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第6話|誤解、崩れる心
しおりを挟む勇者様と共に過ごす日々は、まるで陽だまりの中を歩いているようだった。
日が昇るたびに、私の胸には静かに幸福の水面が広がっていき、それにそっと指先を触れさせるような、そんな慎ましい喜びがあった。
彼は、魔王を討ち果たし、英雄として凱旋してからというもの、国の象徴としてあらゆる場に引っ張り出されている。
王族との公式行事、各国の使者との会談、華やかな宴や儀礼の報告会──姿を求められる機会は後を絶たない。
それでも彼は、私のもとに来てくれた。
束の間の休息を縫うようにして、庭を歩きながら他愛もない話に耳を傾けてくれる。私の好物を覚えていて、さりげなく差し出してくれたこともあった。
ほんの短い時間でも、彼と過ごすそれらのひとときは、私にとって何よりも特別で、かけがえのないものだった。
それだけで、私には十分だった。
ただ、彼のそばにいられるだけで幸せ──
そう、思っていた。
その日も、変わらない穏やかな朝だった。
朝靄が少しずつ晴れて、陽光が庭の草花をやさしく照らし出した頃。
王城の庭では、勇者様を称える祝宴の準備が進められていた。
騎士たちが長卓を運び込み、侍女たちは花を編んで飾りつけている。
その様子を、私は悠真様と並んで見守っていた。
風に乗って漂う草花の香り、春の光に透ける彼の横顔。
あまりにも穏やかで、愛おしい光景だった。
そんな中、ふいに彼がこちらを向いて、微笑んだ。
「姫様も、疲れてませんか?」
──姫様?
「無理しないでくださいね。姫様はお体が細く華奢だから、風邪を引かれないか心配です。体を冷やすのはよくないと聞きますし」
私は笑顔を保ったまま、思考が真っ白に凍りついた。
姫様。
確かにそう言った。彼は、私をそう呼んだのだ。
咄嗟に浮かんだのは、嘲笑混じりに私を呼ぶ、あの蔑んだ声たち。かつて私に向けられた侮蔑の眼差し。
華奢で、力も魔力もなく──“王子”とは名ばかりの私に、人々はひそひそと“姫様“と呼び捨てた、あの忌まわしい記憶。
けれど、彼がそんなことを思うはずがない。
(……まさか、私を女だと思っている?)
そう気づいた途端、胸の奥にひやりとした冷水が流れ込んだ。
心臓が凍えたようにざわめき、背筋がうっすらと粟立つ。
まさか、そんなはずはない。
私は出会ってすぐ、自分が王子であると自己紹介をしている。
悠真様だって、普段私を「リュシアン殿」と──そう、呼んでいた。
もしかしたら、冗談か、あるいはあだ名という異世界の風習なのかもしれない。
けれど、不安は静かに、私の中に根を張り始めていた。
「……あの。悠真様。ひとつ、確認をよろしいでしょうか」
「はい?」
彼は屈託のない笑顔で振り向いた。
その目は相変わらずまっすぐで、まるで疑うことを知らない子どものようだった。
悪意のかけらも感じられないその優しさが、少し残酷に思えた。
胸の奥がひりつきながらも、私はなんとか声を整えて、問いかけた。
「──私が、男であることをご存知ですよね?」
その瞬間、悠真様の瞳が大きく見開かれた。
「え……」
目に見えて、彼の血の気が引いていく。まるで時間が止まったかのように、動きが消えた。
彼の視線が、確かめるように、怯えるように、私をまっすぐ捉える。
──知らなかったんだ。
胸の奥で、何かが音もなく崩れていく。
彼が求めたのは、王子ではなかった。
女性──姫だと思ったから、私を望んだのだ。
男の私では、なかった。
その現実が、静かに、けれど確実に、私の心を冷たく浸していく。
彼はいつも優しかった。
まっすぐで、強くて、どこまでも誠実で。
王家の陰に隠れるようにして生きてきた私の存在にすら、そっと光を注いでくれた。
そんな彼に、惹かれないわけがなかった。
気づけば、私は誰よりも深く彼を……。
なのに。
私では、彼の望む存在にはなれない。
「……誤解させてしまい、申し訳ありません。私の責任です」
その言葉は、彼への詫びであると同時に、自分自身を責める声でもあった。
彼の真っ直ぐな想いに、知らず知らずのうちに泥を塗ってしまった。
その罪悪感が、何よりも胸に重くのしかかる。
私は、必死に笑みを装いながら、静かに頭を垂れた。
「……褒美の件ですが、変更をお願いできますでしょうか」
「ま、待ってください、リュシアン殿! 俺はそんなこと──!」
彼が慌てて手を伸ばしてきた気配が、視界の端に揺れる。
けれど、私はゆるやかに首を横に振った。
その言葉が届く前に、そっと幕を引くように。
「悠真様のご希望に添えず、申し訳ありませんでした」
これ以上、私がどれほど彼に心を寄せていたかを、知られてしまうのが怖かった。
彼の笑顔に浮かされて、温もりに縋って、勝手に希望を膨らませていた、そんな自分を──もう、見せたくなかった。
「……勇者様の幸福を、願っております」
その言葉だけは、偽りのない本心だった。たとえ、その隣にいるのが私でなかったとしても。
彼が何かを言いかけた気配がした。
でも、もう振り返る勇気は残っていなかった。
私は足早に廊下の角を曲がり、誰もいない石畳の陰に身を滑り込ませる。
そっと胸に手を当てると、焼けつくような鼓動が、まだ痛みの余韻を刻んでいた。
──こんなにも、苦しいなんて。
けれど、涙は流せない。
私は、勇者様の幸せを願っているのだから。
そう、自分に言い聞かせてながら、微かに震える吐息を、深く、ひとつだけ吐き出した。
◇◇◇
その頃。
部屋の隅に身を潜めていた従者は、ただ黙って勇者を見つめていた。
──愚かしい。
そう心のどこかで思いながらも、目が離せなかった。
「お……おとこ……?」
勇者が掠れた声で呟いた。
その声音に滲む困惑と動揺は、あまりにもあからさまだ。
顔を赤らめたかと思えば、すぐに青ざめて。
彼は頭を抱え、まるで出口のない迷路を彷徨うように、部屋の中を何度も何度もぐるぐると歩き回っていた。
──どうしたらいい?
──何が正しかった? 何が間違いだった?
声には出さずとも、彼の仕草がそう訴えていた。
滑稽なほどに混乱し、答えを見失っている。
──その姿を見て、私は薄く笑みを浮かべた。
「……やはり、第三王子は余計なことしかしない」
呟きは吐息のようにかすかで、自分だけが聞き取れるほどの小ささだった。
けれど、そこにこもる感情は、冷たく確かなものだった。
リュシアン様。
あの方がこのまま勇者の傍にいれば、いずれ必ず“歪み”が生まれる。
どれほど美しく、どれほど純粋でも──人の心は、理では縛れない。
「……早くこのことを、陛下に報告しなければ」
そう呟きながら、私は静かにその場を後にした。
音ひとつ立てずに、まるで影のように。
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