婚約破棄されたけれど、どうぞ勝手に没落してくださいませ。私は辺境で第二の人生を満喫しますわ

鍛高譚

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3-1 白い結婚のはずなのに――心がざわめく

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第3章 偽りの夫婦、揺れ動く心

3-1 白い結婚のはずなのに――心がざわめく

 婚約破棄の騒動から数日後。
 アナスタシアの生活は、予想以上に穏やかで、そして刺激に満ちていた。

 ――本来なら、こうして静かに過ごせることこそ、彼女がずっと望んでいたはずなのだ。

 ところが、現実はどうだろう。
 “白い結婚”を申し出たはずのルキウス公爵が、まるで夫婦のように自然に寄り添ってくる。
 その距離の近さが、アナスタシアの心を落ち着かなくさせていた。

 朝、起きると既に香ばしい香りが館に満ちている。

「おはようございます、旦那様」

 そう声をかけると、厨房の奥でエプロン姿のルキウスが振り返った。

「おはよう。今日は私が朝食を作ろうと思ってね。君に休んでもらいたかった」

 涼しげな顔で言うその姿は、どう見ても完璧な“理想の旦那様”である。
 アナスタシアは思わず視線をそらした。

「そんな……旦那様に料理など……」

「いいんだ。好きでやっているから」

 なんでも簡単にこなしてしまう人。
 公爵という重責を背負い、剣技も魔法も政治も万能。
 さらに料理までできてしまうなど、反則ではないか。

 アナスタシアの胸の奥で、変なざわつきが生まれた。

(……おかしいですわ。白い結婚なのに、どうして夫婦みたいな……)

 テーブルに並んだサンドイッチは見た目も美しく、味も驚くほど繊細だった。
 アナスタシアがひと口食べるごとに、ルキウスは少しだけ安心したように微笑む。

「君の好みに合っていたら嬉しい」

「……美味しいですわ」

「よかった」

 まるで恋人に向けるような柔らかい笑み。
 そんなものを向けられて、平常心でいられる人間がいるだろうか。

 アナスタシアは思わず目を伏せてしまう。


---

 しかし、この日最も彼女を動揺させたのは朝食ではなかった。

 午後、庭で紅茶を飲んでいると、庭師たちが慌てた様子で駆け込んできたのだ。

「アナスタシア様! 大変です!」

「どうされましたの?」

「温室のバラが……全部、枯れかけておりまして……」

 アナスタシアは思わず立ち上がった。
 温室のバラは、彼女が嫁いできてから毎日世話をしてきた大切な花々だ。
 病気の徴候もなかったはずだった。

 急いで温室へ向かうと、確かにバラの葉は黄色く変色し始め、花びらがしなびていた。

「どうして……昨日まで元気だったのに……」

 指先が震える。
 彼女にとって花は、屋敷に馴染めず孤独だった頃から寄り添ってきた存在だ。
 温室は、唯一胸を張って“好きなもの”と言える場所だった。

 その花々が枯れるなど、心が折れそうになる。

「アナスタシア、すぐに離れろ!」

 突然、力強い腕が彼女の肩を引き寄せた。
 驚くほど近い距離にルキウスの顔がある。

「え……旦那様……?」

「毒だ。土に混ざっている……これは意図的なものだ」

 温室に張りつめた緊張感が走る。

「毒……? そんな……」

「君を狙ったものか、私を狙ったものかはまだ分からないが……いずれにせよ悪意がある」

 ルキウスの声は冷たく鋭かった。
 それは敵に向ける騎士の声であり、家族を守る夫の声でもあった。

 アナスタシアは目を瞬く。

(どうして……そこまでしてくださるの?
 白い結婚なのに……)

 胸の奥が熱くなる。

「危険だ。君は私のそばから離れるな」

「で、でも……」

「反論は許さない」

 強引な言葉なのに、不思議なくらい心地よい。
 アナスタシアの胸は、二度とないほど強く高鳴っていた。


---

 温室から離れると、ルキウスは静かに言った。

「アナスタシア。君が落ち込む姿を見るのは……耐えられない」

「え……?」

「君が大切にしているものが傷つけられた。
 その怒りと悲しみは、私は決して放置できない」

 言葉の温かさが、胸に刺さる。

(旦那様……どうしてそんな……)

 白い結婚。
 互いに干渉しないはずの契約。

 でも――
 彼の瞳には、明らかに“干渉したい”という感情が揺らいでいた。

 アナスタシアは強く視線を逸らした。

「だ、大丈夫ですわ。わたくしのことは、お気になさらず」

「気にする。……私は、君の夫だ」

「!!」

 その一言に、アナスタシアの心が激しく揺れた。

 契約上、確かに夫婦だ。
 けれど、今の“夫だ”という言葉は、それとは違う響きを持っていた。

 胸が、苦しいほどに締め付けられる。

(……落ち着かない。どうしてこんなに……)

 自分でも理由がわからない。
 ただひとつ分かるのは――

 ルキウス公爵の存在が、日増しに大きくなっているということ。

 白い結婚のはずなのに、彼の言動のすべてが胸をざわつかせる。

(……わたくし、どうしてしまったのでしょう)

 アナスタシアは自室へ戻り、そっと胸元を押さえた。
 心臓はまだ、落ち着く気配がなかった。

 そして、彼女の知らぬところで――
 ルキウスもまた、温室の毒を見つめながら深く息を吐いていた。

「……アナスタシアを泣かす者は、誰だろうと許さない」

 その眼差しは、冷たく鋭く、そして限りなく優しかった。


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