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2章
15話
しおりを挟む裏庭で魔法の練習をしたあの夜から、家の中の空気は変わった。
ピリピリとした緊張感と、どこか重苦しい閉塞感。
それは主に、エリオットが発しているものだった。
彼は出勤する際、家の周囲に張り巡らせた結界を三重に強化し、さらにお母さんと僕に「決して窓を開けないように」と厳命していった。
まるで、嵐が来る前の避難勧告みたいだ。
エリオットが仕事に出かけた後の昼下がり。
僕はリビングで、お母さんの手伝いをして洗濯物を畳んでいた。
もちろん、部屋干しだ。外に干すことすら、今は許されていない。
お母さんがふと手を止めて、少し困ったような、でも微笑ましいような顔で僕を見た。
「――、―――? ――――……」
柔らかい声で話しかけられるけれど、やっぱり言葉の意味はわからない。
ただ、その口調と雰囲気から、何か心配事を話しているような気がした。
僕は首を傾げて、困った顔で微笑み返すことしかできない。
お母さんは窓の外――カーテンが引かれた向こう側――をちらりと見て、ゆっくりと語りかけてくれた。
「街が少し騒がしいのよ。エリオットが言っていたけれど……『精霊様』の噂で持ちきりなんですって」
もちろん、僕の耳には「―――、――……『セイレイ』――」という音の羅列にしか聞こえない。
けれど、『セイレイ』という単語だけは聞き取れた。
昨日、エリオットと練習した単語だ。僕のギルドカードに書かれた偽装種族、『精霊』。
僕はハッとして動きを止めた。
お母さんは苦笑しながら、ジェスチャーを交えて続ける。
「ギルドで騒ぎになったんでしょう? 『金色の髪』をした美しい少年がいたって。みんながあなたの話をしているのよ」
お母さんが自分の髪を指差し、次にキラキラとした手振りをして、最後に困ったように笑った。
……なんとなく、わかった気がする。
僕の髪の色、そして昨日のギルドでの出来事。
あの時、僕が挨拶しただけで周りが静まり返ったあれのことだろうか。
良かれと思ってやった挨拶が、まさか大ごとになって広まっているなんて。
僕は恥ずかしさで顔を覆いたくなった。
無自覚だったとはいえ、僕の行動がエリオットやお母さんに迷惑をかけてしまっている。
言葉はあまり通じないけれど、謝罪の気持ちは伝えたかった。
「……ご、めん……なさい」
覚えたての言葉を、たどたどしく紡ぐ。
すると、お母さんは優しく僕の手を握ってくれた。
「謝ることはないわ。あなたが素敵なのは事実だもの。ただ……有名になるということは、良いことばかりではないから。エリオットがあんなに神経質になるのも無理はないわね」
長い言葉はわからないけれど、握られた手の温かさと、慈愛に満ちた眼差しで、彼女が僕を責めていないことは伝わってきた。
でも、その瞳の奥にはエリオットと同じ、僕を案じる深い憂いがあった。
その日の夕方。
エリオットが帰宅した。
玄関のドアが開く音と共に、彼がリビングに入ってくる。その顔色は優れず、眉間には深い皺が刻まれていた。
「(ただいま、陽貴。……変わりはなかったか?)」
念話の声も硬い。
僕は駆け寄って彼を迎えた。
「(おかえりなさい、エリオット。うん、何もなかったよ。ずっと家の中にいたから)」
エリオットは僕の姿を確認すると、張り詰めていた糸が切れたように深く息を吐き、そのまま僕を抱きしめた。
冷たい夜風の匂いと、微かな鉄の匂いがする。
「(……よかった。無事で本当によかった)」
彼は僕の背中に回した腕に力を込め、震えるように囁く。
ただ仕事から帰ってきただけなのに、まるで戦場から生還したかのような必死さだ。
何かあったのだろうか?
