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第二話
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黒石で築かれた城内は、外観から想像するよりもずっと静まり返っていた。
窓という窓は分厚いカーテンで閉ざされ、空気は重く、そして何より熱い。エリアンは額に浮かぶ汗を袖で拭いながら、薄暗い廊下を奥へと進む。
手に持った木箱は、歩くたびにカタリと小さな音を立てた。
「……誰もいないのでしょうか」
声を出すと、高い天井に反響して頼りなく消えた。
この城には、主であるヴァレリウスの他に、最低限の従者しかいないと聞いている。
エリアンは鼻を利かせた。職業柄、嗅覚には自信がある。
焦げた石の匂い、古びた絨毯の埃、そして――わずかに漂う、水の気配。
「あっちですね」
迷いのない足取りで廊下を曲がり、重厚な扉を押し開ける。
そこは、広大な厨房だった。
床には煤が溜まり、並べられた銀の鍋は曇りきっている。何日も使われていないようだが、奥の蛇口からは透き通った水が滴り、石の受け皿を濡らしていた。
エリアンは真っ先にそこへ駆け寄り、両手で水を掬い上げる。
「冷たい……! 助かりました」
喉を鳴らして水を飲み干すと、生き返る心地がした。
この火山の麓でこれほど冷たい水が得られるのは、地脈の奥深くに氷の魔力が混じっているからだろうか。薬師としての好奇心が、ふつふつと湧き上がる。
「おや。そこで何をしているのかな、小さな花嫁さん」
背後からかけられた陽気な声に、エリアンは肩を跳ねさせた。
振り返ると、厨房の入り口に一人の男が立っている。
空色の軽やかな髪に、細められた琥珀色の瞳。ヴァレリウスとは対照的に、風のように涼しげな空気を纏った男だった。
「花嫁……、あ、はい。今日から参りました、エリアン・ジルベルです。水をいただいていました」
「君が例の『身代わり』君か。僕はゼフィール。この暑苦しい城で、陛下のお守りをしている側近だよ」
ゼフィールは軽薄そうな笑みを浮かべ、エリアンの手元にある木箱を覗き込んだ。
「喉が渇いたなら、侍女を呼べばよかったのに。わざわざこんな埃っぽい場所まで来るなんて、君は随分と活動的だね」
「待っている間に干からびてしまいそうでしたから。それより、ゼフィール様。この厨房、借りてもよろしいでしょうか」
「厨房を? 料理でも作るのかい?」
「いいえ、薬です。先ほどお見かけした陛下は、少し熱が上がりすぎているようでした。このままでは今夜にも寝込んでしまわれます」
エリアンの言葉に、ゼフィールの目がわずかに見開かれた。
彼は面白そうに顎を撫で、エリアンをまじまじと見つめる。
「陛下が『竜の熱』に苦しんでいるのは、この国では常識だよ。誰も治せないし、誰も触れられない。それを、薬草一つでどうにかしようっていうのかい?」
「完璧に治せるとは断言できません。ですが、今の苦痛を半分にすることならできます」
エリアンは木箱を開け、中から『月光苔(げっこうごけ)』の乾燥させたものを取り出した。
青白く光るそれは、熱を吸収し、放出する特性を持っている。
「へえ、それは珍しい。子爵家の落ちこぼれが持っているような代物じゃないね」
「拾い集めるのは得意なんです。ゼフィール様、火をいただけますか。この城のコンロは、どうやって点けるのでしょう」
ゼフィールは肩をすくめ、指先をパチンと鳴らした。
瞬時にコンロから青い魔力の火が立ち上がる。
「いいよ。面白いから見学させてもらう。もし陛下を怒らせたら、僕が君を逃がしてあげるから安心していい」
「お気遣いありがとうございます。ですが、逃げるのはお代をいただいてからにします」
エリアンは手際よく鍋に水を張り、苔を投入した。
シュンシュンと湯気が立ち上り、厨房に少しだけ爽やかな香りが広がる。
その間に、彼は腰を落として床の汚れを拭き取り始めた。
「……君、何をしてるの?」
「薬を作る場所が汚れているのは、薬師としての矜持に反します。掃除をしながら煮出しを待つのが、一番効率的ですから」
ゼフィールは呆れたように笑い、近くの椅子に腰掛けた。
エリアンは黙々と手を動かす。
実家では、これ以上の雑用を毎日こなしてきたのだ。重い荷物を運び、庭の隅々まで薬草を植え、誰も見向きもしない汚れた部屋を自分の城へと変えてきた。
それに比べれば、この広い厨房を自由に使える今の状況は、贅沢ですらある。
