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十三話
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温室のガラスを叩く雪の音が、どこか遠い世界の出来事のように聞こえる。
フィオーレは、瑞々しい緑に囲まれた小さな作業机で、何かに没頭していた。その手元にあるのは、使い慣れた剪定ばさみではなく、不釣り合いなほど細い縫い針と、深い紺色の端切れだ。
「……いたっ」
チクリとした感触に、フィオーレは思わず指を引っ込めた。
指先に、ぷつりと小さな紅い真珠が浮かぶ。彼はそれを布に付けないよう慌てて口に含み、少しだけ困ったように眉を下げた。
「フィオーレ様。やはり、私がお手伝いしましょうか?」
側に控えていたテレーゼが、クスクスと微笑みながら声をかける。彼女の手元には、フィオーレが温室で丁寧に乾燥させたハーブの山があった。ラベンダーに似た安眠を誘う花、そしてフィオーレが「元気が出るように」と選んだ柑橘系の葉。
「ううん、テレーゼさん。これは、私が全部やりたいんだ。……ヴォルフラム様は、いつも素敵なものばかり私にくれるから。私にしか作れないものを、あげたくて」
フィオーレは再び針を手に取り、慣れない手つきで布の端を縫い合わせていく。
彼が作っているのは、小さな匂い袋――サシェだ。
中には、フィオーレが「ヴォルフラム様が少しでもゆっくり眠れるように」と調合した、特別なハーブが詰められる予定だった。
針を通すたび、銀色の髪がさらさらと揺れる。
ラングリス王国にいた頃、フィオーレは針仕事などさせてもらえなかった。「王族の汚点」である彼が、繊細な手仕事に関わることさえ禁じられていたからだ。
けれど今のフィオーレの指には、土を弄ることで得た、確かで優しい感覚が宿っている。
「……よし。あとは、この紐を通して……」
作業に没頭するあまり、フィオーレは背後に近づく影に気づかなかった。
「何をしている、フィオーレ。テレーゼが止めるのも聞かず、昼食も摂らずに籠もっていると聞いたが」
低く、どこか楽しげな響きを含んだ声。
フィオーレは肩を大きく跳ねさせ、慌てて手元のものを隠そうとした。
「ヴォ、ヴォルフラム様! お仕事は……?」
「一段落した。お前の顔を見に来てみれば、この有様だ」
ヴォルフラムは、作業机の上に散らばった布の切れ端や乾燥したハーブ、そしてフィオーレの少し赤くなった指先を、鋭い金の瞳で見つめた。
彼は無言で歩み寄り、フィオーレの椅子を引くと、その細い手を自分の大きな掌で包み込んだ。
「……指を怪我したのか。見せてみろ」
「なんでもありません、これくらい! すぐに治りますから」
「黙っていろ。お前の体は、爪の先まで俺の管理下にある」
ヴォルフラムは、フィオーレの指先をそっと自分の唇に寄せた。
熱い吐息が触れ、続いて柔らかな感触が傷跡を塞ぐように重なる。
フィオーレの心臓は、温室の中よりもずっと激しく、ドクドクと音を立て始めた。顔が燃えるように熱い。
「……もう大丈夫だ。それで、これは何だ。俺に隠さなければならないほど、いかがわしいものでもあるまい?」
ヴォルフラムが、フィオーレが隠しきれていなかった紺色の小さな袋を指さす。
フィオーレは観念して、恥ずかしさに俯きながら、それを両手で差し出した。
「……あの。お礼、なんです。いつも、守ってくださって、居場所をくださって……ありがとうございます。ヴォルフラム様、お忙しくてあまり眠れていないみたいだったから。枕元に置くと、少しだけ、ぐっすり眠れる魔法をかけました」
「魔法?」
「はい。この温室で、私が一番大切に育てたハーブです」
ヴォルフラムは、受け取った小さなサシェを鼻先に近づけた。
そこには、フィオーレそのものを思わせる、清涼でありながらどこか甘く、深い安らぎを与える香りが閉じ込められていた。