「(エリオット? 何かあったの?)」
僕が恐る恐る尋ねると、彼は少し躊躇ってから、重い口を開いた。
「(……家の結界に、干渉された形跡があった)」
「(えっ)」
「(誰かが、外から結界の強度や構造を探ろうとした跡だ。プロの仕業だな。……やはり、昨日の『視線』は気のせいじゃなかった」
背筋が凍る。
家の中にいた僕たちは気づかなかったけれど、外では誰かがこの家を調べていたということだ。
壁一枚隔てた向こう側に、悪意を持った誰かがいたなんて。
エリオットは僕の肩を掴み、真剣な眼差しで見つめてきた。
「(陽貴。明日からは、俺の部屋からも出ないでくれ。リビングも危険だ。窓のない書庫か、俺の寝室にいてほしい)」
「(……!)」
部屋からも出られない。
それはつまり、事態がそこまで切迫しているということだ。
僕の正体がバレかけているのか、あるいはもう特定されているのか。
エリオットの顔には、隠しきれない疲労と焦燥が滲んでいた。
彼は仕事中もずっと神経を尖らせ、家を守り、僕を守るために奔走していたのだろう。
僕が家でのんびりと洗濯物を畳んでいる間も、彼は見えない敵と戦っていたのだ。
「(……すまない、陽貴。こんな窮屈な思いをさせて)」
エリオットが苦しげに顔を歪める。
「(君を守るためにはこれしかないんだ。街での噂も過熱している。いつ誰が押し入ってくるかわからない状況なんだ)」
謝るのはエリオットじゃない。
悪いのは、狙われるような体質を持っている僕だ。
僕がいるせいで、エリオットの平穏な日常が壊されていく。お母さんまで危険に巻き込んでしまっている。
胸が締め付けられるような罪悪感が押し寄せた。
僕は「守られるだけ」の存在でいいのか?
エリオット一人が傷つき、悩み、全てを背負い込む姿を、ただ部屋の隅で震えて見ているだけでいいのか?
嫌だ。そんなの耐えられない。
「(……謝らないで、エリオット。謝らなきゃいけないのは僕の方だよ)」
僕はエリオットの腕を掴み返し、必死に伝えた。
「(僕のせいで、エリオットもお母さんも危険な目に遭ってる。僕が『神の愛し子』なんて面倒な存在じゃなければ……)」
「(陽貴、そんなことは)」
「(エリオット一人に全部押し付けて、隠れてるだけなんて嫌だよ!)」
僕の強い念話に、エリオットが目を見開く。
「(僕にも何かできないの? 戦うことはできないかもしれないけど、結界の維持を手伝うとか、魔力を渡すとか……何でもいい。君の負担を少しでも減らしたいんだ)」
僕は彼を見上げた。
ただ守られるだけのお姫様にはなりたくない。
僕は彼の伴侶だ。命を共有すると誓ったパートナーだ。
「(お願い、エリオット。僕を『守るべきモノ』として扱わないで。一緒に乗り越えたいんだよ)」
エリオットは言葉を失い、僕を見つめていた。
その瞳の中で、揺れ動く感情が見て取れる。
やがて、彼は力を抜いて、僕を優しく抱き寄せた。
「(……君は、本当に強いな)」
耳元で、彼のため息交じりの念話が聞こえる。
「(俺は、君が傷つくのが怖くて、何も見せないように、何もさせないように必死だった。……だが、それは君の心を無視していたのかもしれないな)」
「(エリオット……)」
「(ありがとう、陽貴。君がそう言ってくれて救われた)」
エリオットは少し体を離し、僕の目をまっすぐに見つめた。
「(だが、今はまだ敵の正体がわからない。迂闊な行動は命取りになる。……君に頼みたいことは一つだけだ)」
「(何? 何でも言って)」
「(俺を信じて、俺の言う通りにしてほしい。俺が『隠れていろ』と言ったら隠れてくれ。『逃げろ』と言ったら逃げてくれ。……それが、俺が一番力を発揮できる条件なんだ)」
僕が彼の指示に従うことが、彼の背中を守ることに繋がる。
