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第六話
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石造りの大食堂は、無駄に広かった。
天井には煤けたシャンデリアが揺れ、長いテーブルの両端に、皇帝と「花嫁」が向き合って座っている。その距離は、大声を出さなければ会話もままならないほど離れていた。
エリアンは、マリスが用意してくれた清潔な生成りのシャツに袖を通し、丁寧に髪を梳かした。爪の間の泥も、石鹸で念入りに落としてある。
鏡に映った自分の姿は、ジルベル家で「無能の身代わり」と呼ばれていた頃より、ずっと顔色が良かった。
「……お待たせしました、陛下」
エリアンが席に着くと、待ち構えていたかのように給仕たちが動き出す。
運ばれてきたのは、厚切りのローストビーフに、濃厚なクリームソースがかかった煮込み料理。そして、どっしりと重い黒パンだ。
ヴァレリウスは無言でナイフを動かしていた。
彼が動くたびに、周囲の空気がじりじりと熱を帯びる。その熱気に当てられ、エリアンの額には早くも薄い汗が滲み始めた。
「陛下」
「……何だ」
ヴァレリウスの手が止まる。その黄金の瞳が、エリアンを真っ向から捉えた。
昨夜、薬を飲ませた時よりも、その視線はどこか落ち着かないように揺れている。
「このお料理、とても美味しそうなのですが……この暑さでこれを完食するのは、少し胃に負担が大きすぎませんか?」
エリアンの指摘に、料理を運んでいたシェフのベルナルドがぎくりと肩を揺らした。
ヴァレリウスは不機嫌そうに眉を寄せる。
「……私はいつもこれを食べている。竜の血を維持するには、肉のエネルギーが必要だ」
「それは理解できます。ですが、熱を逃がすためのビタミンと水分が圧倒的に足りていません。これでは体内に熱が籠もる一方です」
エリアンはそう言うと、手元に置いていたガラスのデキャンタをそっと持ち上げた。
中には透明な水と、彼が先ほど中庭の端で摘んできた「レモンバーム」に似た香草、そして薄く切った野生の柑橘が沈んでいる。
「これ、私が中庭で見つけたハーブで作った水です。毒見はもう済んでいます。陛下、一口いかがですか?」
ヴァレリウスは怪訝そうな顔を隠そうともしなかった。
昨日のあの、悶絶するような苦い薬の記憶が鮮明なのだろう。彼は目に見えて警戒の姿勢を取った。
「……昨日のような味がするなら、断る」
「ふふ、今日は苦くありませんよ。保証します」
エリアンは立ち上がり、ヴァレリウスの席まで歩み寄った。
一歩近づくごとに、ヴァレリウスが放つ強烈な体温が肌を焼く。まるで大型の暖房器具に近づいているような感覚だ。
エリアンは躊躇わずにヴァレリウスのグラスへハーブ水を注ぎ、それを彼の手元に置いた。
ヴァレリウスは渋々とグラスを手に取り、恐る恐る口をつける。
次の瞬間、彼の喉が大きく動いた。
「……ほう」
爽やかな香りが鼻腔を抜け、柑橘の微かな酸味が口内の脂っぽさを洗い流していく。
それだけではない。喉を通った後に、胃の腑がすうっと涼しくなるような不思議な感覚。
「冷たい。……氷が入っているわけでもないのに、なぜだ」
「青氷草(せいひょうそう)の根を少しだけ混ぜました。冷感を与える成分が含まれているんです。これなら、お肉の消化も助けてくれますよ」
エリアンが満足げに微笑むと、ヴァレリウスはもう一口、今度は勢いよく水を飲み干した。
彼がグラスを置いた時、その表情から刺々しさが消えていた。
「……エリアン」
「はい、陛下」
「お前の手……」
ヴァレリウスが、エリアンの指先に視線を落とした。
丁寧に洗ったとはいえ、連日の開墾作業で、エリアンの指先は赤く擦れ、小さな切り傷がいくつも作られている。貴族の令息のそれとは程遠い、労働者の手だ。
