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第8話|二人きりの場所で
しおりを挟む遠い町の、小さな館。
かつては貴族の離宮だったというが、今はもう人気もなく、ひっそりと朽ち果てていた。
閉ざされた錆びた門、ひび割れた窓、庭には雑草が伸び放題で、冬枯れた木々がわずかに軋む音だけが静かに響いている。
重い扉の向こう、私はひとり、薄暗い部屋に身をひそめていた。
与えられたのは、最低限の食と寝具。それ以外に、誰も、何もなかった。
冷たい空気が、じわじわと肌と心に染み込んでいく。
ここは、誰にも見つけられない場所。──いや、誰にも見つけてほしくない場所。
そうして、私は静かに、世界から忘れられていくのだと思った。
……けれど、それでも。
──それでも、彼の幸せだけは、願っている。
私がいなくとも、彼が笑っていられるなら、それでいい。
私は“褒美”として失格だったけれど……。
あの人の人生の一部に、少しでも残れたなら──それだけで、十分だった。
「リュシアン殿!」
静寂を引き裂くように、懐かしい声が響いた。
まさか、と息を呑む。
思い違いではない。何度も夢で呼ばれたその声が、今、扉の向こうから聞こえてくる。
手が震えた。思わず、扉に駆け寄ってしまっていた。
ぎぃ、と重い扉を開ける。
土埃にまみれた旅装。荒い息を吐き、額に汗をにじませながら、それでもまっすぐに私を見つめていたのは──悠真様だった。
「ど、どうして……ここに……?」
喉が焼けついたように、声が掠れる。
変更になったはずの褒美。
姉上との政略的な結びつきで、悠真様の将来は保証されるはずだった。
この場所に来たということは……私の事情を知ってしまったということ?
私のような“罪人”に会いに来て、勇者としての名声に傷がつかないのだろうか。
──何よりも、こんな私を、今もまだ気にかけてくれているのだろうか?
そんな不安が、胸を締めつけた。
悠真様は、一歩、また一歩と歩み寄り──そして強く、言った。
「君に会いたかった。……俺は、君が好きなんだ」
その言葉が胸に届いた瞬間、灰色だった世界がふっと色を取り戻していく。
──ああ、駄目だ。
心が、嬉しいと叫んでいる。
けれど同時に、理性が拒む。
「……っ、でも、私は……あなたの望む褒美ではないのです……。私は、女では──」
だから、ふさわしくない。
幸せを願ったはずなのに、私がその足を引っ張ってはいけない。
「──あの時は、ごめん。でも……性別なんて、関係ないんだ」
悠真様の声が重なる。
「最初は、確かに勘違いしてた。けど、今は違う。今の俺は、ちゃんと“君”を見てるんだ。
男とか女とか、そんなことはどうでもいい。リュシアン殿──君だから、好きだ」
ぎこちない、でも真っ直ぐな言葉。
その一言一言に、彼の心が込められていた。
そんな彼が、どうしようもなく愛おしく思えた。
長い間閉ざしていた心が、少しずつ、静かに、溶けていくのがわかった。
悠真様はそっと、私の手を取った。
「──俺が、君を幸せにする。だから、もう一人で泣かないで」
手のひらのあたたかさに、こぼれそうだった涙が、ついに零れ落ちた。
「……はい」
それだけしか言えなかった。
でも、今の私のすべてだった。
◇◇◇
それからの悠真様は、まるで別人だった。
かつて、希望を持てず、他人を拒絶していたあの人とは思えないほど、生き生きとした笑顔で日々を駆け抜けていた。
「俺の中にある“元の世界”の知識を使って、ここを一番豊かな場所にしてみせる!」
最終的に、“私を褒美として受け取る”という建前のもと、この町の領主になることで、話は落ち着いた。
悠真様は、酷い扱いを受ける私を王城に返したくなかったらしい。
この辺境の地は長らく人の気配も薄れ、誰にも惜しまれずに任されるような場所だったから──国王も都合よく押しつけることができて、むしろ喜んでいるのではないだろうか。
その結果、町は“勇者が治める領地”として、特別な扱いを受けるようになった。
悠真様が率先して畑を耕し、水路を引き、道を整備する。
村人たちと汗を流して協力しながら、少しずつ、町は目覚めていった。
彼は、異世界に来た意味をようやく見出したかのように、元の世界の話も交えながら、嬉々として語るようになった。
その姿を見るのは嬉しかった。でも……胸の奥では、ふと影が差すような不安も芽生えていた。
──もしかして、やっぱり元の世界が恋しいのでは?
