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第二章 ゲオルグの初恋
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ハクモクレンの木の前に、佇む少女がいた。
春にしては肌寒い日だというのに少女が着ているのは、宮廷使用人のお仕着せだった。
上着も着ず、薄手のお仕着せで過ごすなど、馬鹿の極みではないか。
体調管理一つも出来ないのかと、ゲオルグは苛立ちを露わに舌打ちをした。
「っ」
少女の身体が大きく跳ねて、ゲオルグを振り返った。
濡れた橙色の瞳がゲオルグを見た瞬間、ゲオルグは大人げない自分の行動を恥じる。どうやら少女は、声を押し殺して泣いていたらしい。
夕焼けのように美しい大きな橙色の瞳は、なぜかとても扇情的に見えた。艶やかな瞳がそうさせるのか、ぼんやりとした視線のなかに見える意志の強さがそう感じさせるのか。
少し開いたふっくらとした薄い色の唇も、ただそこにいるだけなのに、誘われているかのような錯覚を覚えてしまう。あの唇に己のそれを合わせたら甘いのだろうと、淫猥な思考が脳裏をかすめた。
ゲオルグは己が抱いた考えが信じられず、軽く頭を振って打ち消す。
子どもには似つかわしくない大人の色香のある少女だ。とはいえ、身体の凹凸はほとんどなく、お仕着せを着ていなければ、決して予備期間に入っているとは思わなかっただろう。
子どものような見目なのに、顔つきや表情は大人のそれという、非常にアンバランスな少女だった。
(これで、予備期間に入っているのか……幼く見えるな)
十三歳の頃、ゲオルグは地方の親元を離れて単身、騎士見習い寮で暮らし始めた。
あの頃の自分は大人になったような気分でいたが、目の前にいる少女は、当時の自分より遥かに幼い子どもに見える。
ぽかんとゲオルグを眺めていた少女は、はっと慌てたように一歩後ろへ下がった。その瞬間、足を縺れさせて、ぺたんと後ろに座り込んでしまう。
彼女の足元には、ハクモクレンの花がいくつも並べてあり、落ちた花弁を拾って集めていたのだと知る。
飯事の一種か、それとも気分を紛らわせたかったのか。
そもそも平日のこの時間、なぜ宮廷使用人がこのような場所にいるのだ。
疑問は膨らみ、ゲオルグは少女へ歩みを進めた。少女がビクリと身体を震わせたので、近くに落ちていた大きなハクモクレンの花を手のひらに乗せて、それを差し出す。少女の視線がハクモクレンへ向いたタイミングで、ゆっくりと、近くに歩み寄った。
獣へ食物をちらつかせているようだ、と胸中で苦笑する。少女がゲオルグの差し出したハクモクレンを手に取り、それを足元へ並べたのを見届けてから、声をかけた。
「何をしている?」
「反省です」
予想外の言葉と、幼子には思えないきっぱりとした物言いに驚いた。
それきり黙り込んだ少女を前に、ゲオルグは口を開いて――閉じる。見た目ほど幼いわけではない少女は、本人いわく『反省中』らしい。
そんな訳あり少女に踏み込んだところで、良いことはないだろう。
伏せた橙色の瞳が潤んで今にも雫がこぼれそうでも、本人がそれを堪えているのだから、深入りするほうが無粋というものだ。
無意識の計算は、いつだって己の利益を優先している。
ゲオルグは、伯爵家というには恵まれた生まれではなかったため、いつだってずる賢く、自分のことを優先的に考えなければならなかった。
母や伯母たち、姉や妹、従妹、女ばかりの家系での暮らしは肩身が狭く、意見さえ満足に述べることが出来なかった。
だが、正面から馬鹿正直に意見を述べるのではなく、湾曲して相手を動かし、間接的に欲しいものを得るほうが得策だと知ってからは、人の言動や表情を注意深く観察したものだ。
そういった経緯が、今の地位まで導いてくれたのだから、己の境遇というのはある意味武器になる。
だからこそ、ゲオルグは察する。
この少女と関わったとて、自分に得るものはない、と。
「なんの反省をしているのだ」
心とは裏腹に、質問が口からこぼれた。
興味本位が勝るなんて理性で生きているゲオルグらしくない行動だったが、こんな少女一人に多少深入りしたところで、自分の人生が狂わされることなどないだろう、といった侮りもあった。
少女は橙色の瞳でゲオルグを見上げたあと、後ろに尻もちをついたままだった格好から座り直し、足元に並べたハクモクレンの花々を見た。
「仕事で失敗したんです」
「……見習いか」
「はい」
「ならば、失敗したとて問題ないだろう」
少女は俯いて、ぎゅっと唇を噛む。
その姿が女々しくて、軽く苛立ちを覚えた。
「そうしてうじうじ悩み腐っていけばいい。きみはこれから、いくらでも好きな道を歩めるのだから、投げ出したところで問題はないだろう」
はっ、と少女が顔をあげる。
濡れた橙色の瞳に、ゲオルグのひねくれた大人の顔が映っていた。
(……大人げなかったか)
だが、思ったままを言っただけだ。
例えそれで少女が傷ついたとしても、知ったことではない。
「私、お父さんみたいになりたかったんです。でも、男と女は、仕事が違うそうです」