ヴァレリウスは不意に椅子から立ち上がると、エリアンの手を無造作に掴み上げた。
「ひゃ……っ!」
エリアンは思わず短い声を上げた。
掴まれた手首から、火傷しそうなほどの熱が流れ込んでくる。だが、その握り方は驚くほど慎重で、壊れ物を扱うかのような柔らかさがあった。
ヴァレリウスの大きな指が、エリアンの小さな傷跡をそっとなぞる。
「……なぜ、そこまでして土をいじる。お前は私の『伴侶』としてここに来た。そんな傷を作る必要はない」
「陛下、私はこの手で何かを作り出すのが好きなんです。傷なんて、すぐに治る薬を作れば済む話ですから」
エリアンは困ったように笑い、少しだけ首を傾げた。
ヴァレリウスの至近距離にあるその瞳は、若草のように澄んでいて、下心も恐怖も一切見当たらない。
ヴァレリウスは数秒間、エリアンの手を見つめていたが、やがて突き放すようにその手を離した。
「……勝手にしろ。だが、あまり深追いはするな。この城の地脈は、お前のような人間には毒だ」
「ご心配ありがとうございます。毒なら毒で、対抗する薬を考えるだけですので」
エリアンはケロリとした顔で自分の席に戻り、肉料理にナイフを入れた。
ハーブ水のおかげで、重たいクリームソースも驚くほどスムーズに胃に収まっていく。
ヴァレリウスは再び席に着き、黙々と食事を再開した。
しかし、その視線は何度もエリアンの動かす指先へと向けられる。
静寂に包まれた食堂。
ナイフとフォークが皿に当たる音だけが規則正しく響く。
以前のような窒息しそうな重苦しさはない。
窓の外では、エリアンが植えた苗が、夜の火山の熱を吸収して静かに芽吹こうとしていた。
二人の距離もまた、土の下で根を伸ばす植物のように、ゆっくりと、けれど確実に変化し始めていた。
「……陛下、明日は図書室へ伺ってもよろしいですか?」
「……許可する。ゼフィールに案内させろ」
「ありがとうございます。楽しみです!」
嬉しそうに声を弾ませるエリアンを見て、ヴァレリウスは誰にも悟られぬよう、小さく息を吐いた。
胃の重みが消えたせいか、今夜はいつもより、竜の血が静かだった。
天井には煤けたシャンデリアが揺れ、長いテーブルの両端に、皇帝と「花嫁」が向き合って座っている。その距離は、大声を出さなければ会話もままならないほど離れていた。
エリアンは、マリスが用意してくれた清潔な生成りのシャツに袖を通し、丁寧に髪を梳かした。爪の間の泥も、石鹸で念入りに落としてある。
鏡に映った自分の姿は、ジルベル家で「無能の身代わり」と呼ばれていた頃より、ずっと顔色が良かった。
「……お待たせしました、陛下」
エリアンが席に着くと、待ち構えていたかのように給仕たちが動き出す。
運ばれてきたのは、厚切りのローストビーフに、濃厚なクリームソースがかかった煮込み料理。そして、どっしりと重い黒パンだ。
ヴァレリウスは無言でナイフを動かしていた。
彼が動くたびに、周囲の空気がじりじりと熱を帯びる。その熱気に当てられ、エリアンの額には早くも薄い汗が滲み始めた。
「陛下」
「……何だ」
ヴァレリウスの手が止まる。その黄金の瞳が、エリアンを真っ向から捉えた。
昨夜、薬を飲ませた時よりも、その視線はどこか落ち着かないように揺れている。
「このお料理、とても美味しそうなのですが……この暑さでこれを完食するのは、少し胃に負担が大きすぎませんか?」
エリアンの指摘に、料理を運んでいたシェフのベルナルドがぎくりと肩を揺らした。
ヴァレリウスは不機嫌そうに眉を寄せる。
「……私はいつもこれを食べている。竜の血を維持するには、肉のエネルギーが必要だ」
「それは理解できます。ですが、熱を逃がすためのビタミンと水分が圧倒的に足りていません。これでは体内に熱が籠もる一方です」
エリアンはそう言うと、手元に置いていたガラスのデキャンタをそっと持ち上げた。
中には透明な水と、彼が先ほど中庭の端で摘んできた「レモンバーム」に似た香草、そして薄く切った野生の柑橘が沈んでいる。