「(わかった。約束する。エリオットの言う通りにするよ)」
僕は力強く頷いた。
彼が全力を出せるように、僕は僕の役割を全うする。それが今の僕にできる唯一の「協力」だ。
エリオットは微笑み、僕の額に口づけを落とした。
二人の間にあった不安が、決意へと変わっていくのを感じた。
その夜、僕たちは寄り添うようにして眠りについた。
エリオットは片時も僕を離さず、剣を枕元に置いて警戒を続けていた。
僕もまた、彼の体温を感じながら、いざという時は自分の身を呈してでも彼を守ろうと心に誓っていた。
――しかし、敵は僕たちの想定よりも早く、そして大胆に動き出そうとしていた。
深夜。
ふと、目が覚めた。
何かが聞こえた気がしたのだ。
キィィィィン……。
耳鳴りのような、高い音。
隣で眠るエリオットを見ると、彼は眉を顰めて唸っている。深い眠りについているようだが、どこか苦しそうだ。
――なんだろう、この音。
僕は体を起こし、耳を澄ませた。
音は、窓の外から聞こえてくる。
そして、それに呼応するように、僕の体の中にある魔力がざわざわと騒ぎ出した。
まるで、外にある「何か」に呼ばれているような感覚。
甘い誘惑のような、それでいて強制力のある引力。
頭がぼんやりとして、思考が霧に包まれていく。
僕は無意識のうちにベッドから降り、窓の方へとふらふらと歩き出した。
ダメだ、窓に近づいちゃいけない。エリオットとの約束だ。
頭ではわかっているのに、体が言うことを聞かない。
あそこに行けば、何か懐かしいものがある気がする。
カーテンの隙間から、月明かりが漏れている。
その光が、やけに赤く見えた。
あのギルドの鑑定水晶と同じ、不気味な赤色。
あと数歩で窓に手が届く――その時。
「(――陽貴ッ!!)」
頭の中に、雷のような怒号が響いた。
同時に、背後から強い力で引き戻される。
「うわっ!」
僕はベッドの上に倒れ込み、その上にエリオットが覆いかぶさった。
彼は荒い息を吐きながら、血走った目で僕を見下ろしていた。
「(何をしている!? 窓に近づいてはいけない!)」
エリオットの剣幕に、僕はハッと我に返った。
霧が晴れるように意識が戻る。
今の、何だったんだろう?
夢遊病みたいに、体が勝手に……。
「(ご、ごめん……なんか、変な音がして……)」
「(音?)」
エリオットが鋭い視線を窓に向ける。
その瞬間。
――パリンッ!!
鋭い破砕音が響き渡った。
窓ガラスが割れたのではない。
家の周囲を覆っていた、あの強固な三重の結界が、何者かによって物理的に『割られた』音だ。
エリオットの顔色が変わる。
「(……来たか)」
彼は瞬時にベッドから飛び起き、剣を抜いた。
そして、片手で僕を抱きかかえ、部屋の隅へと移動する。
空気が変わった。
平穏な家の空気が、一瞬にして戦場のそれへと変貌する。
庭の方から、ゾロゾロと何かが侵入してくる気配がする。一人や二人じゃない。
「(陽貴、俺から離れるな」
エリオットの声は冷たく、そして静かだった。
それは愛する僕に向ける声ではなく、敵を屠る『騎士』の声だった。
ドォォン!
玄関のドアが、魔法によって吹き飛ばされる音がした。
リビングから、土足で踏み入る複数の足音が響く。
「……――! ―――!」
「――、――!!」
男たちの下卑た怒号。言葉はわからないけれど、敵意だけは明確に伝わってくる。
エリオットは僕をさらに強く抱きしめ、低い声で呟いた。
「(……後悔させてやる。俺の家に土足で踏み入ったことを)」
部屋のドアノブが、ガチャリと回る。
忍び寄っていた影は、ついにその実体を現し、僕たちに牙を剥こうとしていた。
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