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第7話「ずっと一緒にいたい」
しおりを挟む契約成立から数時間が経った。レオンハルトは洞窟の奥で、まだ興奮から完全に落ち着けずにいる。手にした契約書の「イグニス」の文字を、彼は何度も、何度も見返していた。薄い羊皮紙に浮かんだ四文字が、焚き火の光に照らされて淡く輝いている。
『まだ見てんのか、その契約書』
イグニスの声が、少し呆れたような調子でレオンハルトの心に響く。
「……信じられないんです。本当に、あなたと話せているなんて」
レオンハルトの声には、まだかすかに震えが残っていた。十五年ぶりに交わす言葉。その重さと実感が、現実のものとは思えないほどだった。
『ずいぶん……待たせちまったな、レオンハルト』
イグニスの声が、彼の名を呼ぶ。その瞬間に、張り詰めていたレオンハルトの心が、堰を切ったように崩れ落ちた。熱い涙が、止めどなく頬を流れていく。
『お前、変わってねえよな。相変わらず泣き虫のまんまだ』
苦笑交じりの声音が、懐かしさと優しさを連れてくる。怒っても、笑っても、イグニスの言葉の奥にはいつも、他人より少し過敏な優しさがあった。レオンハルトは顔をくしゃくしゃにして笑い、涙を袖で拭った。
『……でも、嬉しいよ。お前が、ちゃんと聞いてくれて、俺の声を』
「ずっと……っ、ずっと、あなたと話したかったんです」
嗚咽混じりの声が、念話越しにじんわりと伝わってくる。その震えが、イグニスの内側を静かに揺らした。
「まさか、本当にあなたが契約に応じてくれるなんて……夢のようです。でも、信じてました。あなたなら、きっと私を隣に置いてくれると……」
『……まあ、確かにな。お前にお願いされたらなんでも許してた気はする』
イグニスの声は、少しだけ苦笑の色を帯びていた。
『──十五年封印されて、もう色々諦めてた。なのに、お前は俺を諦めずに探し出して、ここに住み出すわ、毎日語りかけてくるわ。……うるせーくらいだったのに、それがめちゃくちゃ嬉しくて』
レオンハルトは顔を綻ばせて、そしてまた涙を拭った。彼の顔には、安堵と、満ち足りた幸福感が広がっていた。
一度だけ深く息をついてから、彼は穏やかに口を開いた。
「ようやく、直接言えますね。──おはよう、イグニス」
『……おう。おはよう、レオンハルト』
たったそれだけで、世界の温度が変わったような心地がした。冷たい洞窟の中に、温かい光が満ちていく。
一度念話が繋がると、ふたりの会話は途切れることなく続いた。十五年間の空白を埋めるように、彼らは語り合った。
この十五年、イグニスが孤独のなかで、絶望の中で思っていたこと。レオンハルトが王族の地位を捨ててまで、ひたすらに探し、守りたかった気持ち。何もできず無力だった過去を、ふたりで悔やみながら、時には笑いながら語り合った。
『……こんなに、ゆっくり喋れるなんて思ってもみなかった。まるで、お前が隣にいるみてえだな』
「私もです。……あなたの声が、こんなにも心穏やかで心地いいとは」
石の奥にいるイグニスが、小さく息を吐いたように魔力が揺れる。それは、彼が感情を動かしている証だった。
『……変な感覚だ。触れはしないのに、お前の体温まで伝わってくるみてえだ』
「……私も、ようやくあなたに触れられたような気がします」
その声には、喜びと同時に、寂しさが滲んでいた。どれほどそばにいても、どれほど語りかけても、手のひらは石の冷たさしか伝えなかった。けれど今は、ただの石ではない。封印の奥に、確かにイグニスが「いる」。
『届いてたよ。お前の言葉も、手も、想いも。全部、俺に届いてた。だから俺、動こうと思えたんだ。お前が、俺を生かしてくれた』
レオンハルトの内には、契約によって共有されたイグニスのスキル群が、膨大な情報量となって流れ込んでいた。
防御魔法、強固な結界展開、そして深い癒しをもたらす治癒魔術の加護。イグニスの”力”の半分が、確かに自分へと繋がっていることを、レオンハルトは肌で感じていた。その圧倒的な知識と強さに、思わず目を伏せる。
「……これほどの力を、あなたはひとりで抱えて、そして一人で戦ってきたのですね」
『……そうだな。でも、これからはお前も一緒だ。っつっても、周りには絶対にこのこと言うなよ? 契約書も隠しとけ。……お前まで、脅威を見る目で見られたら──』
その言葉に、レオンハルトは震える声で遮った。
「……ごめんなさい」
『え?』
「隠蔽はできません。だって、これはあなたと一緒にいるために必要なことだから」
『は? 必要なこと? お前、何意味わかんねぇこと言ってんだ。俺の力を共有してるなんてバレたら、お前まで──』
「わかっています! でももう、一人は嫌なんです!」
声が、叫びのように反響した。
「……もうすぐ、あなたの再封印の儀が行われる。そうしたらもう、あなたの意識は……なくなってしまうかもしれない。……だったら私は、一緒に脅威になって封印されたいんです!」
『な……まさか、そのための伴侶契約だったのか? お前を俺と一緒に封印させるため?』
イグニスの声が、信じられないものを聞いたように、強張る。
『バカ言うな……そんなことのために、俺は……』
「それだけが理由じゃないんです! あなたの伴侶になりたかった。ただ、それだけだった。でも……どうしても、あなたの隣にいたくて! だから──」
『そんなの……俺が、受け入れられるはずねぇだろ……!』
声が震えていた。怒りではない。恐怖でもない。ただただ、深い後悔の色が混じった声音だった。
『……また俺は、間違ったのか……? ……今度は俺のせいで、こいつを……』
「あなたのせいなんかじゃない! これは、私の意志です!」
『やめてくれ! 頼む……頼むよ……お前は街へ帰ってくれ……力を隠して、生きてくれ。もう十分だ。お前が伴侶になってくれた、それだけでもう……』
イグニスの声が、次第に細くなっていく。何かを押し殺すように、ぎりぎりのところで抑え込むように。
「嫌です。私はあなたの伴侶です。絶対に、そばを離れません」
静かに、決意を告げる声だった。まるで誓いの言葉のように。
──その瞬間。
封印の奥で、イグニスの感覚が急速に冷えていった。
全身を締め付けるような寒さ。けれど、それは石の冷たさではない。己の中に広がる、深く、どこまでも暗い絶望だった。
(……まただ。俺が行動を誤ったせいで……)
イグニスの内に、暗い絶望が広がっていく。今度こそ相手のために振るったはずの力が、彼をも自分の封印に巻き込もうとしていた。
(俺が力なんか持っていなければ、こいつは普通に笑って生きられたはずなんだ)
イグニスは、念話を切った。わずかな魔力の糸を、自分から断ち切った。レオンハルトの声が、次の瞬間から何も聞こえなくなる。
(……やっぱり、俺は脅威だったんだ)
その言葉だけが、封印の奥に、虚ろに響いた。
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