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第二十三話
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温室の再生を終えたその夜。エリアンは大切そうに小さな鉢植えを抱え、薄暗い廊下を歩いていた。
中に入っているのは、温室の最奥で息を吹き返した『金焔の硝子薔薇』から、特別に一枝だけ株分けしたものだ。
この薔薇は、周囲の過剰な魔熱を吸い取って穏やかな光に変える性質がある。ヴァレリウスの寝室に置けば、夜間の熱暴走をさらに和らげ、彼の眠りを守ってくれるはずだった。
――コンコン。
ノックをすると、中から「入れ」という短い、けれどどこか弾んだ声が聞こえた。
扉を開けると、そこには既に寝支度を終えたヴァレリウスが、大きな椅子に深く腰掛けていた。手には古い書物を持っているが、その視線はページを追っているようには見えない。エリアンが入室した瞬間に、その黄金の瞳がスッと細められた。
「夜分に失礼します、陛下。……これを、お持ちしました」
エリアンが鉢植えをサイドテーブルに置くと、暗い室内にポッと、柔らかな緋色の光が灯った。
まるで小さな焚き火が部屋に現れたような、見ているだけで心が温まるような輝きだ。
「……硝子薔薇か。わざわざ持ってきたのか」
「はい。陛下、今朝の目覚めが良かったとおっしゃっていましたから。この子が枕元にあれば、私の三倍の水にも劣らない効果があるはずですよ」
エリアンが誇らしげに胸を張ると、ヴァレリウスは「ふん」と鼻を鳴らした。
けれど、その視線は薔薇の蕾を慈しむように見つめている。
「……私の部屋に花など、似合わん。ここはただ、竜の熱を抑え込むための石の檻だ」
「檻だなんて、寂しいことを言わないでください。陛下がここでゆっくり休めるからこそ、明日の朝もあの中庭を一緒に歩けるんです。ここは、陛下の『充電場所』なんですから」
エリアンは手慣れた手つきで、薔薇の土の湿り気を確かめた。
ヴァレリウスの熱が伝わってくる。以前のような、肌を焼くような暴力的な熱ではなく、どこか心地よい、大きな生き物の体温。
エリアンが作業を終えて顔を上げると、至近距離でヴァレリウスの瞳とぶつかった。
いつもは鋼のように冷徹なその瞳に、今は説明のつかない揺らぎが浮かんでいる。
ヴァレリウスはゆっくりと手を伸ばすと、エリアンの銀色の髪にそっと指を通した。
「……エリアン。お前は、本当に帰る気がないのだな」
「帰る? どこへですか?」
本気で心当たりがない、という顔のエリアン。
ヴァレリウスは呆れたように吐息を漏らし、エリアンを自分の方へと少しだけ引き寄せた。
「ジルベル家だ。あそこがお前の『家』だったはずだろう。……私への身代わりの役目が終われば、あそこへ戻る権利を主張することもできたはずだ」
「あんな湿気た屋根裏部屋、お断りですよ。あそこには、私の植えた草も、私を必要としてくれる陛下もいませんから」
あまりにも真っ直ぐな言葉。
エリアンの若草色の瞳には、一点の曇りもなかった。
彼は「薬師として必要とされていること」と「ここに自分の場所があること」を、何よりも大切にしていた。
ヴァレリウスの胸の奥で、何かがカチリとはまったような音がした。
彼はエリアンの手首を優しく、けれど逃がさないように掴んだ。
「……そうか。ならば、もう帰さんぞ。……この城がお前の庭だ。そして、私はお前の、何だ……? 専用の熱源、だったか」
「ふふ、一番お世話が大変な、最高級の熱源様ですね」
エリアンは笑いながら、ヴァレリウスの大きな手に自分の手を重ねた。
――トクン、トクン。
重なった手のひらから、ヴァレリウスの力強い心音が伝わってくる。
今夜の寝室は、これまでのどの夜よりも涼やかだった。
それはサイドテーブルで輝く硝子薔薇のせいだけではない。
お互いの存在を「当然」のものとして受け入れた二人の間に、凪のような静寂が訪れていたからだ。
「陛下。……髪、また少し伸びましたね。明日の朝、庭へ行く前に整えてあげましょうか?」
「……お前に任せる。……だが、変な草の汁を塗りたくるのは、ほどほどにしておけ」
「失礼ですね。あれは最高級のツヤ出しオイルなんですから!」
エリアンのむくれた顔を見て、ヴァレリウスはついに短く吹き出した。
天下の皇帝が、一人の薬師の小言に笑わされる。
その光景を、マリスが見ていれば涙を流して喜んだことだろう。
「……寝るぞ、エリアン。明日は、温室の奥にある池に新しい魚を放すと、カイルが張り切っていた」
「えっ、魚ですか! それは楽しみです。地熱で育つ魚なんて、どんな味が……じゃなくて、どんな生態をしているんでしょう!」
「……食うなよ。絶対に食うなよ」
ヴァレリウスに釘を刺されながら、エリアンは嬉しそうに頷いた。
部屋の明かりを落とすと、硝子薔薇の緋色の光が、壁に二人の重なる影を映し出した。
竜の呪いは、まだ完全には解けていない。
けれど、エリアンという「調律師」が隣にいる限り、その呪いすらも、二人を温める暖炉の火に過ぎなかった。
明日も、その次も。
火山の城には、新しい草の芽吹きと、不器用な二人の笑い声が響き続ける。
エリアンはヴァレリウスの寝顔を見届けながら、そっと彼の布団を直した。
指先に触れる熱。
それは、エリアンがこの世界で一番大切に育て上げたい、「命」の温度だった。
「おやすみなさい、私の陛下」