「これ、私が中庭で見つけたハーブで作った水です。毒見はもう済んでいます。陛下、一口いかがですか?」
ヴァレリウスは怪訝そうな顔を隠そうともしなかった。
昨日のあの、悶絶するような苦い薬の記憶が鮮明なのだろう。彼は目に見えて警戒の姿勢を取った。
「……昨日のような味がするなら、断る」
「ふふ、今日は苦くありませんよ。保証します」
エリアンは立ち上がり、ヴァレリウスの席まで歩み寄った。
一歩近づくごとに、ヴァレリウスが放つ強烈な体温が肌を焼く。まるで大型の暖房器具に近づいているような感覚だ。
エリアンは躊躇わずにヴァレリウスのグラスへハーブ水を注ぎ、それを彼の手元に置いた。
ヴァレリウスは渋々とグラスを手に取り、恐る恐る口をつける。
次の瞬間、彼の喉が大きく動いた。
「……ほう」
爽やかな香りが鼻腔を抜け、柑橘の微かな酸味が口内の脂っぽさを洗い流していく。
それだけではない。喉を通った後に、胃の腑がすうっと涼しくなるような不思議な感覚。
「冷たい。……氷が入っているわけでもないのに、なぜだ」
「青氷草(せいひょうそう)の根を少しだけ混ぜました。冷感を与える成分が含まれているんです。これなら、お肉の消化も助けてくれますよ」
エリアンが満足げに微笑むと、ヴァレリウスはもう一口、今度は勢いよく水を飲み干した。
彼がグラスを置いた時、その表情から刺々しさが消えていた。
「……エリアン」
「はい、陛下」
「お前の手……」
ヴァレリウスが、エリアンの指先に視線を落とした。
丁寧に洗ったとはいえ、連日の開墾作業で、エリアンの指先は赤く擦れ、小さな切り傷がいくつも作られている。貴族の令息のそれとは程遠い、労働者の手だ。
ヴァレリウスは不意に椅子から立ち上がると、エリアンの手を無造作に掴み上げた。
「ひゃ……っ!」
エリアンは思わず短い声を上げた。
掴まれた手首から、火傷しそうなほどの熱が流れ込んでくる。だが、その握り方は驚くほど慎重で、壊れ物を扱うかのような柔らかさがあった。
ヴァレリウスの大きな指が、エリアンの小さな傷跡をそっとなぞる。
「……なぜ、そこまでして土をいじる。お前は私の『伴侶』としてここに来た。そんな傷を作る必要はない」
「陛下、私はこの手で何かを作り出すのが好きなんです。傷なんて、すぐに治る薬を作れば済む話ですから」
エリアンは困ったように笑い、少しだけ首を傾げた。
ヴァレリウスの至近距離にあるその瞳は、若草のように澄んでいて、下心も恐怖も一切見当たらない。
ヴァレリウスは数秒間、エリアンの手を見つめていたが、やがて突き放すようにその手を離した。
「……勝手にしろ。だが、あまり深追いはするな。この城の地脈は、お前のような人間には毒だ」
「ご心配ありがとうございます。毒なら毒で、対抗する薬を考えるだけですので」
エリアンはケロリとした顔で自分の席に戻り、肉料理にナイフを入れた。
ハーブ水のおかげで、重たいクリームソースも驚くほどスムーズに胃に収まっていく。
ヴァレリウスは再び席に着き、黙々と食事を再開した。
しかし、その視線は何度もエリアンの動かす指先へと向けられる。
静寂に包まれた食堂。
ナイフとフォークが皿に当たる音だけが規則正しく響く。
以前のような窒息しそうな重苦しさはない。
窓の外では、エリアンが植えた苗が、夜の火山の熱を吸収して静かに芽吹こうとしていた。
二人の距離もまた、土の下で根を伸ばす植物のように、ゆっくりと、けれど確実に変化し始めていた。
「……陛下、明日は図書室へ伺ってもよろしいですか?」
「……許可する。ゼフィールに案内させろ」
「ありがとうございます。楽しみです!」
嬉しそうに声を弾ませるエリアンを見て、ヴァレリウスは誰にも悟られぬよう、小さく息を吐いた。
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