三十分も経つ頃には、鍋の中の液体は透き通った淡い青色に変わっていた。
エリアンはそれを丁寧に布で漉し、小瓶に移す。
「できました。これを冷やして、陛下に」
「陛下は気難しいよ。得体の知れない液体なんて、口にしないと思うけどね」
「その時は、私が先に毒見をします。……あ、でも、これ、すごく苦いんです」
エリアンが顔をしかめると、ゼフィールは大声を上げて笑った。
「ははっ! 面白いな、君。よし、僕が案内しよう。陛下は今、最上階の自室で『冷却石』に張り付いているはずだ」
エリアンは小瓶を大切に抱え、ゼフィールの後に続いた。
階段を上るたびに、空気の温度が上がっていく。
やがて辿り着いた巨大な扉の前で、ゼフィールが足を止めた。
「陛下、例の花嫁を連れてきました。お見舞いの品があるそうです」
室内から、苛立ちの混じった低い唸り声が聞こえた。
「……帰せと言ったはずだ。死にたいのか」
扉越しでも肌がピリピリとするような威圧感。
だが、エリアンの関心は別のところにあった。
「陛下。ジルベル家のエリアンです。お味の保証はできませんが、お体の熱を冷ますお飲み物を用意しました」
エリアンは扉に手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
そこには、シャツの胸元を大きくはだけ、荒い呼吸を繰り返すヴァレリウスの姿があった。
彼の周囲の空気は陽炎のように揺らぎ、床に敷かれた石は赤く熱を帯びている。
「持っていけ……。私は、何も欲しくない」
ヴァレリウスの瞳が、金色の炎を湛えてエリアンを射抜く。
しかしエリアンは、一歩も引かずに瓶を差し出した。
「欲しくなくても、必要なものです。陛下、お口を開けていただけますか?」
その言葉に、ヴァレリウスだけでなく、後ろで見ていたゼフィールまでもが固まった。
皇帝に対して、これほどまでに事務的で、かつ物怖じしない人間は、この国に一人として存在しなかったからだ。
「……お前、本気か?」
ヴァレリウスが低く問いかける。
エリアンはこくりと頷き、真剣な眼差しで彼を見つめ返した。
「本気です。薬を無駄にするのは、一番の罪悪ですから」
一歩、また一歩。
熱風を切り裂き、エリアンは竜の王へと歩み寄る。
恋などまだ遠い。
ただ、この熱を少しでも取り去りたいという、職人としての意地だけがそこにあった。
窓という窓は分厚いカーテンで閉ざされ、空気は重く、そして何より熱い。エリアンは額に浮かぶ汗を袖で拭いながら、薄暗い廊下を奥へと進む。
手に持った木箱は、歩くたびにカタリと小さな音を立てた。
「……誰もいないのでしょうか」
声を出すと、高い天井に反響して頼りなく消えた。
この城には、主であるヴァレリウスの他に、最低限の従者しかいないと聞いている。
エリアンは鼻を利かせた。職業柄、嗅覚には自信がある。
焦げた石の匂い、古びた絨毯の埃、そして――わずかに漂う、水の気配。
「あっちですね」
迷いのない足取りで廊下を曲がり、重厚な扉を押し開ける。
そこは、広大な厨房だった。
床には煤が溜まり、並べられた銀の鍋は曇りきっている。何日も使われていないようだが、奥の蛇口からは透き通った水が滴り、石の受け皿を濡らしていた。
エリアンは真っ先にそこへ駆け寄り、両手で水を掬い上げる。
「冷たい……! 助かりました」
喉を鳴らして水を飲み干すと、生き返る心地がした。
この火山の麓でこれほど冷たい水が得られるのは、地脈の奥深くに氷の魔力が混じっているからだろうか。薬師としての好奇心が、ふつふつと湧き上がる。
「おや。そこで何をしているのかな、小さな花嫁さん」
背後からかけられた陽気な声に、エリアンは肩を跳ねさせた。
振り返ると、厨房の入り口に一人の男が立っている。
空色の軽やかな髪に、細められた琥珀色の瞳。ヴァレリウスとは対照的に、風のように涼しげな空気を纏った男だった。
「花嫁……、あ、はい。今日から参りました、エリアン・ジルベルです。水をいただいていました」
「君が例の『身代わり』君か。僕はゼフィール。この暑苦しい城で、陛下のお守りをしている側近だよ」
ゼフィールは軽薄そうな笑みを浮かべ、エリアンの手元にある木箱を覗き込んだ。
「喉が渇いたなら、侍女を呼べばよかったのに。わざわざこんな埃っぽい場所まで来るなんて、君は随分と活動的だね」
「待っている間に干からびてしまいそうでしたから。それより、ゼフィール様。この厨房、借りてもよろしいでしょうか」