窓の外では、静かに雪が降り始めていた。
火山の熱で、地上に届く前に消えてしまう、儚い冬の訪れ。
けれど、この部屋の中だけは、永遠に春が続くかのような穏やかさに満ちていた。
中に入っているのは、温室の最奥で息を吹き返した『金焔の硝子薔薇』から、特別に一枝だけ株分けしたものだ。
この薔薇は、周囲の過剰な魔熱を吸い取って穏やかな光に変える性質がある。ヴァレリウスの寝室に置けば、夜間の熱暴走をさらに和らげ、彼の眠りを守ってくれるはずだった。
――コンコン。
ノックをすると、中から「入れ」という短い、けれどどこか弾んだ声が聞こえた。
扉を開けると、そこには既に寝支度を終えたヴァレリウスが、大きな椅子に深く腰掛けていた。手には古い書物を持っているが、その視線はページを追っているようには見えない。エリアンが入室した瞬間に、その黄金の瞳がスッと細められた。
「夜分に失礼します、陛下。……これを、お持ちしました」
エリアンが鉢植えをサイドテーブルに置くと、暗い室内にポッと、柔らかな緋色の光が灯った。
まるで小さな焚き火が部屋に現れたような、見ているだけで心が温まるような輝きだ。
「……硝子薔薇か。わざわざ持ってきたのか」
「はい。陛下、今朝の目覚めが良かったとおっしゃっていましたから。この子が枕元にあれば、私の三倍の水にも劣らない効果があるはずですよ」
エリアンが誇らしげに胸を張ると、ヴァレリウスは「ふん」と鼻を鳴らした。
けれど、その視線は薔薇の蕾を慈しむように見つめている。
「……私の部屋に花など、似合わん。ここはただ、竜の熱を抑え込むための石の檻だ」
「檻だなんて、寂しいことを言わないでください。陛下がここでゆっくり休めるからこそ、明日の朝もあの中庭を一緒に歩けるんです。ここは、陛下の『充電場所』なんですから」
エリアンは手慣れた手つきで、薔薇の土の湿り気を確かめた。
ヴァレリウスの熱が伝わってくる。以前のような、肌を焼くような暴力的な熱ではなく、どこか心地よい、大きな生き物の体温。
エリアンが作業を終えて顔を上げると、至近距離でヴァレリウスの瞳とぶつかった。
いつもは鋼のように冷徹なその瞳に、今は説明のつかない揺らぎが浮かんでいる。
ヴァレリウスはゆっくりと手を伸ばすと、エリアンの銀色の髪にそっと指を通した。
「……エリアン。お前は、本当に帰る気がないのだな」
「帰る? どこへですか?」
本気で心当たりがない、という顔のエリアン。
ヴァレリウスは呆れたように吐息を漏らし、エリアンを自分の方へと少しだけ引き寄せた。
「ジルベル家だ。あそこがお前の『家』だったはずだろう。……私への身代わりの役目が終われば、あそこへ戻る権利を主張することもできたはずだ」
「あんな湿気た屋根裏部屋、お断りですよ。あそこには、私の植えた草も、私を必要としてくれる陛下もいませんから」
あまりにも真っ直ぐな言葉。
エリアンの若草色の瞳には、一点の曇りもなかった。
彼は「薬師として必要とされていること」と「ここに自分の場所があること」を、何よりも大切にしていた。
ヴァレリウスの胸の奥で、何かがカチリとはまったような音がした。
彼はエリアンの手首を優しく、けれど逃がさないように掴んだ。
「……そうか。ならば、もう帰さんぞ。……この城がお前の庭だ。そして、私はお前の、何だ……? 専用の熱源、だったか」
「ふふ、一番お世話が大変な、最高級の熱源様ですね」
エリアンは笑いながら、ヴァレリウスの大きな手に自分の手を重ねた。
――トクン、トクン。
重なった手のひらから、ヴァレリウスの力強い心音が伝わってくる。
今夜の寝室は、これまでのどの夜よりも涼やかだった。
それはサイドテーブルで輝く硝子薔薇のせいだけではない。
お互いの存在を「当然」のものとして受け入れた二人の間に、凪のような静寂が訪れていたからだ。
「陛下。……髪、また少し伸びましたね。明日の朝、庭へ行く前に整えてあげましょうか?」
「……お前に任せる。……だが、変な草の汁を塗りたくるのは、ほどほどにしておけ」
「失礼ですね。あれは最高級のツヤ出しオイルなんですから!」
エリアンのむくれた顔を見て、ヴァレリウスはついに短く吹き出した。
天下の皇帝が、一人の薬師の小言に笑わされる。
その光景を、マリスが見ていれば涙を流して喜んだことだろう。
「……寝るぞ、エリアン。明日は、温室の奥にある池に新しい魚を放すと、カイルが張り切っていた」
「えっ、魚ですか! それは楽しみです。地熱で育つ魚なんて、どんな味が……じゃなくて、どんな生態をしているんでしょう!」
「……食うなよ。絶対に食うなよ」
ヴァレリウスに釘を刺されながら、エリアンは嬉しそうに頷いた。
部屋の明かりを落とすと、硝子薔薇の緋色の光が、壁に二人の重なる影を映し出した。
竜の呪いは、まだ完全には解けていない。
けれど、エリアンという「調律師」が隣にいる限り、その呪いすらも、二人を温める暖炉の火に過ぎなかった。
明日も、その次も。
火山の城には、新しい草の芽吹きと、不器用な二人の笑い声が響き続ける。
エリアンはヴァレリウスの寝顔を見届けながら、そっと彼の布団を直した。
指先に触れる熱。
それは、エリアンがこの世界で一番大切に育て上げたい、「命」の温度だった。
「おやすみなさい、私の陛下」
窓の外では、静かに雪が降り始めていた。
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