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第三話
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部屋の奥へ進むほど、空気は密度を増していく。まるで沸騰した湯の中に飛び込んだような錯覚。エリアンの頬を伝う汗が、床に落ちる前に蒸発して消えた。
視界の先、巨大な寝台に腰掛けるヴァレリウスは、まさに荒ぶる火山の化身だった。
「来るなと言ったはずだ。死にたいのか、貴公は」
ヴァレリウスが吐き出す吐息すら、熱を帯びた暴力となってエリアンを打つ。
だが、エリアンは小瓶の蓋を指先で弾き飛ばすと、脇目も振らずに皇帝の喉元へ詰め寄った。
「死にたくないので、これを飲んでいただきたいのです。はい、あーん、してください」
その場に凍りついたのは、扉の陰で様子を伺っていた側近のゼフィールだ。
帝国全土を震え上がらせる竜帝に対し、雛鳥に餌をやるような口調で接する人間など、この世に存在するはずがなかった。
「……貴様、今、何と言った」
ヴァレリウスの瞳に、困惑の色が混じる。
怒りよりも先に、理解不能な事態への戸惑いが勝ったらしい。
「口を開けてください、と言いました。この『月光苔の雫』は、空気に触れるとすぐに効果が薄れてしまいます。さあ、早く」
エリアンはヴァレリウスの逞しい肩に手を置いた。
指先に伝わるのは、鋼のような筋肉の質感と、内側から爆ぜるような熱。火傷しそうな熱さだが、エリアンは眉一つ動かさない。
幼い頃から薬草園の過酷な環境で育ち、凍えるような冬も焼けるような夏も、植物たちの面倒を見てきた。彼にとって、この程度の熱は「管理すべき数値」に過ぎない。
ヴァレリウスは、目の前の小柄な青年が放つ奇妙な威圧感に押され、無意識に唇を割った。
エリアンはその隙を逃さず、青い液体を一気に流し込む。
「……ッ、ぐ、が!?」
ヴァレリウスの顔が、瞬時に苦悶に歪んだ。
彼は喉を押さえ、激しく咳き込む。
「……何だ、これは! 毒か!? 舌が、腐り落ちるかと思ったぞ!」
「あ、やっぱり苦いですよね。少し乾燥させすぎたかもしれません。でも、効果はてきめんですから」
エリアンは満足げに頷き、空になった瓶を懐にしまった。
数秒後、変化は劇的に訪れた。
ヴァレリウスの肌を覆っていた赤みが、潮が引くように収まっていく。
荒かった呼吸は次第に整い、部屋を満たしていた陽炎のような熱気が、霧が晴れるように霧散していった。
ヴァレリウス自身も、自分の胸元に手を当て、驚愕に目を見開いている。
「……熱が、引いていく。腹の底で暴れていた火が、眠りにつくようだ」
彼は信じられないといった様子で自分の掌を見つめた。
数十年、彼を苦しめ続けてきた「竜の呪い」。あらゆる高名な魔導師や医者が匙を投げたその苦痛が、たった一本の、しかも殺人的に苦い薬で鎮められたのだ。
「不思議な顔をされていますね。あなたのそれは、呪いではなく、単純なエネルギーのオーバーヒートです。出す場所がないから、内側に溜まって熱を出す。だから、一時的に循環を助けてあげればいいだけのことですよ」
エリアンは、まるで「お腹が空いたらご飯を食べる」程度の当たり前のことのように説明した。
ヴァレリウスは顔を上げ、改めて目の前の「花嫁」を直視する。
銀色の髪は汗で額に張り付き、若草色の瞳には、皇帝への畏怖など欠片も宿っていない。
「お前……。名前は」
「先ほども申し上げましたが、エリアンです」
「エリアン、か。ジルベル家には、お前のような魔導師がいたのか」
「魔導師ではありません。ただの薬師です。魔力もありませんし」
エリアンは部屋の隅に転がっていた水の入った水差しを手に取り、ヴァレリウスの傍らに置いた。
「水分も摂ってください。汗をかいた分、補給しないと倒れます。私はこれから、お借りした厨房の掃除に戻りますので」
丁寧にお辞儀をすると、エリアンはさっさと部屋を後にしようとした。
その背中に、ヴァレリウスの低い声が追いかける。
「待て。誰が行っていいと言った」
「えっ、まだ何か御用ですか? 安静にするのが一番の薬ですよ」
振り向いたエリアンの、心の底から面倒くさそうな表情。
ヴァレリウスは言葉を詰まらせた。
天下の皇帝をこれほど無下に扱う人間など、かつていただろうか。
「……いや、もうよい。下がれ」
「はい。では、失礼します」
パタン、と扉が閉まる。
静寂が戻った室内で、ヴァレリウスは自分の胸に手を当てた。
熱が引いたあとの体は、驚くほど軽い。
そして、鼻の奥には、先ほどの青年が纏っていた微かなハーブの香りが残っていた。
「陛下。……これは、面白いことになりましたね」
影から現れたゼフィールが、肩を揺らして笑っている。
ヴァレリウスは不機嫌そうに顔を背けたが、その耳たぶが、薬の苦味のせいか、あるいは別の理由か、わずかに赤くなっているのをゼフィールは見逃さなかった。
一方、エリアンは鼻歌混じりに廊下を歩いていた。