ヴォルフラムの表情から、いつもの冷徹さが消えていく。
彼はサシェを愛おしげに握りしめると、反対の腕でフィオーレをぐいと自分の方へ引き寄せた。
「……魔法、か。確かに、かかったようだな」
「えっ、もうですか?」
「ああ。この香りを嗅ぐだけで、お前のことが四六時中、頭から離れなくなりそうだ。これは安眠どころか、逆効果かもしれん」
ヴォルフラムはクスクスと低く笑い、フィオーレの額に自分の額をこつんと当てた。
至近距離で見つめ合う、金と碧。
フィオーレは、ヴォルフラムの瞳の中に、夜空に輝く星よりも強い情熱が宿っているのを見て、思わず目を逸らした。
「……気に入って、いただけましたか?」
「ああ。この世のどんな至宝よりも。……フィオーレ、もう一度言う。お前は俺の元へ来て、正解だった」
ヴォルフラムの手が、フィオーレの腰を優しく、けれど離さないという確固たる意志を持って抱きしめる。
フィオーレは、彼が着ている上等なシャツの裾を、ぎゅっと握りしめた。
「私も……そう、思います」
小さく、消え入りそうな声。
けれど、その言葉はヴォルフラムの心の一番深い場所に届いた。
ヴォルフラムは、フィオーレのうなじを愛おしげに撫でると、そのままゆっくりと顔を近づけ、重なる。
今度のくちづけは、これまでのどれよりも甘く、そして長く、二人の時間を止めてしまった。
温室のハーブたちが、二人の幸せを祝うように、いっそう強く香りを放つ。
不憫だった過去は、もうこの温かな香りの中に溶けて、消えていった。
「さあ、作業は終わりだ。冷えた体を温めるために、今日は俺の部屋で茶を飲むぞ。この匂い袋の効果を、今すぐ試してやらねばな」
「あ……待ってください、まだ片付けが……っ」
「テレーゼに任せろ。お前は俺だけを見ていればいい」
ヴォルフラムはフィオーレの手を引き、意気揚々と温室を後にした。
後に残されたテレーゼは、ハーブの香りに包まれながら、「お熱いことですわ」と楽しそうに独り言をこぼしていた。
フィオーレは、瑞々しい緑に囲まれた小さな作業机で、何かに没頭していた。その手元にあるのは、使い慣れた剪定ばさみではなく、不釣り合いなほど細い縫い針と、深い紺色の端切れだ。
「……いたっ」
チクリとした感触に、フィオーレは思わず指を引っ込めた。
指先に、ぷつりと小さな紅い真珠が浮かぶ。彼はそれを布に付けないよう慌てて口に含み、少しだけ困ったように眉を下げた。
「フィオーレ様。やはり、私がお手伝いしましょうか?」
側に控えていたテレーゼが、クスクスと微笑みながら声をかける。彼女の手元には、フィオーレが温室で丁寧に乾燥させたハーブの山があった。ラベンダーに似た安眠を誘う花、そしてフィオーレが「元気が出るように」と選んだ柑橘系の葉。
「ううん、テレーゼさん。これは、私が全部やりたいんだ。……ヴォルフラム様は、いつも素敵なものばかり私にくれるから。私にしか作れないものを、あげたくて」
フィオーレは再び針を手に取り、慣れない手つきで布の端を縫い合わせていく。
彼が作っているのは、小さな匂い袋――サシェだ。
中には、フィオーレが「ヴォルフラム様が少しでもゆっくり眠れるように」と調合した、特別なハーブが詰められる予定だった。
針を通すたび、銀色の髪がさらさらと揺れる。
ラングリス王国にいた頃、フィオーレは針仕事などさせてもらえなかった。「王族の汚点」である彼が、繊細な手仕事に関わることさえ禁じられていたからだ。
けれど今のフィオーレの指には、土を弄ることで得た、確かで優しい感覚が宿っている。
「……よし。あとは、この紐を通して……」
作業に没頭するあまり、フィオーレは背後に近づく影に気づかなかった。
「何をしている、フィオーレ。テレーゼが止めるのも聞かず、昼食も摂らずに籠もっていると聞いたが」
低く、どこか楽しげな響きを含んだ声。
