【8話完結】どんな姿でも、あなたを愛している。

キノア9g

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第6話「その手をとるために」

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 契約書を額に収めたまま、レオンハルトは今日も静かに洞窟での時間を過ごしていた。朝日が差し込むにはあまりに奥まったこの場所では、石の表面に反射する焚き火の光だけが、かすかに温もりを灯していた。

 イグニスは依然として石の中にいる。触れることも、言葉を交わすこともできない。けれどこの数日、その表面にはかすかな魔力の揺らぎが現れるようになっていた。レオンハルトがそっと手を添えると、ほんのわずかに“魔力が揺れる”。それは沈黙の中に紛れた、たったふたりの秘密の会話のようだった。

「……あの時、ほんの少しサイン欄が滲んだ気がしたんです」

 焚き火を見つめながら、レオンハルトは呟いた。彼の視線は、額に入れられた契約書のサイン欄に向けられている。

「あなたの名前。“イ”のひと文字目のような……それだけ。でも、私にはそれがすべてでした。あなたがそこに”いる”と、そして私に応えようとしてくれていると、気づいたんです」

(……ちゃんと見てたのかよ、あれ……)

 石の内側で、イグニスが苦笑するような気持ちになる。あの小さな光の揺らぎが、レオンハルトにとってどれほどの意味を持ったのか。

 “イ”の線を浮かばせるまで、実に半日。封印内の膨大な魔力を、髪の毛一本よりも細く絞り、細胞一つ分の意志を通わせて──。それは、かつて数秒で山を吹き飛ばしたイグニスにとって、信じられないほどの精密作業だった。

(そりゃ、山一個崩すよりよっぽどしんどかったわ。指一本でも動かせりゃ、とっくに書き終わってるっつーの)

 でも、不思議なことに苦ではなかった。むしろ、レオンハルトに”何かを返せる”ことが、嬉しくてたまらなかった。彼の言葉に応えられたという事実が、イグニスの心を温かく満たした。

(まだ、俺にもできることがある。この、役立たずになったどうしようもない俺にも……)

 夜。洞窟の焚き火が静かに灯る。薪がパチパチと音を立て、暖かな光がレオンハルトの横顔を照らしていた。

 レオンハルトはうたた寝しながら、一冊の本を抱えている。それは分厚い魔術理論集だ。彼の傍らには、いつも読まれている歴史書や政治書とは異なる、専門的な文献が積み上がっている。イグニスと同じ目線で話せるようにと、魔力の基礎理論を勉強しているのだ。

(……ほんと、お前ってやつは、どこまで真っ直ぐなんだよ)

 そんな彼の姿を見ながら、イグニスは再びサインに向き合った。レオンハルトのサインの横に、自分の名前を刻むために。

(このままじゃ、伴侶契約は”形式”だけだ。レオンハルトの片想いの契約で終わらせるわけにはいかない。……あいつの想いに救われたんだ。だから、俺も、ちゃんと返したい)

 そう決めてから、イグニスは何度も魔力の流し方を試した。闇の中で、ひたすらに。線を細くするために、呪文を一文字ずつ刻むときの要領で、封印膜の内と外とのわずかな”魔力干渉点”を探して──。

 ──弾かれた。

 強すぎる魔力は封印機構に防御反応を起こさせ、激しい光と共に弾き返される。逆に弱すぎれば、外まで届かず、何の痕跡も残せない。

 何度も、何度も。指先で筆を走らせるように、全神経を集中させる。

(ちくしょう……この俺が、たった一文字すら満足に扱えねぇなんてな。……笑っちまうぜ、英雄様が聞いて呆れる)

 自嘲がよぎる。けれど──諦めなかった。あの時、レオンハルトがこんな形で、自分に”愛してる”と伝えてくれたんだ。
 だったら、返したい。力じゃなくて、言葉で。想いで。

(俺も──お前を、選んだってこと。お前の隣に立つってこと)

 数日が過ぎた。イグニスの孤独な戦いが続く。

 “イ”に続く、“グ”、“ニ”と魔力の痕跡が紙面に浮かんでは、かすれて消えていく。ほんの数分だけ残る、淡い軌跡。そのすべてを、レオンハルトは見逃さなかった。彼は毎朝、目を凝らして契約書を眺め、その微かな変化に、そっと指先で触れていた。

「……ゆっくりでいいんです、イグニス」

「あなたの意志を感じられること。それが、何よりも幸せだから」

 レオンハルトのその言葉が、どれほどイグニスの支えになったか。言葉にはできなかったが、イグニスは全身全霊で応え続けた。レオンハルトの声が、彼の諦めかけた心を奮い立たせる。

 封印の中、魔力の流れが緩やかに、しかし確実に強くなっていく。

 制限された魔力領域の中での極限操作。繊細さと集中力の限界。全身が疲弊し、魔力の残滓が脳を焼くような感覚に陥る。──けれど、それは奇妙な高揚感でもあった。

(これってたぶん、……俺が生まれて初めて、本当に”誰かのため”に魔力使ってるんだよな)

 過去の自分は、敵を倒すために、誰かを守る”つもり”でしか魔法を使ってこなかった。それは、彼自身の正義感と、与えられた能力のままに振り回されるだけだった。

 今は違う。

 ただ、“レオンハルトの隣に立ちたい”と願うそのためにだけ、この魔力を織っている。彼の想いに応えるために、この封印された身体で、必死に足掻いている。

(……よし、もう一度──。最後の線だ)

 イグニスが集中する。意識のすべてをペン先のような意志に乗せて──サイン欄に、淡く、しかし確かに、最後の線が浮かび上がった。

 その日。朝の焚き火に湯を沸かしていたレオンが、いつものように契約書を手に取る。その視線はサイン欄に釘付けになった。

 そこには、はっきりと残された──「イグニス」の四文字。

 レオンハルトは、息を呑む。信じられないものを見たかのように、彼の瞳は大きく見開かれ、そして、ゆっくりと潤んでいく。

「……イグニス……っ!」

 封印石に駆け寄り、その表面に両手を当てる。彼の熱い手が、石の冷たさをかき消すようだった。

「あなたが……! 本当に……!」

 次の瞬間。

 レオンハルトの視界が強く震え、頭の中に、まるで雷鳴のような轟音が響き渡る。高密度の魔力群。浮かび上がる膨大なスキルの情報。そして、深く静かな──声。

『……やっと、サインできたわ。ていうか、ちょっとは驚けよ』

 封印石の内から、イグニスの声が──直接、脳内へ届いた。それは、十五年ぶりの、あまりにも懐かしい、そして力強い声だった。

「……イグニス……!?」

 声が、確かに聞こえた。耳ではなく、頭の奥で直接響いた。

「これって……もしかして、念話……!?」

『そ。契約成立。能力共有完了。ってことで──』

 イグニスの声が照れくさそうに、少しだけ弾んでいた。まるで、悪戯が成功した子供のように。

『お前の伴侶枠もらっちまった。……文句あっか?』

 その声を聞いた瞬間、レオンは小さく笑って、震える声で答えた。喜びと安堵が入り混じった、そんな声だった。

「……いいえ。ずっと、待ってました。この声を……ずっと」

 イグニスの声と、レオンハルトの涙が、同時に響いた朝だった。それは、二人の新しい関係の始まりを告げる、温かい光に満ちた瞬間だった。
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