【8話完結】帰ってきた勇者様が褒美に私を所望している件について。

キノア9g

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第4話|小さな約束

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 春の光が、王城の石畳に柔らかな模様を描いていた。
 白い花が咲き誇る中庭には、祝いの日にふさわしい、やわらかな光があふれていた。
 彩られた回廊には絹の旗が風にはためき、陽の光を反射してきらめくその様子は、まるでこの場全体が、勇者の旅立ちを讃えているかのようだった。

 その祝福された場所を、勇者様が歩いていく。
 深い青と銀を基調とした特注の旅装束は、彼の凛々しさを際立たせていた。
 肩に刺繍された王国の紋章が、陽光を反射して微かに煌めいている。
 真新しいブーツが石畳を踏みしめる音が、静かに響くたび──
 まるで、その一歩一歩が、伝説の始まりを告げているようだった。

 そして──その対照のように。
 私は、華やかな祝賀の影に、静かに立ち尽くしていた。

 今日、勇者様は旅立つ。
 魔王討伐という、果てしない使命を背負って。

 誰もが、その背を讃え、未来を託す。
 けれど私だけは、笑うことができなかった。

 嬉しいはずだった。誇らしく思えるはずだった。
 でも、胸の奥には、ひどく静かな孤独が沈んでいる。

 賛美と歓声が、彼の背を押している。
 無数の期待と、賞賛と、希望とが、彼を囲んでいる。
 それなのに──あの横顔は、不思議なほど静かだった。
 誰の言葉にも頷きながら、どこか遠くを見ているようなその瞳に、私は言いようのない痛みを覚えた。

「……勇者様」

 呼びかけた声は、自分でも驚くほど小さかった。

 私は、前の晩にこっそり作った小さなお守りを、手に握りしめていた。
 白銀の糸で一針一針、祈るように縫った。
 どうか、彼が無事でありますように。
 どうか、あの優しい笑顔が消えませんように。

 それを──この手で、渡したかった。

 けれど。

 人々の輪が、大きく立ちはだかっていた。
 近づこうとした私の前に、またあの侍女が立ちふさがる。
 表情には笑みを浮かべていたけれど、その目は、冷ややかに告げていた。
「これ以上、近づくな」と。

 ああ、まただ。
 彼の隣に立つことさえ、許されないのだと──
 思い知らされる。

 悔しさに、手のひらがじんと熱くなる。

 それでも視線を落とせずにいた、そのとき──

「……リュシアン殿」

 静かな声が、騒がしさの中で不思議とはっきりと耳に届いた。
 人々をかき分けるようにして、勇者様が、私の方へと歩いてきてくれていた。

 周囲が一瞬どよめいた。
 侍女が戸惑ったように下がる。

「それは……?」

 私は、握っていたお守りをそっと差し出した。

「……旅のお供に、どうぞ」

 私の手は、ほんのすこし震えていた。

 わがままを言うつもりはなかった。
 ただ、これだけは、どうしても渡したかった。

 ありがとう、気をつけて、寂しい──

 伝えたい言葉が溢れてくる。
 けれど私は、結局そのどれも言えなかった。
 私は、そんな言葉を口にできる立場じゃないと、知っていたから。

 それでも、彼が両手でお守りを包み込む姿に、胸がきゅうっと締めつけられる。

「……必ず、帰ってきます」

 その声は、静かで、けれど確かだった。
 冗談でも社交辞令でもない、本当に心からの言葉だとわかった。

 私は、ぐっと唇を噛んだ。
 それでも、目元が熱くなる。
 こぼれ落ちる寸前の涙を押しとどめるように、まばたきを一つ、深くする。

 目の前の彼は、ただ真っ直ぐに私を見つめていた。
 まるで、この瞬間を心に刻むように、逃さぬように。
 強さの奥にある静けさが、その瞳の奥に宿っていた。

 陽光が揺れるなか、風が旗を鳴らす。
 あのきらめきの只中で、たったふたりの時間だけが、密やかに流れていた。

 そのまなざしに、ああ──この人は、私とのこの約束を、ちゃんと心に留めてくれているのだと。
 そう思っただけで、胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 ◇◇◇


 城門の前には、見送りの人々がずらりと列をなし、その視線がひとつの背を追っていた。
 王族たちが整然と並び、騎士団の紋章が陽光に光る。撒かれた花々が道を彩り、騎馬のたづなを取る兵たちの顔にも、どこか神聖な緊張が浮かんでいた。
 澄んだ青い空に白い旗が高く掲げられ、その風景はまるで、英雄譚の一頁のようだった。

 ──けれど私は、その列には加われなかった。
 さっきのやりとりのあと、あの侍女が、静かな声で言ったのだ。
「これ以上は、ご遠慮くださいませ」と。
 私は、門前の花壇の陰へと、ただ静かに身を引いた。

 仕方のないことだ。
 私は、称号も、才もない。ただ“第三王子”という名だけの、空っぽな肩書き。
 人目を引くような力もなければ、誰かの盾となる腕もない。
 あの人の隣に並ぶには──何もかもが、決定的に足りなかった。

 春の光が、白い石畳を柔らかく照らしている。
 その中を、勇者様が馬に乗り、ゆっくりと前へ進んでいく。
 旅装束の裾が風に揺れていた。

 勇者様は、振り返らない。
 当然だ。
 今、彼が見つめているのは──遥かな未来なのだから。

 私は、胸の奥にぽっかりと空いた静けさを、そっと自分で覆い隠すようにして、瞳を細めた。
 あの人に言葉を届けられたこと。
 手作りのお守りを、この手で渡せたこと。
 それだけで、胸の奥に、小さなあたたかさが灯っている。

「……いってらっしゃいませ、勇者様」

 誰に聞かれるでもない小さな声が、春の風にさらわれていった。

 不安は、確かにある。
 命を賭ける旅なのだ。どれほど願っても、未来の約束などどこにもない。
 けれど、それでも。

 私は、胸を張って送り出したい。
 誰よりも優しく、誰よりも強く、この世界のために歩み出そうとしてくれる──たった一人の、私たちの勇者様を。


 どうか、無事に。
 どうか、また──あの笑顔を。

 そんな祈りを抱えながら、私は──ただ、空を見つめた。
 空は、どこまでも、澄みわたっていた。
 まるで、世界そのものが──あの人の一歩を祝福しているようだった。

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