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第5話:デビュタントの攻防
しおりを挟む十五歳。それは貴族の子弟にとって、特別な意味を持つ年齢だ。
デビュタント。社交界デビュー。
それは大人の仲間入りを果たす儀式であり、将来の伴侶を見つけるための戦場への第一歩でもある。
王宮の大広間。煌びやかなシャンデリアの下、俺――リアン・アークライトは、緊張と興奮で掌に汗を握っていた。
(ついに来た……この日が!)
俺は鏡に映った自分の姿を確認した。
仕立て下ろしの紺色の燕尾服。首元には丁寧に結んだクラバット。髪はワックスで少しだけ流して、大人っぽさを演出している(つもりだ)。
今日の俺は、いつもの「シリル様の金魚のフン」ではない。
一人の男として、レディをエスコートし、そのハートを射止めるハンターなのだ。
「よし、いける。今日の俺はイケてる。スパダリのオーラ出てる」
自己暗示は完璧だ。
俺の目標は一つ。壁際で退屈そうにしている可憐な令嬢を見つけ、颯爽と声をかけ、ダンスを踊ること。
そして「まあ、なんて素敵な殿方なの!」と思わせることだ。
師匠であるシリル様直伝の、「角度四十五度の微笑み」と「腰に手を回すスマートな所作」を実践する時が来たのだ。
しかし、その野望は開始早々に暗雲が立ち込めることになった。
◇◇◇
ファンファーレが鳴り響き、主役たちの入場がアナウンスされる。
会場のざわめきが、一瞬にして静寂に変わり、そして熱狂的な溜息へと変わった。
現れたのは、シリル・ヴァン・オルディス。
我が師匠にして、この国の「至宝」と呼ばれる男だ。
今日の彼は、純白の礼服に身を包んでいた。
白という色は、着る人を選ぶ。下手をすれば肌がくすんで見えるし、膨張して見える。
だが、シリル様はどうだ。
雪のようなプラチナブロンドと、陶器のような白い肌が、礼服の白と完全に調和している。アイスブルーの瞳は宝石のように輝き、その佇まいは、天上から舞い降りた天使か、あるいは冷酷な氷の精霊のようだった。
「キャアアアアッ! シリル様よ!」
「こっちを向いてくださったわ!」
「息が、息ができない……!」
令嬢たちがドミノ倒しのように頬を染めていく。
すごい。これが「王者の覇気」か。
俺は群衆の隅で、感動に震えていた。
(さすが師匠! レベルが違う! 会場全体が彼の支配下だ!)
シリル様は優雅に手袋を嵌めた手を振り、貴族たちに挨拶をしている。
その隙がない動き。計算され尽くした微笑み。
俺はメモを取りたい衝動を抑えながら、自分のミッションを思い出した。
(見とれている場合じゃない。俺も実践だ!)
シリル様がああして注目を集めている今は、逆にチャンスだ。
皆の視線が彼に釘付けになっている間に、俺はひっそりとデビュー戦を飾るのだ。
俺は会場を見渡した。
いた。
柱の陰で、扇で口元を隠しながら所在なげにしている、桃色のドレスの令嬢。
小柄で可愛らしい。俺の好みのタイプだ。
(ターゲットロックオン。……よし、行くぞリアン!)
俺は深呼吸をして、背筋を伸ばした。
シリル様から教わった通り、足音を立てずに、しかし堂々と歩み寄る。
彼女の前に立ち、片手を胸に当て、もう片方の手を差し出す。
「こんばんは、美しいお嬢さん。もしよろしければ、私と……」
言いかけた、その時だった。
ゾワリ。
背筋に、氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。
生物としての本能が警鐘を鳴らす。
『逃げろ』と。
「――リアン?」
背後から聞こえた声は、低く、滑らかで、そして絶対零度の冷気を帯びていた。
俺はギギギと錆びついたブリキのおもちゃのように振り返った。
そこには、先ほどまで会場の中央にいたはずの、白き貴公子が立っていた。
シリル様だ。
美しい。死ぬほど美しい。
だが、その目は笑っていなかった。
アイスブルーの瞳孔が、獲物を前にした猛獣のように細められている。
「し、師匠……? どうしてここに? さっきまで挨拶回りを……」
「君が見当たらなかったからね。探していたんだ」
「え、あ、すみません。俺もちょっと、その、実践練習をしようかと」
俺は引きつった笑みを浮かべた。
シリル様の視線が、俺の背後にいる桃色ドレスの令嬢へとスライドする。
ただ一瞥。
それだけで、令嬢は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、顔を真っ青にして後ずさった。
「あ、待って……」
「……おや、逃げられてしまったね」
シリル様は残念そうに(全く残念そうではない声で)言った。
明らかに威圧しただろ今! 公爵家の「貴族覇気」で一般市民を威嚇射撃しただろ!