「当然だろう、適材適所だ」
少女はゲオルグの言葉に、嬉しそうに微笑んだ。
(……意味がわからない)
読心には長けたほうだと思っていたが、時折、この少女のように意味がわからない生き物もいる。
そういった者は、酷くゲオルグを苛立たせた。
なのになぜ自分はこの少女と向かい合ったままなのだろうと考えて、理由はすぐにわかった。
相手の考えが読めずにゲオルグが苛立つ場合、これまでは、相手のほうも不機嫌になって、ゲオルグの前を去っていくばかりだったのだ。
ゲオルグはいつだって、無意識に相手の言動から喜怒哀楽やその理由を探ってしまう。無駄な争いや対立を避けるために、上司、同僚、部下、誰が相手でも一定の間隔を保って接しているのだ。
自覚はないが、どうやらゲオルグの言葉は相手を逆なでするらしい。
この少女の考えはまったく読めないのだから、現在ゲオルグの気遣いは皆無の状態だ。
(どうせすぐに、怒ってどこかへ行くだろう)
実家にいた数多の女たちや、素のゲオルグと接してきた者たちのように。
(もっと心理について学ばねば。己の未熟さを再確認できただけでも、よしとするか)
相手が誰であっても、考えを察することが出来るようになれば、出世への道が大きく前進する。
現在のレイゼルゾルト王国は強靭な騎士の数が少なく、知略を練る者を必要としているのだ。隣国が戦争を仕掛けてくる可能性がある現在こそ、ゲオルグが確固たる地位を築くチャンスでもあった。
こんなところで、暇をしている場合ではない。
ゲオルグは少しでも経験を積み、力をつけたいのだ。
そんな理不尽な苛立ちが加わり、自然とゲオルグの口調が強くなってしまう。
「言いたいことは、はっきりと相手に伝わるように言え」
少女は驚いたようだった。
ただでさえ大きな瞳がこぼれ落ちそうなほどに見開かれて、少女がゆっくりと立ち上がる。
小柄な少女で、十三歳を迎えているとは思えない。
見た目の幼さと大人びた言動との不一致が、妙にゲオルグの心をざわめかせた。
「女の子は、静かなほうが美人だと言われてきたので、あまり話しませんでした。けれど、話さないと伝わらないですものね」
「あ、ああ」
答えてから、さり気なく視線を逸らす。
身近にいた女たちがおしゃべりだったからそれが当たり前だと考えていたが、確かに、世の中では、静かで男に従順な女のほうが美人と言われている。
この少女は、そんな暗黙の了解を守っていたらしい。
(いつもならば、それくらいすぐ察することが出来るのに)
この少女は、まだゲオルグの前から立ち去らない。
それどころか、はにかんだように笑みを浮かべていた。
得体のしれない存在だと、ゲオルグはこれまでにない危うさを覚える。
「私、お父さんみたいになろうって、思ってたんです」
少女は、そう言って笑みを深めた。
何かが吹っ切れたような、清々しい笑顔だ。
「でも無理だからやめます。だって私、女ですから。お父さんみたいな侍従長にはなれません」
宮廷使用人の侍従長は、男使用人から選ばれることになっていた。
女の身ではどうあがいても不可能だ。世の中には、出来ることと出来ないことがある。むしろ、なぜなろうとしたのか。
「仮になれても、私は私のやりたいことを見つけたので、偉い人になったら困ります。なので……お父さんはがっかりするかもしれないけれど、正直に、なりたい自分を見つけたことを、話すことにします」
なるほど、とゲオルグは少女の言わんとしたことを察した。
目指すべきものと目指したいものが、反したといったところだろう。これまで同じだと思っていた目標が、ある日突然別のものだと気づかされて、焦り戸惑い、否定し、仕事でミスを引き起こした。
どうやら少女が落ち込んでいた理由は、仕事の失敗そのものではなく、親の意に背いてしまう己の野望にあったらしい。
「よし! 今日はお父さんに休むように叱責を受けたので、明日から頑張ります!」
「そうか、よいことだ」
頷くと、少女は嬉しそうに微笑んだ。
今日見たなかで一番の笑顔を向けられて、気づけば当たり前のように、少女の頭を撫でていた。
少女が驚いた顔をするまで、自分の行動に違和感さえ持たなかったことに驚きながら、慌てて手を離す。
レイゼルゾルト王国の女は、予備期間を終えると同時に結婚する者が多い。予備期間は、仕事を学ぶ期間であり、同時に結婚相手を探す期間でもあるのだ。
つまり、ゲオルグからすれば幼く見える少女だが、世間一般で言うと、結婚相手を探す妙齢の女性ということになる。
そんな相手の頭を撫でることが出来るのは、恋人か夫くらいだろう。
気持ち悪いと引かれるかと思ったが、少女はほんのりと頬を赤くして、はにかんでいた。
(――っ)
そんなふうに微笑まれると、胸の奥がむずむずとする。
頬が熱くて、奇妙な感覚だった。
「そ、それで、きみは何を目指しているんだ」
「はい、お嫁さんです」
「…………む」
一瞬だけ、思考が停止した。
あまりにも女らしい望みだったので、逆に、予想がつかなかったのだ。
「出世より、私、好きな人の奥さんになりたいです。お父さんとお母さんみたいな、愛し愛される夫婦になるんです」
