【8話完結】帰ってきた勇者様が褒美に私を所望している件について。

キノア9g

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第2話|異世界から来た社畜勇者(過去回想の始まり・勇者視点)

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 ──二十連勤目だった。

 始発で出勤し、終電を逃してタクシー帰宅。
 そんな生活が、もういつから続いていたのかもわからない。
 スーツの襟は擦り切れ、靴は雨に濡れて乾ききらず、顔は見事なまでにクマで彩られていた。
 それでも、歯を食いしばって会社へ向かうしかなかった。
 上司に理不尽に怒鳴られ、得意先に詰められ、後輩の尻拭いをしながら、それでも──

(俺がやらなきゃ、誰がやるんだ)

 そんな一心で、今日もエナドリをおともに、パソコンに向かっていた、はずだった。


 ──気づけば、知らない場所に立っていた。

 高い天井、金糸を織り込んだ豪奢なタペストリー、燦然と輝くシャンデリア。
 足元の大理石は、疲れた靴底にはもったいないほど白く、艶やかに光を反射している。
 どこか花の香りすら漂う空間。
 目の前には、見慣れない衣装に身を包んだ男女がずらりと並び──

「異世界よりの勇者よ、よくぞこの地に顕現された!」

 ──は?

 乾ききった脳が、現状を把握するより先に限界を告げた。

 王座に座る初老の男──たぶんこの国の王だろう──が、重々しく俺を見下ろしている。
 その隣には、凛とした美貌を湛えた姫君が立っていた。
 だが。

 ヨレヨレのスーツ、クタクタの顔面、灰色に濁った目。
 そんな俺を一目見た王族たちは、まるでゴミでも見るように顔をしかめた。

「……なんだ、あれが勇者か」

「これでは魔王に勝てるどころか、門番すら突破できまい」

 失望と侮蔑の声が、遠慮もなく響く。


 ──ああ、なるほどな。

 こっちでも、俺は期待外れか。

 心の中で、何かがぽきりと音を立てた。


 王族たちは興味を失ったように視線を逸らし、側近らしき者たちも、俺を露骨に鼻で笑う。
 早々に俺を『失敗作』と見限ったその様子に、憤りすら湧かなかった。
 ただ、冷たく、静かに心が乾いていく。


 会社でも、学校でも、家でも。
 俺はいくら頑張っても、いや、頑張れば頑張るほど、「いてもいなくてもいい存在」だった。

 ──異世界でも、俺はこんな扱いか。
 お前たちが、俺を求めたんじゃないのかよ。

 視界がふらりと傾ぐ。
 転移の衝撃、過労、心の疲弊──すべてが重なって、俺の身体はもはや支えを失っていた。

 崩れるように膝をつき、意識が暗く沈もうとした、そのとき。

 ふわりと、あたたかな腕に抱き留められる。


「……大丈夫、ですか?」

 そっと、優しい声が降ってきた。

 ぼんやりと顔を上げる。
 そこには、小さな手が、そっと差し出されていた。

 細く白い指先、柔らかな銀色の髪。
 透き通るような青い瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。

 ──天使だ。

 意識を手放す寸前の脳は、本気でそう思っていた。


 ◇◇◇


 目を覚ましたとき、俺はふかふかのベッドに寝かされていた。

 見上げた天蓋は、陽だまりのようにあたたかく、カーテンから差し込む光は柔らかい。
 シーツからは、清潔で少し甘い香りがした。
 あまりにも心地よくて、ふと、現代でのボロアパート暮らしを思い出す。
 剥がれかけた天井、カビ臭い布団──ああ、夢でも見ているのかもしれない。

「目、覚めましたか?」

 小さな声がして、横を向く。
 そこにいたのは、倒れる寸前に手を差し伸べてくれた──

「……天使……?」

 思わず、無意識に声が漏れた。
 銀糸を織り込んだみたいな髪。
 澄んだ青の瞳。
 
 冬の朝日にきらめく雪の結晶みたいな美しさだった。
 儚げで、それでいて、どこか懐かしい。
 こんな存在、現実にいるわけがない。

 ふわりと、その天使は微笑んだ。
 一瞬で、胸が焼かれるようなときめきが走る。

 それはまるで、寒い夜に灯った暖炉の火を見つけたみたいに。
 この凍えきった世界に、たった一つだけ差し出された、温もりだった。

「リュシアン・セレスタイトと申します。……第三王子ですが、どうぞお気になさらず」

 王子?
 ──男子?
 ──は?

 まだどこか夢見心地だった脳が、突然ぐるぐると回り出す。

 いやいやいや、こんな綺麗な人が男なわけないだろ……。

 無意識に俺は、上から下まで彼を見つめた。

 しなやかに伸びた睫毛。
 すべらかな頬。
 細くて華奢な手首。
 広がる銀髪は、かすかに甘い花の香りがした気さえする。

 ──これはどう見ても女子、だ。絶対に。
 訳あって男子と名乗ってるだけだなこれは。よくある。異世界だし。たぶん。
 そう自己完結し、納得した。

 もう一度、彼──いや、姫様を見上げる。
 綺麗すぎるその青の瞳が、まっすぐに俺を見下ろしていた。
 その視線は、やわらかく、あたたかく、どこまでも優しい。

(……ああ、恋をすると、世界に色がつくとはよく聞くけれど)

 心臓が、ドクンと音を立てた。

 ──俺はこの人に、一目惚れしたらしい。


 ◇◇◇


 それから一週間。
 リュシアン殿──いや、姫様は、誰よりも献身的に俺を看病してくれた。

 食事を運び、薬を飲ませ、夜中のうなされる俺の額を拭ってくれる。
 何度もベッドサイドに座り、寝ぼけてうわ言を呟く俺の手を、そっと握ってくれた。

 異世界の王族が、異世界の勇者(しかも社畜くたびれスーツ)の世話をしている。
 本来ならば、あり得ない構図だった。
 それでも──
 俺は、夢でも見ているような日々に、心を溶かされていった。

 こんな優しい世界が、あっていいのか。
 俺みたいなボロ雑巾に、こんな手を差し伸べてくれる人が、いていいのか。

 何度もそう思った。
 そしてそのたびに、そっと胸に手を当てた。

 そこには、確かに、姫様がくれた「救い」が息づいていた。

 ──まだ、何も始まっていないけれど。
 それでも、この時、俺はもう、決めていたのかもしれない。

 姫様だけは、絶対に守り抜く、と。
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