フィオーレは肩を大きく跳ねさせ、慌てて手元のものを隠そうとした。
「ヴォ、ヴォルフラム様! お仕事は……?」
「一段落した。お前の顔を見に来てみれば、この有様だ」
ヴォルフラムは、作業机の上に散らばった布の切れ端や乾燥したハーブ、そしてフィオーレの少し赤くなった指先を、鋭い金の瞳で見つめた。
彼は無言で歩み寄り、フィオーレの椅子を引くと、その細い手を自分の大きな掌で包み込んだ。
「……指を怪我したのか。見せてみろ」
「なんでもありません、これくらい! すぐに治りますから」
「黙っていろ。お前の体は、爪の先まで俺の管理下にある」
ヴォルフラムは、フィオーレの指先をそっと自分の唇に寄せた。
熱い吐息が触れ、続いて柔らかな感触が傷跡を塞ぐように重なる。
フィオーレの心臓は、温室の中よりもずっと激しく、ドクドクと音を立て始めた。顔が燃えるように熱い。
「……もう大丈夫だ。それで、これは何だ。俺に隠さなければならないほど、いかがわしいものでもあるまい?」
ヴォルフラムが、フィオーレが隠しきれていなかった紺色の小さな袋を指さす。
フィオーレは観念して、恥ずかしさに俯きながら、それを両手で差し出した。
「……あの。お礼、なんです。いつも、守ってくださって、居場所をくださって……ありがとうございます。ヴォルフラム様、お忙しくてあまり眠れていないみたいだったから。枕元に置くと、少しだけ、ぐっすり眠れる魔法をかけました」
「魔法?」
「はい。この温室で、私が一番大切に育てたハーブです」
ヴォルフラムは、受け取った小さなサシェを鼻先に近づけた。
そこには、フィオーレそのものを思わせる、清涼でありながらどこか甘く、深い安らぎを与える香りが閉じ込められていた。
ヴォルフラムの表情から、いつもの冷徹さが消えていく。
彼はサシェを愛おしげに握りしめると、反対の腕でフィオーレをぐいと自分の方へ引き寄せた。
「……魔法、か。確かに、かかったようだな」
「えっ、もうですか?」
「ああ。この香りを嗅ぐだけで、お前のことが四六時中、頭から離れなくなりそうだ。これは安眠どころか、逆効果かもしれん」
ヴォルフラムはクスクスと低く笑い、フィオーレの額に自分の額をこつんと当てた。
至近距離で見つめ合う、金と碧。
フィオーレは、ヴォルフラムの瞳の中に、夜空に輝く星よりも強い情熱が宿っているのを見て、思わず目を逸らした。
「……気に入って、いただけましたか?」
「ああ。この世のどんな至宝よりも。……フィオーレ、もう一度言う。お前は俺の元へ来て、正解だった」
ヴォルフラムの手が、フィオーレの腰を優しく、けれど離さないという確固たる意志を持って抱きしめる。
フィオーレは、彼が着ている上等なシャツの裾を、ぎゅっと握りしめた。
「私も……そう、思います」
小さく、消え入りそうな声。
けれど、その言葉はヴォルフラムの心の一番深い場所に届いた。
ヴォルフラムは、フィオーレのうなじを愛おしげに撫でると、そのままゆっくりと顔を近づけ、重なる。
今度のくちづけは、これまでのどれよりも甘く、そして長く、二人の時間を止めてしまった。
温室のハーブたちが、二人の幸せを祝うように、いっそう強く香りを放つ。
不憫だった過去は、もうこの温かな香りの中に溶けて、消えていった。
「さあ、作業は終わりだ。冷えた体を温めるために、今日は俺の部屋で茶を飲むぞ。この匂い袋の効果を、今すぐ試してやらねばな」
「あ……待ってください、まだ片付けが……っ」
「テレーゼに任せろ。お前は俺だけを見ていればいい」
ヴォルフラムはフィオーレの手を引き、意気揚々と温室を後にした。
後に残されたテレーゼは、ハーブの香りに包まれながら、「お熱いことですわ」と楽しそうに独り言をこぼしていた。
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