「それは……見習いで勤めた先に、きみが憧れるような夫婦がいたのか」
「なんでわかるんですか?」
驚く少女に、呆れた顔をする。
突然、考え方が変わったのだとすれば、元より少女が憧れていた「結婚」と同じ思想を持つ者に触れたからだ。
少女が言うには、先週先輩使用人が結婚退職したという。ずっと幸せそうだったけれど、少しだけ参加した結婚式で、とても美しくなった先輩を見て、これまで自分のなかに封じてきた望みを自覚したのだそうだ。
ゲオルグは、キラキラした瞳で話す少女に、ため息をつく。
途端に、少女は話を切り上げて、不安そうにゲオルグを見た。
「どうした」
「あ、あの、嫌な気持ちにさせてしまいましたか」
「いや、そんなことはない。実に女らしい望みだと思った。きみは美人だからな、花嫁衣装もよく似合うだろう」
少女は頬を染めて、照れたように笑う。
ころころと表情の変わる少女だ。
そしてやはり、この少女の思考はなぜか読めない。だが、不思議と苛立ちは消えており、少女も不機嫌になることはないように見えた。
「おじさんは、結婚してるんですか?」
「……おにいさんは、独身だ」
軽く顔を引きつらせて応えると、少女は慌てたように口をぱくぱくしたあと、大きく深呼吸をして、一人で大きく頷いた。
「じゃあ、あの、私と結婚してもらえませんか?」
期待と希望に煌めく大きな瞳で真っ直ぐに見つめられて、ゲオルグは再び、思考を停止させた。
ややのち額に手を当て、言葉を選びながら口をひらいた。
「きみは後先考えずに、行動するタイプか。結婚というのは、飯事ではない。相手をよく知り、相応しいか見極めてから、行うものだ」
「おにいさんは、私を見てくれます。話を聞いてくれました。それ以上に大事なことなんかありません」
ぐっ、と胸の前で拳を握り締めた少女は、やや遅れて顔を真っ赤にすると、両手で自らの顔を覆った。
「は、恥ずかしい……告白しちゃった」
「――っ」
顔を伏せていてくれて助かった、とゲオルグは口元を押さえる。
歳の離れた少女に、行き当たりばったりの告白をされて、なぜこうも気持ちが昂っているのか。理由など知りたくないが、ゲオルグもまた、告白されたのは初めてだった。
妙に面映ゆい。
こういった色恋に精を出す女は嫌いな部類のはずなのに、どうして、普通に会話をしているのだろう。
思えば始めから、少女だと知っていて声をかけた。
幼くても女は女ゆえに、避ける対象だというのに。
何が違うのか、なぜゲオルグはこの少女に声をかけたのか。
真っ赤な顔を隠している少女を見ていると、不思議な心地になる。素直にゲオルグの言葉を聞いて、話に耳を傾け、会話をしただけなのに、その時間が楽しいと感じたのだから、おかしなものだ。
「メリアっ!」
突然、悲鳴にも似た叫び声がして、ゲオルグは振り返る。
目の前にいた少女が弾かれるように顔をあげた。
「お母さん!」
「あ……なんだ、ゲオルグか。変な人がいると思った」
旧知らしい軽口で言われたが、どうやらミーティアはゲオルグを変質者と間違えたらしい。
憮然としたが、すぐにゲオルグは眉をひそめた。
今この少女は、ミーティアを「お母さん」と呼ばなかったか。
「きみの娘か?」
「そうだよ。ハクモクレンの花を集めて貰っていたんだ」
「なぜそんなことをさせるんだ」
「知らないの? 叔母様に教えて貰ったんだけどね。木から落ちたハクモクレンの花を集めると願いが叶うって言われてるんだって」
ミーティアは悩む我が子への解決策として、根拠のない迷信を示唆したらしい。
呆れていると、メリアと呼ばれた少女が、ゲオルグとミーティアを見比べて、首を傾げた。
「お母さんのお友達?」
「そう、ん、待って、えっと……お父さんのお友達」
ミーティアはそう言うと、きつい視線をゲオルグに向けた。
黙っていろ、ということらしい。
騎士団を辞めた時、ミーティアは婚約者ではない男と添いとげるために駆け落ちをした。その際、実家から絶縁を言い渡され、なんと、公爵家の名を捨てたのだ。
駆け落ちした身として、かつての身分を隠しているのだろう。仕方なく話に乗ってやることにした。
その後、ミーティアから書類を受け取った。
「あの子に笑顔が戻ってきてよかったよ。私や夫が何を言っても、あの子は落ち込んだままだったんだ。失敗なんか気にしなくてもいいって言ってるのに」
メリアは、庭の掃除へ行っていてここにいない。
ゲオルグは書類を確認しながら、呆れた目をミーティアに向けた。
「なぜ失敗したことで落ち込んでいると決めつける? もっと話を聞いてやれ。思うままに話してもよいと教えてやるのも大切だろう。年頃の娘だ、難しい部分もあるだろうが――」
「待って」
ミーティアが遮ったので、ゲオルグは手を止めた。
てっきり書類に不備があるのかと思ったが、ミーティアが遮ったのは会話のほうだったらしい。
「ゲオルグがそんなことを言うなんて。数年で随分と変わったね」
「は?」
「メリアを女の子として見て、それでも接してくれてるんだろう?」
「当たり前だろう、どうみても男には見えまい」
