【8話完結】帰ってきた勇者様が褒美に私を所望している件について。

キノア9g

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第5話|現在・二人だけの時間

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 胸を叩いていた過去の記憶が、現在へと引き戻される。
 それは、ほんのひとときの追憶だったようだ。

 目の前には、昨日と変わらぬ朝があり、湯気の立つ紅茶がある。
 指先に伝うその温もりに、私はようやく、今という時の輪郭を取り戻した。

 ──昨日、彼が「私を所望した」あの瞬間から、まだ丸一日も経っていない。

 勇者・篠原悠真様が、魔王討伐の旅から凱旋なさったのは、まさしく昨日のことだった。

 かつて世界を揺るがした脅威は、ついにその命脈を断たれた。
 悠真様は、最終決戦の地からその足で王都へと戻られ、歓声の渦の中を進み、玉座の間へと歩み入った。

 出立から、およそ一ヶ月。幾度も命の危機に晒され、血と灰の地を越えてきたというその人は、王の前に跪き、剣を捧げ──そして、こう言った。

「──第三王子、リュシアン・セレスタイト殿を、褒美として賜りたい」

 ……あの時の沈黙を、私は忘れられない。

 その場の空気が凍りついたように静まり返り、時計の針が音を立てて止まった気さえした。

 私自身、耳を疑った。まさか、自分の名が呼ばれるとは思わなかったからだ。

 “リュシアン”という別の誰かが存在するのでは──そんな非現実的な想像が、頭をよぎったほどだった。

 けれど、彼の黒い瞳は、まっすぐに、ためらいもなく私を射抜いていた。

 迷いの影ひとつないその視線は、紛れもなく、私を「選んだ」ものだった。

 だが──どうして私なのか。

 この王宮には、もっと相応しい人が山ほどいる。

 姉上のように才気に満ち、魔術にも長けた方々。外交にも政治にも秀でた王族たち。

 それなのに、魔力も乏しく、存在感すら希薄な私が、なぜ。

 この問いは、昨夜からずっと、私の胸の奥をくすぶらせ続けている。
 ……彼は、何を望んでいるのだろう。
 そして私は、その願いにどう応えればいいのだろう。

 まるで霧の中に迷い込んだように、輪郭のはっきりしない思考がぐるぐると回り続けている。

 ──こんなにも考えを巡らせているというのに、紅茶は、ひとくちも減っていなかった。

 窓の外には、春の訪れを告げる光が差し込んでいた。
 庭に咲く白いクロッカスが風に揺れ、小鳥たちの囀りが遠くから届く。王都の朝は静かで穏やかで、まるで何事もなかったかのように日常を紡いでいる。

 と、その時。

「リュシアン殿、よろしいでしょうか?」

 控えめなノックの音と共に、よく知る声が扉の向こうから届いた。
 喉がきゅっと締まり、心臓が一瞬、跳ね上がる。

 まさか──と思いながら扉を開けさせると、そこに立っていたのは、昨日と同じ漆黒の髪。

 悠真様だった。

 柔らかく乱れた黒髪は、朝日を受けてほのかに光をまとい、整いすぎていないその姿が、かえって凛として見える。
 眠たげな目元の奥に宿る光は、どこまでも静かで、強く、そして優しい。
 
「少しだけ、お時間をいただけませんか?」

 低く落ち着いた声に、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。

 何も言えず、私はただ頷く。


 招き入れた彼は、椅子に腰を下ろすこともなく、窓辺へと歩み寄り、白いカーテン越しに空を仰ぐ。

 光に縁取られたその背は、どこか遠くを思い出すようで、儚く、美しかった。

「……昨日のこと、突然驚かせてしまってすみません」

 その声音は静かだった。だがその奥に、戦場を生き抜いた者だけが持つ確かな芯と、誰かを傷つけまいとする不器用な優しさが滲んでいた。

「どうして私を?」

 喉の奥で燻っていた問いが、意志を持ったように唇から零れた。

 悠真様は、一瞬だけ視線を落とし、それから小さく息を吸って言った。

「戦いの中で、幾度も命を落としかけました。もう、ダメだと思ったことも一度や二度じゃない。でもその度に──ある光景が、俺を支えてくれたんです」

「……光景、ですか?」

「ええ。戦いに出る前、あなたが渡してくれたお守り。その時のあなたの姿が、何度も、俺の中に浮かんできた。剣よりも強く、盾よりも確かに、俺を奮い立たせてくれたんです」

