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第一話
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ガタゴトと揺れる馬車の振動が、硬い座面を通して腰に響く。
エリアンは膝の上に置いた古びた木箱を、壊れ物を扱うようにそっと撫でた。中に入っているのは、彼が長年かけて集め、育ててきた薬草の種と、使い慣れた乳鉢。これさえあれば、どこへ行っても生きていける。そう自分に言い聞かせ、彼は小さく息を吐いた。
「エリアン様、まもなく『黒鱗宮(こくりんきゅう)』が見えてまいります」
御者のラウルが、震える声で告げた。
窓の外に広がる景色は、先ほどまでののどかな田園風景とは一変している。ごつごつとした岩肌が露出し、あちこちから硫黄の香りを孕んだ白い湯気が立ち上っていた。
ソルスティス帝国の最北端。活火山の麓に建つこの宮殿は、人々に「死の入り口」と恐れられている。
「……確かに、少し暑くなってきましたね」
エリアンは額に滲んだ汗を指先で拭った。
この馬車に乗る直前まで、実家であるジルベル子爵家では大騒ぎだった。
本来、竜帝ヴァレリウスの元へ「番」として嫁ぐはずだったのは、魔力豊かな異母弟のフィリップだ。しかし、彼は「恐ろしい化け物に食われるのは嫌だ」と泣き喚き、ついには仮病を使って寝込んでしまった。
そこで白羽の矢が立ったのが、魔力を持たず、家では「無能」として扱われていたエリアンだった。
――エリアン、お前ならどうせ死んでも惜しくない。
父の冷酷な言葉を思い出し、エリアンは苦笑する。
悲しみはなかった。ただ、やっとあの湿っぽい屋根裏部屋から出られるという解放感だけが、彼の胸を満たしていた。
馬車が大きな音を立てて止まる。
扉が開くと、サウナのような熱気が一気に流れ込んできた。
「ひっ……!」
ラウルはエリアンの荷物を地面に置くや否や、挨拶もそこそこに馬車を翻して走り去ってしまった。取り残されたのは、荒涼とした大地にそびえ立つ黒石の城と、一人の小柄な青年だけだ。
「……まずは、この熱をどうにかしないと」
エリアンは木箱からミントに似た香りのする『雪結晶草(ゆきけっしょうそう)』の葉を取り出し、口に含んだ。鼻に抜ける爽快感が、じりじりと焼けるような空気の不快さを和らげてくれる。
「お前が、ジルベル家からの身代わりか」
地響きのような低い声が頭上から降ってきた。
エリアンが顔を上げると、そこには見上げるような巨躯の男が立っていた。
燃え盛るような金色の瞳。夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。そして、服の上からでもわかる岩のように硬そうな筋肉。
彼こそが、大陸最強と謳われる竜帝、ヴァレリウスだった。
ヴァレリウスは眉間に深い皺を刻み、エリアンを見下ろしている。その視線は鋭く、まるで獲物を品定めする肉食獣のようだ。
「……はい。エリアン・ジルベルと申します。今日からこちらでお世話になります」
エリアンは丁寧にお辞儀をした。
恐れよりも先に、職業病が顔を出す。
(顔色が悪い。それに、この熱気……。これは魔力の暴走というより、深刻な熱中症か、あるいは循環不全ですね)
ヴァレリウスの肌は赤みを帯び、発散される熱量は尋常ではない。彼が一歩踏み出すごとに、足元の小石が微かに爆ぜるような音を立てていた。
「怯えないのだな」
ヴァレリウスが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「怯える暇があるなら、対策を立てる方が有意義ですので。陛下、失礼ですが少しだけ手をお借りしても?」
「……何?」
返事を待たず、エリアンはヴァレリウスの大きな手に触れた。
じゅ、と音がしそうなほどの熱さだ。普通の人間なら火傷を負うだろうが、エリアンは平然と脈を測る。
「やはり。陛下、あなたの心臓は早鐘のように打っています。このままでは倒れるのは時間の問題です」
「黙れ。これは竜の血による宿命だ。お前のような魔力も持たぬ人間に、何がわかる」
ヴァレリウスは乱暴に手を振り払った。
その拍子に、エリアンの大事な木箱が地面に転がり、蓋が開いてしまう。
「あ……」
中から転がり出たのは、丁寧に小分けされた乾燥薬草と、いくつかの種だ。
「……チリ紙か。これだから貴族のガキは」
ヴァレリウスは興味を失ったように背を向け、城の中へと歩き出した。
「勝手にしろ。死ぬまでは、奥の部屋を使えばいい」
エリアンは文句一つ言わず、散らばった薬草を一つずつ拾い上げた。
土を払い、香りを確かめる。幸い、乳鉢は割れていない。
(宿命、ですか。医者や薬師にとって、一番聞き飽きた言葉ですね)
エリアンは立ち上がり、黒い城を見上げた。
確かに、この環境は過酷だ。食べ物も、水も、自分で行き先を確保しなければならないだろう。
しかし、目の前にはこれほどまでに研究しがいのある「患者」がいる。
「さて。まずは、冷たい水と、あの方の熱を引かせるための薬湯を作れる場所を探さないと」
エリアンは重い木箱を抱え直し、一歩、また一歩と、竜が住まう城へと足を踏み入れた。