「そうじゃなくてさ。きみの女嫌いは結構頑固だからね。私のこと、ずっと、本当の意味で女だと認識していなかったじゃないか」
雷に打たれたように、全身が硬直した。
初めて出来た女友達だと思っていたが、ゲオルグのなかで、ミーティアは決して「異性」ではなかった。異性の友人という括りでさえなく、同期の一人として、性別を意識せずに接してきたのだ。
ミーティアは苦笑して、肩を竦めた。
「性別が全てじゃないし、考え方は個人のものだ。でもね、やっぱり私も、女なんだよ。ゲオルグたちとは、やりたいことも望みも違う。だから私は今を後悔していないんだ。こんなどうしようもない私を、ゾノーは愛してくれる。本当に幸せなんだよ」
結婚のために騎士団を辞めて、実家と決別するなど愚かだ。
そう考えていたし、今でもはっきりと「違う」とは言えない。だが、今やっと、ミーティアがゲオルグに一言も話さず騎士団を辞めた理由が、わかった気がした。
「親子だな」
「え? そういえば、メリアと何を話したのさ」
「本人から聞けばよかろう。いい加減、戻らねばならん」
「そう。また遊びにおいでよ。いつでも歓迎するから。旦那も紹介したいしね」
ゲオルグは惜しむことなく、その家をあとにした。
その後、気まぐれで何度かミーティアに会いに行ったが、残念なことにメリアが帰宅する日と重なることはなかった。旦那であるゾノーとは何度か会ったが、会うたびに仇を見るような目で見られた。
ミーティアと騎士団で同期だったからだろうと思ったが、根本的な理由は他にあった。
どうやらメリアが、両親にゲオルグと結婚したいと言ったことが原因らしい。もっとも、メリアは未だにゲオルグの名も知らないそうで、ゾノーいわく伝える気もないとのこと。
そんな、これまでとは違う日常が一年近く続いた頃。
あっけないほどあっさりと、ミーティアとゾノーは馬車の事故でこの世を去った。
最後に友人夫婦と話したのは、彼らが亡くなる一週間前だった。
酒を酌み交わしながら、ゾノーが「娘を幸せにしないと許さないからな」と泣き始めたことで、お開きとなったのだ。また今度、そう言って別れたまま、あの夫婦との今度は二度とやってこなかった。
その後、メリアは両親の死を受け止めて、現実的に生きてきた。
宮廷使用人として地位をあげ、見習いになってから九年たった今では、賓客をもてなす夜会にも給仕として仕えるほどに使用人として出世していた。
それは、メリアが最初に抱いた夢だった。
父親のような立派な宮廷使用人になるという、一度は諦めた夢を、彼女は再び目指すことにしたらしい。
そんなメリアを、ゲオルグはずっと見守ってきた。
腐れ縁とは恐ろしいもので、今尚上司であるバルバロッサからも数多の情報が転がり込んでくる。頑張るメリアを応援するバルバロッサは、メリアに何かあったときのために、全てを捨ててでもメリアを守ろうと独身を貫いていた。所帯をもつことで、捨てられないものが出来てしまうことを恐れているのだ。
肩入れし過ぎだと思わないでもない。
だがゲオルグは、ミーティアを失ったときのバルバロッサの絶望を知っている。
両親を説得できず妹の勘当を受け入れることしか出来なかった挙句に、妹が若くして死んでしまったのだと知ったときのバルバロッサの焦燥ぶりは、目を覆いたくなるほどだった。
残された姪への執着は、贖罪の気持ちも兼ねているのだろう。
ゲオルグもまた長年に渡ってメリアを見守ってきた。だが、メリアに近づく男は一向に減らない。
あまりにも邪心な男ばかりゆえに何度も手を回して追い払ってきたが、きりがないほどに別の男が寄ってくる。
どの者もメリアの身体目当ての愚か共ばかりだ。しかし今後、メリアを本気で愛する男が現れる可能性も大いにある。
そうなれば、メリアはかつて抱いた夢を――お嫁さんになりたい、という夢を、再び目指すかもしれない。
そう考えたとき、ゲオルグの中で、どす黒い感情が弾けた。
バルバロッサのメリアに対する執着など可愛いものだと思えるほど、自分がメリアを愛しているのだと気づいた瞬間だった。
ゲオルグが良からぬ噂を聞いたのは、今から二か月前だ。
元より遊び回っている下衆な噂しか聞かないレイブランド子爵が、メリアを次の標的に定めたという。
密偵を潜り込ませて、メリアに危険がないかどうか見張らせ、レイブランド子爵がメリアに手を出そうとするたびに、さり気なく邪魔をさせた。
いい加減諦めればよいものを、どうやらレイブランド子爵は、頭に超がつくほどの愚か者らしい。これまで標的にしてきた娘たちと違い、なかなか自分の物に出来ないメリアに業を煮やして、強行することに決めたというのだ。
ゲオルグは、今しかない、と考えた。
幸い、人を動かすのは得意だと自負している。
ゲオルグは計画を練り、そして、次にレイブランド子爵とメリアが対面する日を、王族主催のパーティの日になるよう整えた。
なぜならばその日は第二王子が騎士団へ入隊する祝いの日であり、騎士団の団員も任意でパーティに参加できるからだ。
その日ならば、ゲオルグも王宮に自然な形で出入りが出来る。