「厨房を? 料理でも作るのかい?」
「いいえ、薬です。先ほどお見かけした陛下は、少し熱が上がりすぎているようでした。このままでは今夜にも寝込んでしまわれます」
エリアンの言葉に、ゼフィールの目がわずかに見開かれた。
彼は面白そうに顎を撫で、エリアンをまじまじと見つめる。
「陛下が『竜の熱』に苦しんでいるのは、この国では常識だよ。誰も治せないし、誰も触れられない。それを、薬草一つでどうにかしようっていうのかい?」
「完璧に治せるとは断言できません。ですが、今の苦痛を半分にすることならできます」
エリアンは木箱を開け、中から『月光苔(げっこうごけ)』の乾燥させたものを取り出した。
青白く光るそれは、熱を吸収し、放出する特性を持っている。
「へえ、それは珍しい。子爵家の落ちこぼれが持っているような代物じゃないね」
「拾い集めるのは得意なんです。ゼフィール様、火をいただけますか。この城のコンロは、どうやって点けるのでしょう」
ゼフィールは肩をすくめ、指先をパチンと鳴らした。
瞬時にコンロから青い魔力の火が立ち上がる。
「いいよ。面白いから見学させてもらう。もし陛下を怒らせたら、僕が君を逃がしてあげるから安心していい」
「お気遣いありがとうございます。ですが、逃げるのはお代をいただいてからにします」
エリアンは手際よく鍋に水を張り、苔を投入した。
シュンシュンと湯気が立ち上り、厨房に少しだけ爽やかな香りが広がる。
その間に、彼は腰を落として床の汚れを拭き取り始めた。
「……君、何をしてるの?」
「薬を作る場所が汚れているのは、薬師としての矜持に反します。掃除をしながら煮出しを待つのが、一番効率的ですから」
ゼフィールは呆れたように笑い、近くの椅子に腰掛けた。
エリアンは黙々と手を動かす。
実家では、これ以上の雑用を毎日こなしてきたのだ。重い荷物を運び、庭の隅々まで薬草を植え、誰も見向きもしない汚れた部屋を自分の城へと変えてきた。
それに比べれば、この広い厨房を自由に使える今の状況は、贅沢ですらある。
三十分も経つ頃には、鍋の中の液体は透き通った淡い青色に変わっていた。
エリアンはそれを丁寧に布で漉し、小瓶に移す。
「できました。これを冷やして、陛下に」
「陛下は気難しいよ。得体の知れない液体なんて、口にしないと思うけどね」
「その時は、私が先に毒見をします。……あ、でも、これ、すごく苦いんです」
エリアンが顔をしかめると、ゼフィールは大声を上げて笑った。
「ははっ! 面白いな、君。よし、僕が案内しよう。陛下は今、最上階の自室で『冷却石』に張り付いているはずだ」
エリアンは小瓶を大切に抱え、ゼフィールの後に続いた。
階段を上るたびに、空気の温度が上がっていく。
やがて辿り着いた巨大な扉の前で、ゼフィールが足を止めた。
「陛下、例の花嫁を連れてきました。お見舞いの品があるそうです」
室内から、苛立ちの混じった低い唸り声が聞こえた。
「……帰せと言ったはずだ。死にたいのか」
扉越しでも肌がピリピリとするような威圧感。
だが、エリアンの関心は別のところにあった。
「陛下。ジルベル家のエリアンです。お味の保証はできませんが、お体の熱を冷ますお飲み物を用意しました」
エリアンは扉に手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
そこには、シャツの胸元を大きくはだけ、荒い呼吸を繰り返すヴァレリウスの姿があった。
彼の周囲の空気は陽炎のように揺らぎ、床に敷かれた石は赤く熱を帯びている。
「持っていけ……。私は、何も欲しくない」
ヴァレリウスの瞳が、金色の炎を湛えてエリアンを射抜く。
しかしエリアンは、一歩も引かずに瓶を差し出した。
「欲しくなくても、必要なものです。陛下、お口を開けていただけますか?」
その言葉に、ヴァレリウスだけでなく、後ろで見ていたゼフィールまでもが固まった。
皇帝に対して、これほどまでに事務的で、かつ物怖じしない人間は、この国に一人として存在しなかったからだ。
「……お前、本気か?」
ヴァレリウスが低く問いかける。
エリアンはこくりと頷き、真剣な眼差しで彼を見つめ返した。
「本気です。薬を無駄にするのは、一番の罪悪ですから」
一歩、また一歩。
熱風を切り裂き、エリアンは竜の王へと歩み寄る。
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