破棄されたけれど、どうぞ勝手に没落してくださいませ。私は辺境で第二の人生を満喫しますわ

鍛高譚

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1-3 辺境スローライフ開始

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1-3 辺境スローライフ開始

 リステイン領の中心から馬車でさらに半日。
 街道の石畳がやがて土道へ変わり、森が深くなり、空気が澄み切っていく。

 ――そうして私の視界に、大きな湖と、可愛らしい赤屋根のコテージが現れた。

「……帰って参りましたわ」

 馬車を降りて、私は胸いっぱいに深呼吸する。

 澄んだ水の匂い。
 針葉樹の香り。
 遠くで小鳥がさえずり、湖面では風が光をきらきらと揺らしている。

(ああ……都会では絶対に味わえない空気ですわね……!)

 このコテージは祖母が愛した場所だ。
 祖母が亡くなった後、ずっと手入れだけは続けてきたが、私自身がここで長く過ごすのは久しぶりである。

 馬車から降りたゼノが、周囲を無言で見渡した。

「静かで、良い場所だ」

「でしょう? 私のお気に入りの場所ですのよ」

 私は日傘を閉じ、ゆっくりと玄関へ続く石畳の道を歩く。
 小さな庭には赤や黄色の花が咲き、祖母が植えた青薔薇の株もそのままだ。

 扉の前に立ち、鍵を回すと、懐かしい木の香りがふわりと漂ってきた。

「……温かい空気」

 足を踏み入れた瞬間、記憶が蘇る。
 祖母と過ごした静かな時間、絵本を読んでもらったこと、焼きたてのクッキーの匂い。

(ああ……やっぱり、ここに帰ってきて正解でしたわ)

 私は真っ先に靴を脱ぎ捨て、奥へ進んだ。

「エレノア様、勝手に走ると危険だ」

「だって、我慢できませんもの!」

 久しぶりの自由と、この懐かしい空間が、私を子供みたいに高揚させていた。

◆ ◆ ◆

 荷物を運び終えた私は、ワンピースの上に柔らかいエプロンをかけた。
 そしてさっそく“最優先の作業”に取り掛かることにした。

 ――そう、キッチンの整備である。

 祖母の残したレシピ本、焼き型、ハーブ瓶、全部が綺麗に並んでいる。

「ああ……ここは天国かしら?」

「……甘いものが好きなのか?」

 ゼノが慎重な足取りでキッチンに入ってきた。

「好きではなく、“生きる理由”ですわ」

「大げさな……いや、エレノア様の場合は本気か」

 ゼノは目を細めて私を見た。
 その視線がどこか柔らかい。

「ゼノ様、お菓子はお好き?」

「食べられれば何でも」

「まあ、なんて味気ない。ここにいる間に、食の喜びを教えて差し上げますわ」

「……頼もしいことだ」

 ゼノの口元が少しだけ笑った。
 普段は真面目で無表情な彼が、こうして少し感情を見せると妙に嬉しくなる。

 私は手際よく粉をふるい、卵を割り、はちみつを混ぜ始めた。

 やがて、コテージの中に甘い香りが満ちていく。

(この香り……久しぶりですわ)

 オーブンに生地を入れ、タイマーをセットしてテーブルに座る。

「ふぅ……幸せ」

「着いて早々、随分と楽しそうだな」

「当然でしょう? 私、ずーっとこの日を待っていたのですもの」

 ゼノは壁にもたれながら腕を組み、じっとこちらを見つめる。

「……殿下との婚約が、そこまで嫌だったのか?」

「嫌、というより……面倒でしたわ」

「面倒?」

「毎朝の早起き、社交界の義務、殿下への気遣い……
 それに、毎日“真実の愛は素晴らしい”みたいな顔をしなければならないのです。
 あれほど虚しい時間はありませんわ」

「……そうか」

 ゼノがわずかに視線を逸らした。

(あら?)