レイブランド子爵を利用し、自然な形でメリアに近づくことで、強引にでも婚約へ持って行く。
それが、ゲオルグがたてた計画だった――。
春にしては肌寒い日だというのに少女が着ているのは、宮廷使用人のお仕着せだった。
上着も着ず、薄手のお仕着せで過ごすなど、馬鹿の極みではないか。
体調管理一つも出来ないのかと、ゲオルグは苛立ちを露わに舌打ちをした。
「っ」
少女の身体が大きく跳ねて、ゲオルグを振り返った。
濡れた橙色の瞳がゲオルグを見た瞬間、ゲオルグは大人げない自分の行動を恥じる。どうやら少女は、声を押し殺して泣いていたらしい。
夕焼けのように美しい大きな橙色の瞳は、なぜかとても扇情的に見えた。艶やかな瞳がそうさせるのか、ぼんやりとした視線のなかに見える意志の強さがそう感じさせるのか。
少し開いたふっくらとした薄い色の唇も、ただそこにいるだけなのに、誘われているかのような錯覚を覚えてしまう。あの唇に己のそれを合わせたら甘いのだろうと、淫猥な思考が脳裏をかすめた。
ゲオルグは己が抱いた考えが信じられず、軽く頭を振って打ち消す。
子どもには似つかわしくない大人の色香のある少女だ。とはいえ、身体の凹凸はほとんどなく、お仕着せを着ていなければ、決して予備期間に入っているとは思わなかっただろう。
子どものような見目なのに、顔つきや表情は大人のそれという、非常にアンバランスな少女だった。
(これで、予備期間に入っているのか……幼く見えるな)
十三歳の頃、ゲオルグは地方の親元を離れて単身、騎士見習い寮で暮らし始めた。
あの頃の自分は大人になったような気分でいたが、目の前にいる少女は、当時の自分より遥かに幼い子どもに見える。
ぽかんとゲオルグを眺めていた少女は、はっと慌てたように一歩後ろへ下がった。その瞬間、足を縺れさせて、ぺたんと後ろに座り込んでしまう。
彼女の足元には、ハクモクレンの花がいくつも並べてあり、落ちた花弁を拾って集めていたのだと知る。
飯事の一種か、それとも気分を紛らわせたかったのか。
そもそも平日のこの時間、なぜ宮廷使用人がこのような場所にいるのだ。
疑問は膨らみ、ゲオルグは少女へ歩みを進めた。少女がビクリと身体を震わせたので、近くに落ちていた大きなハクモクレンの花を手のひらに乗せて、それを差し出す。少女の視線がハクモクレンへ向いたタイミングで、ゆっくりと、近くに歩み寄った。
獣へ食物をちらつかせているようだ、と胸中で苦笑する。少女がゲオルグの差し出したハクモクレンを手に取り、それを足元へ並べたのを見届けてから、声をかけた。
「何をしている?」
「反省です」
予想外の言葉と、幼子には思えないきっぱりとした物言いに驚いた。
それきり黙り込んだ少女を前に、ゲオルグは口を開いて――閉じる。見た目ほど幼いわけではない少女は、本人いわく『反省中』らしい。
そんな訳あり少女に踏み込んだところで、良いことはないだろう。
伏せた橙色の瞳が潤んで今にも雫がこぼれそうでも、本人がそれを堪えているのだから、深入りするほうが無粋というものだ。
無意識の計算は、いつだって己の利益を優先している。
ゲオルグは、伯爵家というには恵まれた生まれではなかったため、いつだってずる賢く、自分のことを優先的に考えなければならなかった。
母や伯母たち、姉や妹、従妹、女ばかりの家系での暮らしは肩身が狭く、意見さえ満足に述べることが出来なかった。
だが、正面から馬鹿正直に意見を述べるのではなく、湾曲して相手を動かし、間接的に欲しいものを得るほうが得策だと知ってからは、人の言動や表情を注意深く観察したものだ。
そういった経緯が、今の地位まで導いてくれたのだから、己の境遇というのはある意味武器になる。
だからこそ、ゲオルグは察する。
この少女と関わったとて、自分に得るものはない、と。
「なんの反省をしているのだ」
心とは裏腹に、質問が口からこぼれた。
興味本位が勝るなんて理性で生きているゲオルグらしくない行動だったが、こんな少女一人に多少深入りしたところで、自分の人生が狂わされることなどないだろう、といった侮りもあった。
少女は橙色の瞳でゲオルグを見上げたあと、後ろに尻もちをついたままだった格好から座り直し、足元に並べたハクモクレンの花々を見た。
「仕事で失敗したんです」
「……見習いか」
「はい」
「ならば、失敗したとて問題ないだろう」
少女は俯いて、ぎゅっと唇を噛む。
その姿が女々しくて、軽く苛立ちを覚えた。
「そうしてうじうじ悩み腐っていけばいい。きみはこれから、いくらでも好きな道を歩めるのだから、投げ出したところで問題はないだろう」
はっ、と少女が顔をあげる。
濡れた橙色の瞳に、ゲオルグのひねくれた大人の顔が映っていた。
(……大人げなかったか)
だが、思ったままを言っただけだ。
例えそれで少女が傷ついたとしても、知ったことではない。
「私、お父さんみたいになりたかったんです。でも、男と女は、仕事が違うそうです」
「当然だろう、適材適所だ」
少女はゲオルグの言葉に、嬉しそうに微笑んだ。
(……意味がわからない)
読心には長けたほうだと思っていたが、時折、この少女のように意味がわからない生き物もいる。