その夜、彼がふと懐から取り出した奇妙な筒──「エナドリ」とやらを寂しそうに見つめているのを見たとき、不安は確信に変わりかけた。
そっと、声をかける。
「悠真様は……帰りたい、のですか?」
指先が、かすかに震えた。
どうか「はい」と言わないで──心の奥で、必死に祈っていた。
悠真様は驚いた顔をしたあと、ふわりと微笑んだ。
「……違うよ。これ。エナドリが恋しいだけ」
「え、えな……どり?」
「……まあ、甘くて、シュワっとしてて、脳みそがシャキーンってなる飲み物。こっちでいう回復薬みたいなもんかな? いや、語弊があるか? ……これだけは、こっちの世界じゃ作れそうにないんだよなぁ」
「……そ、そんなにすごい飲み物なのですか……?」
「気になる? でもリュシアン殿が飲んでる姿が想像できないかも」
そう言って、悠真様はおかしそうに笑った。
その笑顔が好きだと思うと同時に、胸の奥に小さな棘のような感情が疼いた。
えなどりというものが、なんなのかはよくわからない。
けれど、悠真様にとってとても大事なものらしい。
元の世界のいろいろなことよりも、恋しい品。
──大切な人が作った、とか。
「……その、えなどり……。作ったのは、大切な方だったのですか?」
ぽつりとこぼれた言葉に、悠真様は一瞬、きょとんとした顔をした。
「え? いや、違う違う。これは“会社”っていう、人がたくさん集まって働いてる場所で作られたものなんだ。誰が作ったかなんてわからないし、個人じゃなくて組織で作ってる感じかな。だから、俺にとって特別なのは、“飲み物自体”であって、作った人じゃないんだ」
あっさりと否定された言葉に、心がふっと軽くなる。
それでも頬が熱くなるのを止められなくて──
悠真様はそんな様子を見て、にやりと笑った。
「……もしかして、妬いてる?」
「ち、ちが……っ」
あわてて否定しかけて、言葉に詰まる。
彼が何も言わず、ただ優しく見つめてくるから、どうしていいかわからなくて──俯いた。
「……嬉しいな、そういうの」
「……?」
「リュシアン殿が妬いてくれるなんて、思ってなかったから。いや、願ってたけど」
そんなふうに言われて、顔が熱くなる。
どうして、こんなに真っ直ぐに、まるで子どもみたいに嬉しそうに笑うのだろう。
その笑顔が、どうしようもなく、愛しかった。
「……リュシアン殿が笑ってくれるなら、もういいけどね」
さらりと、でもあまりに自然にそう言われて、胸がきゅうっと締めつけられた。
「そ、そんな、私は……」
言葉を継ぐ前に、彼の大きな手が、私の頬に触れた。
その指先はやわらかく、そしてとてもあたたかかった。
「リュシアン」
呼ばれて、見上げる。
「君が、俺の世界のすべてだよ」
その一言が、世界のすべてを包み込むように、優しく胸に響いた。
──どうして、こんなにまっすぐなのだろう。
こんな言葉、どうやって受け止めればいいのか、わからない。
でも、わからなくても──心は、彼に傾いていた。
静かに、顔が近づいてくる。
拒む理由なんて、どこにもなかった。
瞼を閉じると、そっと、唇が触れた。
──それは、あまりにも静かな、けれど永遠を誓うような、やさしいキスだった。
◇◇◇
それから、いくつもの季節が過ぎた。
石畳を撫でる春風に乗って、花の香りと子どもたちの笑い声が町中に広がっていく。
市場には色とりどりの布がはためき、人々が軽やかに行き交いながら、私の名を呼ぶ。
──けれど、私はまだ、皆に心から笑いかけることができずにいた。
「リュシアン様、今日の衣装も素敵ですね! まるで絵本の中のお方みたいです!」
「リュシアン様の声を聞くと、不思議と安心するんですよね……」
そんなふうに声をかけられるたび、胸の奥がざわめく。
“また顔か”“また中身は見てくれないんだ”──心のどこかで、そう疑ってしまう。
嬉しいはずなのに、どうしても素直に受け取れない。
