竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜

レイ

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第五話

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 中庭の開墾を始めて三日。エリアンの爪の間にはすっかり泥が入り込み、銀色の髪も毛先に土埃が混じっている。だが、その表情は充実感に満ちていた。
 黒い灰を掘り返し、ゼフィールに手配してもらった石灰と堆肥を混ぜ込む。火山の熱を蓄えた土壌は温床のように暖かく、適切な処置さえすれば植物の成長は驚くほど早いはずだ。

「……そこの貴方。いつまでそんな泥遊びを続けるつもりですか」

 背筋を凍らせるような、冷徹で鋭い声。
 エリアンが振り向くと、そこには灰色の髪を隙なく結い上げ、一点の曇りもない黒のドレスを纏った女性が立っていた。
 手には純白のハンカチーフと、この城の管理を一手に引き受けていることを象徴する重厚な鍵束。彼女こそが、黒鱗宮の侍女長、マリスであった。

「あ、マリス様。おはようございます。泥遊びではなく、土壌改良です」

 エリアンは立ち上がり、膝についた土を軽く叩いた。
 マリスの視線は、エリアンの汚れた手から、無惨に掘り返されたかつての美しい(と言っても灰に埋もれていたが)庭へと向けられる。彼女の眉間には、深い溝が刻まれていた。

「陛下から許可を得たと聞き及びましたが、限度というものがあります。ジルベル子爵家の令息ともあろう方が、下男のような真似を……。城の品位に関わります」
「品位も大切ですが、まずは健康ですよ。マリス様も、この暑さで夜は寝付けないのではないですか? 目元に少し隈が出ています」

 図星を突かれたマリスが、わずかに言葉を詰まらせた。
 この城の人間は皆、ヴァレリウスが放つ熱気に耐えながら生活している。特に夜間は、石造りの壁が蓄えた熱が放射され、寝室はサウナのような過酷な環境になるのだ。

「それは……我ら従者の務めです。陛下の苦しみに比べれば、些細なこと」
「些細ではありません。マリス様が倒れたら、この城の運営は止まってしまいます。……少し、お時間をいただけますか?」

 エリアンはそう言うと、中庭の隅に置いていたバケツから、水に浸しておいた長い布を取り出した。
 それは、彼が厨房で見つけた古びたリネンを細長く裂いたものだ。布には、彼が朝一番で抽出した「薄荷草(はっかそう)」と「氷晶石」の粉末が染み込ませてある。

「失礼します」

 エリアンは躊躇うマリスの元へ歩み寄ると、その布を彼女の手首にくるりと巻き付けた。

「なっ、何を……っ」
「動かないでください。すぐに分かりますから」

 マリスが拒絶しようとした瞬間、彼女の表情が劇的に変わった。
 手首の血管を通じて、染み渡るような冷気が全身を駆け抜ける。ただの冷たい水ではない。薄荷の成分が神経を鎮め、氷晶石の魔力が周囲の熱を吸い取っていく。

「……涼しい。いえ、これは……痛みが引くようですわ」
「腱鞘炎ですね。鍵束の重みと、日々の激務で手首が炎症を起こしています。冷やすのが一番ですよ」

 エリアンはマリスの驚きを余所に、今度は中庭から摘んできたばかりの、唯一自生していた「岩陰草」の葉を差し出した。

「これを口に含んでみてください。少し酸っぱいですが、唾液が出て喉の渇きを癒してくれます。火山の空気は乾燥していますから」

 マリスは、魔法にでもかけられたかのように、エリアンの差し出した葉を口にした。
 口内に広がる瑞々しい酸味。それと同時に、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていくのを感じた。
 彼女はこの城に来てから二十年、一度として「他人に労わられる」という経験をしてこなかった。ましてや、生贄同然でやってきた身代わりの花嫁に、自分の方が救われるなど。

「……エリアン様」
「はい」
「……失礼をいたしました。貴方は、ただの変わり者ではあられないようですわね」

 マリスは深く頭を下げた。その動作には、先ほどまでの義務的な礼ではなく、確かな敬意が込められていた。

「厨房の裏に、かつて使われていた薬草用の乾燥室がございます。埃を被っておりますが、自由にお使いください。清掃の者は、私が手配いたします」
「本当ですか! ありがとうございます、マリス様。助かります」

 エリアンの弾けるような笑顔を見て、マリスの唇の端が、ほんのわずかに綻んだ。

---

 その日の夕暮れ。
 執務を終えたヴァレリウスは、廊下の窓から中庭を見下ろしていた。
 黒い大地に、点々と並ぶ小さな緑の芽。
 そして、その傍らでマリスと親しげに話し込みながら、夕食の献立について相談しているエリアンの姿。

「……マリスがあんな風に笑うのを、最後にあいつを見たのはいつだったか」

 背後に控えていたゼフィールが、面白そうに肩をすくめる。

「さあ。記憶にないですね。でも、エリアン君は魔法使いですよ、陛下。魔力はないくせに、人の心を解かす妙な呪いを持っている」
「……ふん」

 ヴァレリウスは不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、その視線はエリアンから離れなかった。
 エリアンがふと顔を上げ、窓辺に立つヴァレリウスに気づく。
 彼は大きく手を振り、持っていたスコップを掲げて見せた。
 
 ――早く戻って、薬を飲んでくださいね。

 声は聞こえなかったが、その口の動きでヴァレリウスには分かった。
 昨日のあの、喉が焼けるような苦い液体。
 思い出しただけで顔が歪む。だが、不思議と不快ではなかった。
 あの苦味のあとに訪れる、静かな夜。
 
「……ゼフィール。今夜の夕食は、食堂で摂る」
「おや、珍しい。いつもは部屋に籠もるのに」
「……ただの気分転換だ。それと、あの男がまた変な草を混ぜていないか監視せねばならんからな」

 早足で廊下を去っていくヴァレリウスの背中を見送りながら、ゼフィールは深く、深い溜息をついた。

「監視、ねえ……。お熱いことで」

 竜の王の城に、初めて「誰かと食事を囲む」という、人間らしい温もりが灯ろうとしていた。
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