そういった者は、酷くゲオルグを苛立たせた。
なのになぜ自分はこの少女と向かい合ったままなのだろうと考えて、理由はすぐにわかった。
相手の考えが読めずにゲオルグが苛立つ場合、これまでは、相手のほうも不機嫌になって、ゲオルグの前を去っていくばかりだったのだ。
ゲオルグはいつだって、無意識に相手の言動から喜怒哀楽やその理由を探ってしまう。無駄な争いや対立を避けるために、上司、同僚、部下、誰が相手でも一定の間隔を保って接しているのだ。
自覚はないが、どうやらゲオルグの言葉は相手を逆なでするらしい。
この少女の考えはまったく読めないのだから、現在ゲオルグの気遣いは皆無の状態だ。
(どうせすぐに、怒ってどこかへ行くだろう)
実家にいた数多の女たちや、素のゲオルグと接してきた者たちのように。
(もっと心理について学ばねば。己の未熟さを再確認できただけでも、よしとするか)
相手が誰であっても、考えを察することが出来るようになれば、出世への道が大きく前進する。
現在のレイゼルゾルト王国は強靭な騎士の数が少なく、知略を練る者を必要としているのだ。隣国が戦争を仕掛けてくる可能性がある現在こそ、ゲオルグが確固たる地位を築くチャンスでもあった。
こんなところで、暇をしている場合ではない。
ゲオルグは少しでも経験を積み、力をつけたいのだ。
そんな理不尽な苛立ちが加わり、自然とゲオルグの口調が強くなってしまう。
「言いたいことは、はっきりと相手に伝わるように言え」
少女は驚いたようだった。
ただでさえ大きな瞳がこぼれ落ちそうなほどに見開かれて、少女がゆっくりと立ち上がる。
小柄な少女で、十三歳を迎えているとは思えない。
見た目の幼さと大人びた言動との不一致が、妙にゲオルグの心をざわめかせた。
「女の子は、静かなほうが美人だと言われてきたので、あまり話しませんでした。けれど、話さないと伝わらないですものね」
「あ、ああ」
答えてから、さり気なく視線を逸らす。
身近にいた女たちがおしゃべりだったからそれが当たり前だと考えていたが、確かに、世の中では、静かで男に従順な女のほうが美人と言われている。
この少女は、そんな暗黙の了解を守っていたらしい。
(いつもならば、それくらいすぐ察することが出来るのに)
この少女は、まだゲオルグの前から立ち去らない。
それどころか、はにかんだように笑みを浮かべていた。
得体のしれない存在だと、ゲオルグはこれまでにない危うさを覚える。
「私、お父さんみたいになろうって、思ってたんです」
少女は、そう言って笑みを深めた。
何かが吹っ切れたような、清々しい笑顔だ。
「でも無理だからやめます。だって私、女ですから。お父さんみたいな侍従長にはなれません」
宮廷使用人の侍従長は、男使用人から選ばれることになっていた。
女の身ではどうあがいても不可能だ。世の中には、出来ることと出来ないことがある。むしろ、なぜなろうとしたのか。
「仮になれても、私は私のやりたいことを見つけたので、偉い人になったら困ります。なので……お父さんはがっかりするかもしれないけれど、正直に、なりたい自分を見つけたことを、話すことにします」
なるほど、とゲオルグは少女の言わんとしたことを察した。
目指すべきものと目指したいものが、反したといったところだろう。これまで同じだと思っていた目標が、ある日突然別のものだと気づかされて、焦り戸惑い、否定し、仕事でミスを引き起こした。
どうやら少女が落ち込んでいた理由は、仕事の失敗そのものではなく、親の意に背いてしまう己の野望にあったらしい。
「よし! 今日はお父さんに休むように叱責を受けたので、明日から頑張ります!」
「そうか、よいことだ」
頷くと、少女は嬉しそうに微笑んだ。
今日見たなかで一番の笑顔を向けられて、気づけば当たり前のように、少女の頭を撫でていた。
少女が驚いた顔をするまで、自分の行動に違和感さえ持たなかったことに驚きながら、慌てて手を離す。
レイゼルゾルト王国の女は、予備期間を終えると同時に結婚する者が多い。予備期間は、仕事を学ぶ期間であり、同時に結婚相手を探す期間でもあるのだ。
つまり、ゲオルグからすれば幼く見える少女だが、世間一般で言うと、結婚相手を探す妙齢の女性ということになる。
そんな相手の頭を撫でることが出来るのは、恋人か夫くらいだろう。
気持ち悪いと引かれるかと思ったが、少女はほんのりと頬を赤くして、はにかんでいた。
(――っ)
そんなふうに微笑まれると、胸の奥がむずむずとする。
頬が熱くて、奇妙な感覚だった。
「そ、それで、きみは何を目指しているんだ」
「はい、お嫁さんです」
「…………む」
一瞬だけ、思考が停止した。
あまりにも女らしい望みだったので、逆に、予想がつかなかったのだ。
「出世より、私、好きな人の奥さんになりたいです。お父さんとお母さんみたいな、愛し愛される夫婦になるんです」
「それは……見習いで勤めた先に、きみが憧れるような夫婦がいたのか」
「なんでわかるんですか?」
驚く少女に、呆れた顔をする。