恋が始まる予感などは微塵もない。
ただ、新しい職場と、厄介そうな患者。
薬師エリアンの、ソルスティス帝国での生活が幕を開けた。
エリアンは膝の上に置いた古びた木箱を、壊れ物を扱うようにそっと撫でた。中に入っているのは、彼が長年かけて集め、育ててきた薬草の種と、使い慣れた乳鉢。これさえあれば、どこへ行っても生きていける。そう自分に言い聞かせ、彼は小さく息を吐いた。
「エリアン様、まもなく『黒鱗宮(こくりんきゅう)』が見えてまいります」
御者のラウルが、震える声で告げた。
窓の外に広がる景色は、先ほどまでののどかな田園風景とは一変している。ごつごつとした岩肌が露出し、あちこちから硫黄の香りを孕んだ白い湯気が立ち上っていた。
ソルスティス帝国の最北端。活火山の麓に建つこの宮殿は、人々に「死の入り口」と恐れられている。
「……確かに、少し暑くなってきましたね」
エリアンは額に滲んだ汗を指先で拭った。
この馬車に乗る直前まで、実家であるジルベル子爵家では大騒ぎだった。
本来、竜帝ヴァレリウスの元へ「番」として嫁ぐはずだったのは、魔力豊かな異母弟のフィリップだ。しかし、彼は「恐ろしい化け物に食われるのは嫌だ」と泣き喚き、ついには仮病を使って寝込んでしまった。
そこで白羽の矢が立ったのが、魔力を持たず、家では「無能」として扱われていたエリアンだった。
――エリアン、お前ならどうせ死んでも惜しくない。
父の冷酷な言葉を思い出し、エリアンは苦笑する。
悲しみはなかった。ただ、やっとあの湿っぽい屋根裏部屋から出られるという解放感だけが、彼の胸を満たしていた。
馬車が大きな音を立てて止まる。
扉が開くと、サウナのような熱気が一気に流れ込んできた。
「ひっ……!」
ラウルはエリアンの荷物を地面に置くや否や、挨拶もそこそこに馬車を翻して走り去ってしまった。取り残されたのは、荒涼とした大地にそびえ立つ黒石の城と、一人の小柄な青年だけだ。
「……まずは、この熱をどうにかしないと」
エリアンは木箱からミントに似た香りのする『雪結晶草(ゆきけっしょうそう)』の葉を取り出し、口に含んだ。鼻に抜ける爽快感が、じりじりと焼けるような空気の不快さを和らげてくれる。
「お前が、ジルベル家からの身代わりか」
地響きのような低い声が頭上から降ってきた。
エリアンが顔を上げると、そこには見上げるような巨躯の男が立っていた。
燃え盛るような金色の瞳。夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。そして、服の上からでもわかる岩のように硬そうな筋肉。
彼こそが、大陸最強と謳われる竜帝、ヴァレリウスだった。
ヴァレリウスは眉間に深い皺を刻み、エリアンを見下ろしている。その視線は鋭く、まるで獲物を品定めする肉食獣のようだ。
「……はい。エリアン・ジルベルと申します。今日からこちらでお世話になります」
エリアンは丁寧にお辞儀をした。
恐れよりも先に、職業病が顔を出す。
(顔色が悪い。それに、この熱気……。これは魔力の暴走というより、深刻な熱中症か、あるいは循環不全ですね)
ヴァレリウスの肌は赤みを帯び、発散される熱量は尋常ではない。彼が一歩踏み出すごとに、足元の小石が微かに爆ぜるような音を立てていた。
「怯えないのだな」
ヴァレリウスが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「怯える暇があるなら、対策を立てる方が有意義ですので。陛下、失礼ですが少しだけ手をお借りしても?」
「……何?」
返事を待たず、エリアンはヴァレリウスの大きな手に触れた。
じゅ、と音がしそうなほどの熱さだ。普通の人間なら火傷を負うだろうが、エリアンは平然と脈を測る。
「やはり。陛下、あなたの心臓は早鐘のように打っています。このままでは倒れるのは時間の問題です」
「黙れ。これは竜の血による宿命だ。お前のような魔力も持たぬ人間に、何がわかる」
ヴァレリウスは乱暴に手を振り払った。
その拍子に、エリアンの大事な木箱が地面に転がり、蓋が開いてしまう。
「あ……」
中から転がり出たのは、丁寧に小分けされた乾燥薬草と、いくつかの種だ。
「……チリ紙か。これだから貴族のガキは」
ヴァレリウスは興味を失ったように背を向け、城の中へと歩き出した。
「勝手にしろ。死ぬまでは、奥の部屋を使えばいい」
エリアンは文句一つ言わず、散らばった薬草を一つずつ拾い上げた。
土を払い、香りを確かめる。幸い、乳鉢は割れていない。
(宿命、ですか。医者や薬師にとって、一番聞き飽きた言葉ですね)
エリアンは立ち上がり、黒い城を見上げた。
確かに、この環境は過酷だ。食べ物も、水も、自分で行き先を確保しなければならないだろう。
しかし、目の前にはこれほどまでに研究しがいのある「患者」がいる。
「さて。まずは、冷たい水と、あの方の熱を引かせるための薬湯を作れる場所を探さないと」
エリアンは重い木箱を抱え直し、一歩、また一歩と、竜が住まう城へと足を踏み入れた。
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