「ゼノ様、今の……どういう意味ですの?」

「いや……。お前がそこまで追い詰められていたとは知らなかった」

「私は自由に生きたいだけですわ。
 必要以上に縛られる人生なんて、まっぴらごめんですの」

 するとゼノは突然、真剣な顔をした。

「……ここでの生活。危険があれば、俺が必ず守る」

「え?」

「どれだけ静かに暮らしたくても、周囲が放っておかない可能性はある。
 殿下の件で貴族社会が揺れている。お前を狙う輩がいないとは言えない。
 だから……ここでは俺を頼るといい」

 真っ直ぐなその言葉に、胸が少しだけ温かくなった。

(まぁ……頼れる殿方がいるというのも、悪くありませんわね)

「ありがとうございます、ゼノ様。
 心強いですわ」

「……そう言ってもらえるなら、光栄だ」

 そう答えたゼノの頬が、ほんの僅かだが赤くなった気がした。
 気のせいかもしれないが。

◆ ◆ ◆

 クッキーが焼きあがり、私は茶葉を入れてティーポットを用意した。

「ゼノ様、どうぞ座ってくださいませ」

「……護衛が主人より先に座るわけには――」

「これは“お茶会”ですから、護衛も関係ありませんわ。
 ほら座る!」

「……はぁ。わかった」

 ゼノは渋々椅子に腰掛けたが、姿勢は相変わらず完璧だった。

 私は彼の前に、焼きたてのクッキーを置く。

「どうぞ。うちの家の秘密のお菓子ですわ」

「……いただく」

 ゼノはクッキーを一つ摘み、慎重に口へ運ぶ。
 そして――目を少し見開いた。

「……旨い」

「でしょう? 私の自信作ですのよ」

「甘いが……嫌な甘さじゃない。香りも良い」

 真剣に味わう様子が、とても可愛らしい。

(普段は隙がなさすぎるのに……)

「エレノア様、もう一ついいか?」

「もちろんですわ!」

 ゼノが二枚目、三枚目と食べる姿を見ながら、私はほっと息をついた。

(ああ……これよ、これ。
 これが私の求めていた“スローライフ”ですわ)

 静かで、穏やかで、あたたかい時間。

 そんな時――

 コテージの外からドンッと大きな音が響いた。

 ゼノが即座に腰の剣へ手を伸ばす。

「エレノア様、離れて」

「えっ?」

 玄関の方から何度もノック――というより、叩きつけるような音がする。

「誰かしら……?」

「俺が出る。決して前へ出るな」

 ゼノは静かに扉へ向かい、ゆっくりと開けた。

 そして次の瞬間――

「王都からの緊急伝令です!!」

 息を切らせた伝令兵が、必死の形相でコテージに飛び込んできた。

「元婚約者ラルフ殿下が……“没落寸前の令嬢を切り捨てた!”と演説し、
 貴族院でも大問題になっております!
 さらに……殿下の発言が原因で、王家の評判が急落し……!」

(え。まあ、そうでしょうね)

「王城では、殿下への処分を求める声が相次ぎ……
 そして……!」

「そして?」

「殿下、とうとう……王位継承権を剥奪されました!!」

 クッキーを乗せた皿を思わず落としそうになった。

(………………ざまぁ!)

 心の中で盛大に叫んだのは、言うまでもない。

◆ ◆ ◆

「……というわけで、エレノア様の安全確保のため、今後も監視強化の依頼がありました」

 伝令兵が去った後、ゼノが静かに説明してくれた。

「殿下の発言は、国の信用を揺るがすほどの失態だったらしい」

「まぁ……あの殿下ですものね」

「エレノア様、あなたはまったく動揺していないようだが」

「ええ。驚くほど、何も感じませんわ」

 むしろ――

(最高に気分がいいですわ!!!)

 大声で言いたいのを必死で抑える。

 ゼノがじっと私を見た。

「……殿下の没落は、あなたにとっては喜ばしいのか?」

「喜ばしい、というより……因果応報ですわね」

 微笑むと、ゼノはなぜか頬を赤らめた。

「エレノア様は……強いな」

「そうですわね。私は強い女ですもの」

 胸を張って宣言すると――

 ゼノは、ほんの少しだけ笑った。

「……ああ、その通りだな」

 私は焼き直したクッキーを差し出す。

「ほら、ゼノ様。殿下がどうなろうと、私たちのティータイムは続きますわよ」

「……ああ。いただこう」

 コテージの中に、再び甘い香りが満ちる。

 そして私は静かに確信した。

(この“スローライフ”、絶対に譲りませんわ)

 そう心に誓いながら、私は新しい一日を楽しむことにした。
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