突然、考え方が変わったのだとすれば、元より少女が憧れていた「結婚」と同じ思想を持つ者に触れたからだ。
少女が言うには、先週先輩使用人が結婚退職したという。ずっと幸せそうだったけれど、少しだけ参加した結婚式で、とても美しくなった先輩を見て、これまで自分のなかに封じてきた望みを自覚したのだそうだ。
ゲオルグは、キラキラした瞳で話す少女に、ため息をつく。
途端に、少女は話を切り上げて、不安そうにゲオルグを見た。
「どうした」
「あ、あの、嫌な気持ちにさせてしまいましたか」
「いや、そんなことはない。実に女らしい望みだと思った。きみは美人だからな、花嫁衣装もよく似合うだろう」
少女は頬を染めて、照れたように笑う。
ころころと表情の変わる少女だ。
そしてやはり、この少女の思考はなぜか読めない。だが、不思議と苛立ちは消えており、少女も不機嫌になることはないように見えた。
「おじさんは、結婚してるんですか?」
「……おにいさんは、独身だ」
軽く顔を引きつらせて応えると、少女は慌てたように口をぱくぱくしたあと、大きく深呼吸をして、一人で大きく頷いた。
「じゃあ、あの、私と結婚してもらえませんか?」
期待と希望に煌めく大きな瞳で真っ直ぐに見つめられて、ゲオルグは再び、思考を停止させた。
ややのち額に手を当て、言葉を選びながら口をひらいた。
「きみは後先考えずに、行動するタイプか。結婚というのは、飯事ではない。相手をよく知り、相応しいか見極めてから、行うものだ」
「おにいさんは、私を見てくれます。話を聞いてくれました。それ以上に大事なことなんかありません」
ぐっ、と胸の前で拳を握り締めた少女は、やや遅れて顔を真っ赤にすると、両手で自らの顔を覆った。
「は、恥ずかしい……告白しちゃった」
「――っ」
顔を伏せていてくれて助かった、とゲオルグは口元を押さえる。
歳の離れた少女に、行き当たりばったりの告白をされて、なぜこうも気持ちが昂っているのか。理由など知りたくないが、ゲオルグもまた、告白されたのは初めてだった。
妙に面映ゆい。
こういった色恋に精を出す女は嫌いな部類のはずなのに、どうして、普通に会話をしているのだろう。
思えば始めから、少女だと知っていて声をかけた。
幼くても女は女ゆえに、避ける対象だというのに。
何が違うのか、なぜゲオルグはこの少女に声をかけたのか。
真っ赤な顔を隠している少女を見ていると、不思議な心地になる。素直にゲオルグの言葉を聞いて、話に耳を傾け、会話をしただけなのに、その時間が楽しいと感じたのだから、おかしなものだ。
「メリアっ!」
突然、悲鳴にも似た叫び声がして、ゲオルグは振り返る。
目の前にいた少女が弾かれるように顔をあげた。
「お母さん!」
「あ……なんだ、ゲオルグか。変な人がいると思った」
旧知らしい軽口で言われたが、どうやらミーティアはゲオルグを変質者と間違えたらしい。
憮然としたが、すぐにゲオルグは眉をひそめた。
今この少女は、ミーティアを「お母さん」と呼ばなかったか。
「きみの娘か?」
「そうだよ。ハクモクレンの花を集めて貰っていたんだ」
「なぜそんなことをさせるんだ」
「知らないの? 叔母様に教えて貰ったんだけどね。木から落ちたハクモクレンの花を集めると願いが叶うって言われてるんだって」
ミーティアは悩む我が子への解決策として、根拠のない迷信を示唆したらしい。
呆れていると、メリアと呼ばれた少女が、ゲオルグとミーティアを見比べて、首を傾げた。
「お母さんのお友達?」
「そう、ん、待って、えっと……お父さんのお友達」
ミーティアはそう言うと、きつい視線をゲオルグに向けた。
黙っていろ、ということらしい。
騎士団を辞めた時、ミーティアは婚約者ではない男と添いとげるために駆け落ちをした。その際、実家から絶縁を言い渡され、なんと、公爵家の名を捨てたのだ。
駆け落ちした身として、かつての身分を隠しているのだろう。仕方なく話に乗ってやることにした。
その後、ミーティアから書類を受け取った。
「あの子に笑顔が戻ってきてよかったよ。私や夫が何を言っても、あの子は落ち込んだままだったんだ。失敗なんか気にしなくてもいいって言ってるのに」
メリアは、庭の掃除へ行っていてここにいない。
ゲオルグは書類を確認しながら、呆れた目をミーティアに向けた。
「なぜ失敗したことで落ち込んでいると決めつける? もっと話を聞いてやれ。思うままに話してもよいと教えてやるのも大切だろう。年頃の娘だ、難しい部分もあるだろうが――」
「待って」
ミーティアが遮ったので、ゲオルグは手を止めた。
てっきり書類に不備があるのかと思ったが、ミーティアが遮ったのは会話のほうだったらしい。
「ゲオルグがそんなことを言うなんて。数年で随分と変わったね」
「は?」
「メリアを女の子として見て、それでも接してくれてるんだろう?」
「当たり前だろう、どうみても男には見えまい」
「そうじゃなくてさ。きみの女嫌いは結構頑固だからね。私のこと、ずっと、本当の意味で女だと認識していなかったじゃないか」
雷に打たれたように、全身が硬直した。
