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第3話「ふれられないあなたへ」
しおりを挟む雪の気配を感じる夜の洞窟は、ひときわ静まり返っていた。
レオンハルトが焚き火にくべた薪が、赤々と燃えている。柔らかな炎が岩壁を照らし、その中央には、一つの封印石が静かに鎮座していた。その中に封じられた俺は、今日もまた声も出せず、ただ思考だけを巡らせながら、夜の空気に耳をすませていた。
遠くで吹雪が唸り、時折、その音が洞窟の入り口まで届く。けれど、ここまでは来ない。ただ、パチパチと薪のはぜる音だけが、淡く空間を満たしている。
その中に、彼の低く静かな声が溶け込んできた。
「あなたの手に、もう一度触れたい……」
言葉だけを聞けば、それはただの願望のように聞こえる。けれど、その一言の奥には、十五年もの孤独と渇望が、押し込められているのがはっきりとわかった。
「話がしたいです。隣で笑うあなたの声を聞きたい……」
(おいおい、やめろ……そんな顔すんな)
レオンの横顔に、涙はなかった。ただ、静かに、淡々と、そこに座っている。けれど、その“何もない”表情こそが、胸に突き刺さる。
ずっと探してきた相手が、目の前にいる。けれど、触れることも、話すことも叶わない。語りかけても何の反応もないまま、ただ“存在”に向かって言葉を投げ続けている──その姿が、痛々しいほどに孤独だった。
けれど、彼は続ける。
「せめて……一緒に歳を重ねられたら、なんて。少し、願っていたんです」
封印石に映る焚き火の揺らぎが、俺の顔の影を微かに揺らす。自分ではまったく見えないその表情が、今、どう映っているのかはわからない。ただ、レオンの言葉は、ひとつひとつ、俺の心に沁み込んでいく。
「でも、あなたはもう歳を取らない。……俺の方が、先に老いていくんですね」
(そんなこと……言うなよ)
どうしようもなく、胸が苦しくなった。俺はここで、何もできないまま、ただ時間に取り残されていた。生きているのかすら曖昧な意識の中で、ただ沈み、漂っていた。
でも今、こうして、俺を必要としてくれる人間がいる。それも──こんなにも深く。
(……俺なんかを、そこまで……)
言葉にはならなかったが、心の奥では、確かに何かが揺れていた。レオンハルトの存在は、ただここにいるだけで、凍りついていた俺の意識に、人の温もりを思い出させていた。
それから数日間、レオンハルトは変わらず洞窟で生活を続けた。彼の行動は、決して“滞在”の域でとどまるような軽さではなかった。彼は本気で、ここを“住処”にしていた。
朝には焚き火に薪をくべ、昼間は洞窟の外で植物や水を集めに行き、夜になるとまた俺の石の前に戻ってくる。本を読んだり、昔話をしたり、時には何でもない今日の出来事を語ってくれたりする。
誰かに話すようでいて、実際には“俺”だけに向けられた言葉だった。その一つ一つが、彼の心からの献身と、ここで共に生きるという決意のあらわれだった。
(……本気で、ずっと一緒に過ごすつもりなんだな)
彼の言葉のどれもが真っ直ぐで、優しくて、俺の胸を痛いほど本物だと感じさせた。
(俺のせいで……こいつは、“待つ”ことしかできなかったんじゃねえのか)
誰かに、こんなにも深く、そして一途に思われるのがこんなにも苦しいことだとは、知らなかった。俺はかつて、世界を救う英雄のつもりだった。誰かを助けることにしか自分の価値を感じられなかった。けれどレオンハルトは──この石の中で、何もできずにいる無力な俺を、それでもなお、誰よりも深く、そして何よりも尊いものとして見つめ続けてくれている。
その想いが、まるで重たい鎖のように、けれど不思議な温かさを伴って、俺の心を温かく包んでいく。
なのに、俺は声を返せない。動けない。ただの石の中で、見守ることしかできない──そんな現状が、もどかしくてたまらなかった。
それでも、どうしても……この気持ちだけは伝えたかった。
(話したい……)
(せめて、言葉じゃなくても──“俺の意識はここにある”って、それだけでも伝えたい)
そう願った瞬間だった。俺の中に、じんわりと熱のようなものが走った。何年も沈黙していた魔力が、ゆっくりと意志に呼応し、内側から微かに脈動しはじめた。
その夜。
レオンハルトが、いつものように石の前に座り、俺に語りかけていた。何気ない、けれど愛情の込もった言葉たち。その声に、封印石の表面が、ふっと──かすかに光を帯びた。
ゆらり、と。
まるで、呼吸するように、光が灯って、そして消えた。
「……今の……?」
レオンの手が、わずかに震える。
彼は石にそっと手を伸ばし、その表面に触れた。その瞬間──その手のひらに、確かな温もりが伝わったのだろう。彼の瞳が、驚きに大きく見開かれる。
まるで、奇跡のような光景を目の前にしているかのような表情だった。
「やっぱり……!」
その瞳から、ひとすじの涙が、こぼれ落ちた。
「あなたは……起きていたのですね……! ずっと……私の声が、届いていたのですね……!」
(……マジかよ、お前。気づくの早すぎんだろ……)
気まずさと同時に、こそばゆいような安堵が胸をよぎる。そして、その何倍もの喜びが、一気に押し寄せてきた。
(……お前、そんな嬉しそうに笑うなよ。照れるだろ……)
それでも、その笑顔を見ていたかった。
俺の中で、確かに何かが応えていた。自分でも信じられないほど、心が揺れて、熱くなっていた。
レオンハルトは、そのまま石に頬を寄せ、小さく囁いた。
「ありがとうございます……応えてくれて……」
「あなたがここに“いる”って、わかっただけで……どれほど嬉しいかわからない」
石の中で、俺は何も言えない。それでも──
微かな魔力の灯りが、また、そっと揺れた。それは、まるで「俺もだ」と語るように、優しく明滅する。
(お前の声……ちゃんと届いてた。ずっと、救われてたんだ)
(今、それを……ようやく伝えられた)
この洞窟に満ちるのは、もはや寒さではなかった。
レオンハルトという存在が、この暗闇に差した光だった。彼の声が、触れられないこの体に、確かに温もりをくれた。
この心は、たしかに触れ合った。そしてその温かさが──俺に、“生きたい”と願わせていた。
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