「よし。これで一応の信頼は勝ち取ったかな。次は、あの厨房の煤を落とすための洗剤を作らないと」
恋の火種が蒔かれたことなど微塵も気づかず、エリアンの頭の中は、今夜の掃除計画でいっぱいだった。
視界の先、巨大な寝台に腰掛けるヴァレリウスは、まさに荒ぶる火山の化身だった。
「来るなと言ったはずだ。死にたいのか、貴公は」
ヴァレリウスが吐き出す吐息すら、熱を帯びた暴力となってエリアンを打つ。
だが、エリアンは小瓶の蓋を指先で弾き飛ばすと、脇目も振らずに皇帝の喉元へ詰め寄った。
「死にたくないので、これを飲んでいただきたいのです。はい、あーん、してください」
その場に凍りついたのは、扉の陰で様子を伺っていた側近のゼフィールだ。
帝国全土を震え上がらせる竜帝に対し、雛鳥に餌をやるような口調で接する人間など、この世に存在するはずがなかった。
「……貴様、今、何と言った」
ヴァレリウスの瞳に、困惑の色が混じる。
怒りよりも先に、理解不能な事態への戸惑いが勝ったらしい。
「口を開けてください、と言いました。この『月光苔の雫』は、空気に触れるとすぐに効果が薄れてしまいます。さあ、早く」
エリアンはヴァレリウスの逞しい肩に手を置いた。
指先に伝わるのは、鋼のような筋肉の質感と、内側から爆ぜるような熱。火傷しそうな熱さだが、エリアンは眉一つ動かさない。
幼い頃から薬草園の過酷な環境で育ち、凍えるような冬も焼けるような夏も、植物たちの面倒を見てきた。彼にとって、この程度の熱は「管理すべき数値」に過ぎない。
ヴァレリウスは、目の前の小柄な青年が放つ奇妙な威圧感に押され、無意識に唇を割った。
エリアンはその隙を逃さず、青い液体を一気に流し込む。
「……ッ、ぐ、が!?」
ヴァレリウスの顔が、瞬時に苦悶に歪んだ。
彼は喉を押さえ、激しく咳き込む。
「……何だ、これは! 毒か!? 舌が、腐り落ちるかと思ったぞ!」
「あ、やっぱり苦いですよね。少し乾燥させすぎたかもしれません。でも、効果はてきめんですから」
エリアンは満足げに頷き、空になった瓶を懐にしまった。
数秒後、変化は劇的に訪れた。
ヴァレリウスの肌を覆っていた赤みが、潮が引くように収まっていく。
荒かった呼吸は次第に整い、部屋を満たしていた陽炎のような熱気が、霧が晴れるように霧散していった。
ヴァレリウス自身も、自分の胸元に手を当て、驚愕に目を見開いている。
「……熱が、引いていく。腹の底で暴れていた火が、眠りにつくようだ」
彼は信じられないといった様子で自分の掌を見つめた。
数十年、彼を苦しめ続けてきた「竜の呪い」。あらゆる高名な魔導師や医者が匙を投げたその苦痛が、たった一本の、しかも殺人的に苦い薬で鎮められたのだ。
「不思議な顔をされていますね。あなたのそれは、呪いではなく、単純なエネルギーのオーバーヒートです。出す場所がないから、内側に溜まって熱を出す。だから、一時的に循環を助けてあげればいいだけのことですよ」
エリアンは、まるで「お腹が空いたらご飯を食べる」程度の当たり前のことのように説明した。
ヴァレリウスは顔を上げ、改めて目の前の「花嫁」を直視する。
銀色の髪は汗で額に張り付き、若草色の瞳には、皇帝への畏怖など欠片も宿っていない。
「お前……。名前は」
「先ほども申し上げましたが、エリアンです」
「エリアン、か。ジルベル家には、お前のような魔導師がいたのか」
「魔導師ではありません。ただの薬師です。魔力もありませんし」
エリアンは部屋の隅に転がっていた水の入った水差しを手に取り、ヴァレリウスの傍らに置いた。
「水分も摂ってください。汗をかいた分、補給しないと倒れます。私はこれから、お借りした厨房の掃除に戻りますので」
丁寧にお辞儀をすると、エリアンはさっさと部屋を後にしようとした。
その背中に、ヴァレリウスの低い声が追いかける。
「待て。誰が行っていいと言った」
「えっ、まだ何か御用ですか? 安静にするのが一番の薬ですよ」
振り向いたエリアンの、心の底から面倒くさそうな表情。
ヴァレリウスは言葉を詰まらせた。
天下の皇帝をこれほど無下に扱う人間など、かつていただろうか。
「……いや、もうよい。下がれ」
「はい。では、失礼します」
パタン、と扉が閉まる。
静寂が戻った室内で、ヴァレリウスは自分の胸に手を当てた。
熱が引いたあとの体は、驚くほど軽い。
そして、鼻の奥には、先ほどの青年が纏っていた微かなハーブの香りが残っていた。
「陛下。……これは、面白いことになりましたね」
影から現れたゼフィールが、肩を揺らして笑っている。
ヴァレリウスは不機嫌そうに顔を背けたが、その耳たぶが、薬の苦味のせいか、あるいは別の理由か、わずかに赤くなっているのをゼフィールは見逃さなかった。
一方、エリアンは鼻歌混じりに廊下を歩いていた。
「よし。これで一応の信頼は勝ち取ったかな。次は、あの厨房の煤を落とすための洗剤を作らないと」
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