むしろ、怖いとさえ思ってしまう。
……昔からずっと、そうだった。
“顔だけ王子”。そう言われ続けた。
だから、人の好意は、いずれ裏返るものだと、どこかで信じてしまっている。
その日の夕暮れ、私は人気のない中庭で、咲き始めた白い花をぼんやりと眺めていた。
ふと足音がして振り向くと、麦の穂を抱えた悠真様が、こちらへ歩いてくる。
「また逃げてるな」
その一言に、胸の奥がびくりと震えた。
「……逃げてなど……」
「じゃあ、なんでひとりでここにいるの?」
言葉に詰まり、目をそらす。
だけど、彼は咎めるようなことは何ひとつ言わず、私の隣に腰を下ろすと、そっと小さな花を手に乗せてきた。
「ずっと気になってたんだ。リュシアンって、褒められると、ちょっとだけ寂しそうな顔をするよな」
「……そんなこと、ありません」
「あるよ。だから、ちゃんと訊きたかった。どうして、そんな顔をするの?」
沈黙が、そっと風にさらわれていく。
逃げないと決めたのに、言葉にするのはやっぱり、少し怖い。
「……昔から、見た目ばかり褒められてきました。でも、中身は空っぽだと笑われて……。だから、“好き”とか“素敵”とか言われても、信じられないんです。どうせ幻だって、思ってしまう」
指先に握った花びらが、小さく震えていた。
「怖いんです。期待されることも、微笑まれることも……それを失ってしまうことも」
すると、悠真様は少しの間を置いてから、まっすぐに私を見つめた。
「……そっか。だけど、リュシアン、それは違うよ」
「……え?」
「“好き”ってさ、たとえ最初が見た目からだったとしても、そこで終わらないんだ。話して、触れて、一緒に時間を過ごして……その人の心が、ちゃんと伝わってくるから、好きになる」
そして、私の手をそっと包み込むように握ってくれた。
その大きくて温かな掌が、まるで心の奥にまで触れてくるようだった。
「この前、民が話してた。“あの王子様は、ただそばにいてくれるだけで、心が穏やかになる”って。“傷ついた人に寄り添ってくれる。静かで優しくて、気づけば涙が和らいでる”って」
「……」
「それって、リュシアンがそういう人だからなんだ。それは、君にしかできない優しさだ。だから皆、君という“人”を好きになったんだよ」
その言葉は、まるで深い霧の中に差し込む朝陽のようだった。
自分では気づけなかった“自分”を、彼がこんなにもまっすぐに教えてくれる。
胸の奥がじんわりと温かくなり、知らぬ間に、目尻が潤んでいた。
「……信じて、いいのですか?」
「俺が保証する。民も、子どもたちも、俺も──リュシアンの全部が好きだよ」
視界の端で、空の色がやさしく滲んだ。
夕陽が世界を金色に染めながら、ふたりの間に、確かな温もりを落としていく。
──ああ、こんなにも、誰かの言葉が温かいと感じられる日が来るなんて。
褒められることが、こんなにも嬉しいものだなんて。
私は、そっと笑った。
心の奥から、自然に、初めて素直にこぼれる笑みだった。
「ありがとうございます、悠真様。……私、今、ちゃんと嬉しいです」
その言葉に、悠真様も心からの笑みを浮かべる。
「よかった。じゃあさ、今日の祭りに行こう。子どもたちもリュシアンに会えるの楽しみにしてたよ」
差し出された手を、今度は何の迷いもなく取った。
指を絡めて、ゆっくりと立ち上がる。
広場から聞こえてくる笛の音、子どもたちの笑い声。
空には、一番星が瞬いていた。
“王子様だ!”と駆け寄ってくる声に、私はやわらかく笑った。今ならもう、その声に、心から笑顔で応えられる。
──ああ、私は今、ほんとうに幸せだ。
この世界は、こんなにも優しくて、美しい。
そして私はこれからも、彼と二人で、この優しい世界を歩いていく。
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