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第8話:三年目の焔を君に
しおりを挟む季節が巡り、マルフェリアの渓谷には、柔らかな春の陽光が降り注いでいた。王都での喧騒から離れ、アッシュとカイルは、再び旅路に出ていた。今度は、冒険者と特別調査官として、肩を並べて。
アッシュの新居で暮らし始めて数週間。穏やかな日々は、アッシュの心をゆっくりと溶かしていった。朝、目覚めれば隣にカイルの寝顔があり、夜は肩を寄せ合って眠る。些細な日常が、アッシュにとってかけがえのないものとなっていた。
カイルは、特別調査官として、王国の辺境に残る魔族の残党や、戦乱の爪痕を調査する日々を送っていた。アッシュは、その護衛として、また、時にはカイルの調査を手伝う者として、彼と共に各地を巡った。
二人の関係は、以前の秘密めいた恋人同士とは全く違うものだった。
カイルは、もはや王子の位に縛られることなく、自由にアッシュの隣にいることを選んだ。アッシュもまた、カイルの足かせになるという古い思い込みから解き放たれ、彼と共に歩む道を選んだ。
互いの立場を尊重し、信頼し合い、そして深く愛し合う。
それは、三年前には想像すらできなかった、二人の新たな関係性の形だった。
ある日、二人は、小さな集落を訪れていた。集落の奥には、古びた祠が建っている。かつて魔族の襲撃からこの地を守った英雄を祀る場所だと、集落の者が教えてくれた。
夕暮れ時、調査を終えたカイルが、祠の前に佇むアッシュの元へやってきた。
西の空は、茜色に染まり、地平線へと沈む太陽の光が、祠を幻想的に照らし出していた。
「どうかしたのか、アッシュ?」
カイルが、アッシュの隣に並んで立つ。
「いえ……ただ、ここから見る夕陽が、とても綺麗で」
アッシュは、空を見上げながら、そっと右手を差し出した。
その掌には、どこで手に入れたのか、シンプルな銀の指輪が乗っていた。装飾はなく、ただ、滑らかな銀の輝きを放っている。
「これ……」
カイルが、戸惑ったようにその指輪を見つめる。
「昔、あなたが言っていました。『この焔は祝福の色だ』って」
アッシュの声は、少しだけ照れくさそうだった。
それは、騎士団時代、カイルがアッシュのために焚き火を灯してくれた夜の言葉だ。カイルの焔の魔法が、夜の闇を明るく照らし出した時、アッシュが「まるで祝福の光みたいですね」と呟くと、カイルが「これは、祝福の色だ」と答えた。
「この指輪に、あなたの焔を灯してください」
アッシュは、カイルの瞳をまっすぐ見つめた。
それは、アッシュなりのプロポーズだった。三年前、アッシュが自ら手放した「祝福の焔」。それを、今、カイルに再び灯してほしい。永遠に、自分と共に。
カイルは、驚きに目を見開いた。そして、ゆっくりと、指輪へと手を伸ばした。
彼の指先から、柔らかな火属性の魔力が流れ出し、指輪に宿る。
銀の指輪の上に、小さな、しかし確かな焔が揺らめいた。その色は、夕陽の色と重なり合い、美しく輝いている。
「……こんなに、嬉しい言葉は、初めてだ」
カイルの声が、震えている。彼の瞳には、熱いものがこみ上げていた。
カイルは、震える手で指輪を受け取ると、そのままアッシュの左手の薬指に、そっと嵌めた。
指輪が、アッシュの指に吸い付くように馴染む。
「今度こそ、離さない」
カイルは、そう囁くと、アッシュの手を、大切そうに握りしめた。
その手の温もりが、愛おしさに満ちていた。ぴたりと重なる掌から、互いの鼓動が静かに伝わってくる。
ふと、アッシュが微笑んだ。
「……なら、もう私の背中を押さないでくださいね」
半ば冗談めかして言ったその一言に、カイルは短く息を呑み、それからふっと笑った。
「では、君も。今度こそ、私の隣にいてくれ」
冗談とも本気ともつかぬやりとり。だが、そこには深い信頼と愛情が通っていた。
そして、夕暮れの光が差し込む祠の中で、二人は顔を寄せ合った。
ゆっくりと、互いの唇が触れ合う。
それは、情熱的なものではなく、ただただ、深い愛情と、三年間を経てようやく結ばれた安堵に満ちたキスだった。けれどそのやわらかな触れ合いの中に、再会までの時間がすべて溶けて、愛しさだけが舌先に残るようだった。
唇が離れると、二人の視線は、再び絡み合った。
カイルがアッシュの頬をそっと撫でる。アッシュは、その手に頬を預けたまま、まぶたを伏せた。
その瞳の奥には、未来への希望と、決して消えることのない愛の光が宿っている。
かつて、消えたと思った焔は、三年を経て、今度こそ永遠に灯り続けるだろう。
彼らの愛は、どんな困難も乗り越え、共に歩む二人の道を、これからもずっと照らし続ける。
マルフェリアの夕陽に染まる祠の中で、二人の「三年目の焔」は、確かに、そして永遠に灯り始めたのだった。
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