 私は、言葉を失った。

「必ず帰る、とあなたに約束したでしょう? あの約束を、どうしても果たしたかった。あなたと、もう一度こうして話せる時間があるなら……何もかも、乗り越えられると思えたんです」

 言葉は穏やかで、けれど真剣だった。
 その声音が、まるで胸の奥にまっすぐ届いてくるようで──息が、苦しいほどだった。

 私の知らぬところで、彼は何度もあの約束を思い出してくれていたのだ。
 私の言葉を、姿を、心の支えにしてくれていた。
 たったひとつの護符と、何も言えずとも伝わっていた精一杯の願いが、戦場にいた彼を何度も引き戻していたなんて。

 知らぬまま、与えていた温もりがあった。
 ──だから、彼は私を「望んだ」のだろうか。

「わ、私なんて……何もできません」

 不意に、喉が震えて声が掠れた。
 目の前の現実があまりにも信じがたくて、反射のように否定の言葉が漏れる。

「戦う力もないし、王家の中でも影のような存在で……。あなたに褒美としてふさわしいような何かが、私には──」

「それでも、俺はあなたがいいんです」

 彼の声が遮るように重なった。
 迷いも、見栄も、ひと欠けらの躊躇もない。
 ただ真っ直ぐに、心からそう思っていると語る声だった。

 その瞬間、胸の奥がぐっと熱くなる。

 彼は、真剣なのだ。
 私の話を笑うでもなく、怒るでもなく、ただ静かに、私を見ている。

 穏やかに笑むその横顔が、ひどく眩しく見えた。
 光の加減ではない。
 彼自身が、私にとって眩しい存在なのだ。

 ──ドクン、と心臓が跳ねた。

 気づけば、息を詰めて彼を見つめていた。
 胸が、何度も脈打っている。鼓動が早くて、苦しい。
 でもその苦しさは、どこか心地よくて……まるで夢を見ているようだった。

 隣にいるだけで、息が詰まるほど幸せだと思える人。
 ただその存在を感じるだけで、何もかも満たされてしまいそうな人。

 ……もしかして。

 もしかしたら、これは──恋なのではないか。

 彼は、私を選んだ。
 ただの義務でも、義理でもなく。
 私自身を、望んだと言った。

 そして、私は彼に救われた。
 あの笑顔に、あの言葉に、心の深いところを掬い上げられて、今……惹かれている。

 この気持ちが、きっと恋というものなのだ。

 そう思った途端、胸の奥から、じんわりと温かな何かが広がっていく。
 ひだまりの中に溶けていくような、甘くて淡い幸福感。

 まるで春の光に包まれているような、ふわふわとした気持ち。
 どうしてか、涙が出そうだった。

 彼と目が合い、私はそっと笑みを浮かべる。

 ──けれど、その瞬間。

 ほんの僅かに、胸の奥に影が差す。

 本当に……これでいいのだろうか?
 これが、私の想っているような「両想い」というものなのだろうか?

 彼は、勇者だ。
 そして私は、王子という名ばかりの存在だ。
 とても釣り合うとは思えない。
 周りの者たちだって、このまま黙っているはずがないだろう。

 そんな弱気が、ふと顔を出した。

 けれど私は、それを胸の奥に静かに押し込んで、微笑む。
 今この瞬間の、彼の言葉を信じたかった。
 手を伸ばせば触れられるこの幸せを、疑いたくない。

 ──ただ、彼の隣に。
 それだけで、十分幸せだ。

 窓の外、陽の光が柔らかく揺れている。
 彼のこの気持ちが、明日も変わらないものであるように──
 そう願いながら、私は静かに瞼を伏せた。
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