「どういうことですか師匠! 俺の記念すべき初エスコートが!」
「リアン。君にはまだ早い」
「早くないです! 十五歳です! 立派なレディキラーになるために、経験を積まないと」
「経験?」
シリル様が一歩踏み出す。俺は反射的に半歩下がる。
彼の纏う空気が、濃密に変わる。
「未熟なエスコートで恥をかくのは、君のパートナーになる女性だ。スパダリを目指すなら、完璧になるまで人前に出るべきではない」
「うぐっ……それは、正論ですけど……でも、やってみなきゃ上手くならないじゃないですか」
「だから、私がいる」
シリル様は、俺の左手首を掴んだ。
そこには、彼から贈られた「契約のブレスレット」が銀色の光を放っている。
彼は俺の手を引き寄せ、強引に自分の腰に回させた。
「え?」
「実践練習が必要なんだろう? 私が相手をしてあげる」
「は!? いや、男同士ですよ!? おかしいでしょ!」
「おかしくない。主君が従者のダンスを確認するのは、よくあることだ」
嘘だ。聞いたことない。
だが、シリル様は有無を言わせぬ力で、俺の右手を取り、指を絡ませた。
いわゆる「恋人繋ぎ」だ。
白い手袋越しでも、彼の手の熱さが伝わってくる。
「音楽が始まる。……足を踏んだら、明日からの課題を倍にするよ」
「鬼! スパルタ!」
「ほら、ステップ」
優雅なワルツの調べと共に、俺の体は強制的に動かされた。
◇◇◇
会場がどよめいた。
当然だ。
今をときめくオルディス公爵令息が、女性たちを差し置いて、男――しかも凡庸な子爵家の次男と踊り始めたのだから。
「あれは誰?」
「アークライト家の子息よ」
「シリル様があんなに楽しそうに……」
「なんてお似合いなの……」
最後の方の幻聴は聞かなかったことにする。
俺は必死だった。
シリル様のリードは完璧すぎた。
俺が男役(リード)のつもりで動こうとすると、絶妙な力加減で封じられ、気づけば彼の意のままに回されている。
彼は俺の背中に手を回し、ぐい、と体を引き寄せた。
近い。
吐息がかかる距離だ。
「近い! 近いです師匠!」
「これくらい密着しないと、人混みでははぐれてしまうよ」
「ここはダンスフロアです! はぐれません!」
「黙って。……私を見ろ」
低い声で命令され、俺はパッと顔を上げた。
シリル様と目が合う。
その瞳の中に、俺の姿だけが映っている。
周囲の景色も、煌びやかな照明も、すべてがぼやけて消え失せ、世界には彼と俺しかいないような錯覚に陥る。
「リアン。君の瞳は、私だけを見ていればいい」
「……はい?」
「他の有象無象に愛想を振りまく必要はない。君の『修行』の成果を評価できるのは、私だけだ」
それは、まるで愛の告白のように聞こえた。
甘く、重く、逃げ場のない言葉。
俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
これは、吊り橋効果だ。衆人環視の中で男と踊っている緊張感と、シリル様の圧倒的な美貌による視覚的暴力のせいだ。決して、彼にときめいているわけではない。
「……師匠のリード、すごいです」
「そうか?」
「はい。俺、体が勝手に動きます。……なるほど、これが『委ねさせる』技術か。勉強になります!」
俺が感動して目を輝かせると、シリル様はふっと表情を緩めた。
先ほどの冷たい仮面が嘘のような、蕩けるような笑顔。
それを見た令嬢たちが、バタバタと音を立てて倒れる気配がした。
「素直な生徒は嫌いじゃないよ。……ご褒美に、もっと教えてあげる」
シリル様の手が、俺の腰をさらに強く抱きしめる。
回転(ターン)。
景色が回る。
遠心力で振り落とされないよう、俺は必死に彼の肩にしがみついた。
その瞬間、彼の香りが鼻腔をくすぐった。冷たいミントと、ムスクのような大人の香り。
俺は頭がくらくらした。
(ああ、負けた。完敗だ)
俺は悟った。
俺が目指していた「スパダリ」の頂点は、目の前にいる。
こんな凄い男が近くにいて、俺が勝てるわけがない。
俺は一生、この人の背中を追いかけていくしかないんだ。
曲が終わるまで、俺たちは踊り続けた。
会場中の視線が、痛いほど俺たちに突き刺さっていた。
それは「シリル様を独占する不届き者」への嫉妬の視線であり、同時に「誰も入り込めない二人の世界」への畏怖の視線でもあった。
◇◇◇
ダンスが終わると、シリル様は満足げに俺をバルコニーへと連れ出した。
夜風が火照った頬に心地よい。
俺はぜえぜえと息を切らしていたが、シリル様は涼しい顔だ。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思いました……」
「大袈裟だな。ステップは悪くなかったよ」
「本当ですか!?」
「ああ。……ただし、他の誰かと踊ろうなんて考えないことだ」
シリル様は、夜空を見上げながら呟いた。
「君のステップに合わせて動けるのは、世界で私一人だ。他の誰かと踊れば、君は必ず転んで怪我をする」
「そんなに俺って癖が強いですか?」
「強いね。私以外には制御不能だ」
シリル様は楽しそうに笑い、俺の髪を指で梳いた。
その言葉が、「お前は俺以外の人間とは生きていけないように躾けた」という意味だとは、夢にも思わずに。
「わかりました! じゃあ、もっと練習して、誰とでも合わせられるようになります!」
「…………」
シリル様の笑顔が一瞬で凍りついたように見えた。
あれ? 何か地雷踏んだ?
「……リアン。寮の部屋に戻ったら、反省会だ」
「ええー! なんでですか!」
「君の向上心の方向性が間違っているからだ。徹底的に、朝まで教えてやる」
シリル様は俺の手首を掴み、会場を後にした。
その背中は怒っているようにも見えたが、繋いだ手は痛いほど強く、決して離そうとしなかった。
こうして俺のデビュタントは、「令嬢とのロマンス」ではなく、「魔王(師匠)との公開処刑ダンス」という形で幕を閉じた。
だが不思議と、嫌な気分ではなかった。
彼にリードされ、彼の手のひらで踊らされる感覚が、どこか心地よかったのだ。
来年は、いよいよ王立学園への入学が待っている。
俺とシリル様の「共犯関係」は、場所を学園に移し、さらに深く絡み合っていくことになる。
俺はまだ知らない。
その学園生活が、師匠による「完璧な囲い込み」の最終仕上げの場になることを。
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