初めて出来た女友達だと思っていたが、ゲオルグのなかで、ミーティアは決して「異性」ではなかった。異性の友人という括りでさえなく、同期の一人として、性別を意識せずに接してきたのだ。
ミーティアは苦笑して、肩を竦めた。
「性別が全てじゃないし、考え方は個人のものだ。でもね、やっぱり私も、女なんだよ。ゲオルグたちとは、やりたいことも望みも違う。だから私は今を後悔していないんだ。こんなどうしようもない私を、ゾノーは愛してくれる。本当に幸せなんだよ」
結婚のために騎士団を辞めて、実家と決別するなど愚かだ。
そう考えていたし、今でもはっきりと「違う」とは言えない。だが、今やっと、ミーティアがゲオルグに一言も話さず騎士団を辞めた理由が、わかった気がした。
「親子だな」
「え? そういえば、メリアと何を話したのさ」
「本人から聞けばよかろう。いい加減、戻らねばならん」
「そう。また遊びにおいでよ。いつでも歓迎するから。旦那も紹介したいしね」
ゲオルグは惜しむことなく、その家をあとにした。
その後、気まぐれで何度かミーティアに会いに行ったが、残念なことにメリアが帰宅する日と重なることはなかった。旦那であるゾノーとは何度か会ったが、会うたびに仇を見るような目で見られた。
ミーティアと騎士団で同期だったからだろうと思ったが、根本的な理由は他にあった。
どうやらメリアが、両親にゲオルグと結婚したいと言ったことが原因らしい。もっとも、メリアは未だにゲオルグの名も知らないそうで、ゾノーいわく伝える気もないとのこと。
そんな、これまでとは違う日常が一年近く続いた頃。
あっけないほどあっさりと、ミーティアとゾノーは馬車の事故でこの世を去った。
最後に友人夫婦と話したのは、彼らが亡くなる一週間前だった。
酒を酌み交わしながら、ゾノーが「娘を幸せにしないと許さないからな」と泣き始めたことで、お開きとなったのだ。また今度、そう言って別れたまま、あの夫婦との今度は二度とやってこなかった。
その後、メリアは両親の死を受け止めて、現実的に生きてきた。
宮廷使用人として地位をあげ、見習いになってから九年たった今では、賓客をもてなす夜会にも給仕として仕えるほどに使用人として出世していた。
それは、メリアが最初に抱いた夢だった。
父親のような立派な宮廷使用人になるという、一度は諦めた夢を、彼女は再び目指すことにしたらしい。
そんなメリアを、ゲオルグはずっと見守ってきた。
腐れ縁とは恐ろしいもので、今尚上司であるバルバロッサからも数多の情報が転がり込んでくる。頑張るメリアを応援するバルバロッサは、メリアに何かあったときのために、全てを捨ててでもメリアを守ろうと独身を貫いていた。所帯をもつことで、捨てられないものが出来てしまうことを恐れているのだ。
肩入れし過ぎだと思わないでもない。
だがゲオルグは、ミーティアを失ったときのバルバロッサの絶望を知っている。
両親を説得できず妹の勘当を受け入れることしか出来なかった挙句に、妹が若くして死んでしまったのだと知ったときのバルバロッサの焦燥ぶりは、目を覆いたくなるほどだった。
残された姪への執着は、贖罪の気持ちも兼ねているのだろう。
ゲオルグもまた長年に渡ってメリアを見守ってきた。だが、メリアに近づく男は一向に減らない。
あまりにも邪心な男ばかりゆえに何度も手を回して追い払ってきたが、きりがないほどに別の男が寄ってくる。
どの者もメリアの身体目当ての愚か共ばかりだ。しかし今後、メリアを本気で愛する男が現れる可能性も大いにある。
そうなれば、メリアはかつて抱いた夢を――お嫁さんになりたい、という夢を、再び目指すかもしれない。
そう考えたとき、ゲオルグの中で、どす黒い感情が弾けた。
バルバロッサのメリアに対する執着など可愛いものだと思えるほど、自分がメリアを愛しているのだと気づいた瞬間だった。
ゲオルグが良からぬ噂を聞いたのは、今から二か月前だ。
元より遊び回っている下衆な噂しか聞かないレイブランド子爵が、メリアを次の標的に定めたという。
密偵を潜り込ませて、メリアに危険がないかどうか見張らせ、レイブランド子爵がメリアに手を出そうとするたびに、さり気なく邪魔をさせた。
いい加減諦めればよいものを、どうやらレイブランド子爵は、頭に超がつくほどの愚か者らしい。これまで標的にしてきた娘たちと違い、なかなか自分の物に出来ないメリアに業を煮やして、強行することに決めたというのだ。
ゲオルグは、今しかない、と考えた。
幸い、人を動かすのは得意だと自負している。
ゲオルグは計画を練り、そして、次にレイブランド子爵とメリアが対面する日を、王族主催のパーティの日になるよう整えた。
なぜならばその日は第二王子が騎士団へ入隊する祝いの日であり、騎士団の団員も任意でパーティに参加できるからだ。
その日ならば、ゲオルグも王宮に自然な形で出入りが出来る。
レイブランド子爵を利用し、自然な形でメリアに近づくことで、強引にでも婚約へ持って行く。
それが、ゲオルグがたてた計画だった――。
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