竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜

レイ

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第二十四話

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 温室の最奥、かつてはヘドロに塗れていた円形の池は、今や透き通ったコバルトブルーの輝きを取り戻していた。
 水面からは白く細い湯気が立ち上り、周囲に植えられた苔の深緑をいっそう鮮やかに際立たせている。エリアンは池の縁にしゃがみ込み、自作の温度計を水に浸した。

「……よし。四十二度。まさに『陽炎錦(かげろうにしき)』には最高の環境ですね」

 エリアンが満足げに頷くと、背後で大きな影が揺れた。
 わざわざ執務室から抜け出してきた――本人は「視察」だと言い張っているが――ヴァレリウスが、腕を組んで池を見下ろしている。その隣では、カイルが大きな水槽を台車に乗せて、生まれたての小鹿のように震えながら待機していた。

「陛下、エリアン様! 連れてきました! 城下町の老舗魚屋、ベランさんが特別に分けてくれた熱帯魚です!」

 カイルが指差す水槽の中には、燃えるような緋色と、白銀の斑点を持つ美しい魚たちが群れをなして泳いでいた。
 この『陽炎錦』は、火山の熱を食べて生きるという、この地方にしか存在しない特殊な観賞魚だ。彼らが泳ぐことで水中の魔力が循環し、周囲の薬草の成長をさらに助けるという。

「……派手な魚だな。お前の銀髪を水の中に放り込んだような色だ」

 ヴァレリウスが、エリアンの頭を無造作に撫でながら呟いた。
 その仕草は、もはや日常の風景となっている。エリアンも避けようとはせず、むしろ心地よさそうに目を細めていた。

「私の髪よりずっと綺麗ですよ。さあ、カイル君、ゆっくり水合わせをして放してあげて」

 エリアンの指示で、カイルが慎重に作業を始める。
 水槽の魚たちが、新しい広い池へと一匹、また一匹と解き放たれていく。
 緋色の魚体が青い水に溶け込み、尾ひれを振るたびにキラキラと水飛沫が舞った。その飛沫がエリアンの頬にかかる。

「冷たい……、あ、温かいですね。不思議な感覚です」

 エリアンは袖で顔を拭い、目を輝かせた。
 これほど美しい光景を、実家のあの暗い屋根裏部屋で想像できただろうか。
 隣には頼もしい(けれど少し不器用な)皇帝がいて、足元には自分が蘇らせた命が躍動している。

「陛下、見てください。あの子、岩の影に隠れちゃいましたよ。臆病なんですね、誰かさんみたいに」
「……誰のことだ。言っておくが、私は逃げも隠れもしないぞ」

 ヴァレリウスが不機嫌そうに鼻を鳴らすが、その瞳は優しくエリアンを追っていた。
 その時だった。
 一匹の特に大きな『陽炎錦』が、水面から勢いよくジャンプした。
 鮮やかな緋色の放物線。その美しさに目を奪われたエリアンが、前のめりになった拍子に濡れた石に足を滑らせる。

「あ……」

 重心が崩れ、視界が青い水面へと近づく。
 落下を覚悟してエリアンが目を閉じた瞬間。
 
 ドン、と胸板に熱い壁がぶつかった。
 ヴァレリウスが瞬時に腕を伸ばし、エリアンの腰をがっしりと抱き留めたのだ。

「……危ないと言ったそばからこれだ。貴様、池で魚と煮込まれたいのか」

 耳元で響く、低く落ち着いた声。
 エリアンはヴァレリウスの胸の中に収まったまま、ゆっくりと目を開けた。
 至近距離に、黄金の瞳。
 ヴァレリウスの体温はいつも通り高いが、今のエリアンにとっては、それが何よりも安心できる「正解」の温度だった。

「すみません。……でも、陛下がいてくれるから大丈夫だと思って」
「……お前という奴は。無自覚に人を頼るのも大概にしろ」

 ヴァレリウスは吐息を漏らすように言うと、エリアンの腰から手を離さず、そのまま自分の方へと引き寄せた。
 カイルは慌てて「あ、僕、エサの準備してきます!」と絶叫して走り去っていった。
 温室の中に、二人きりの時間が訪れる。

 水面を跳ねる魚の音。
 滴る水の音。
 そして、お互いの服が擦れる微かな音。

 エリアンはふと、ヴァレリウスの軍服の襟元が濡れていることに気づいた。
 
「陛下、お洋服が。……あの子たちの歓迎の印ですね」
「……厄介な歓迎だ。着替えが必要だな」
「では、お部屋に戻る前に、少しだけお掃除を手伝ってください。このままだと、風邪を引いちゃいますから」

 エリアンは自分のハンカチを取り出し、ヴァレリウスの頬についた水滴を拭った。
 ヴァレリウスは無言でそれを受け入れていたが、エリアンの指先が肌に触れるたび、その場所から体温がさらに上がっていくのを感じていた。

 恋心、という言葉にするには、二人の時間はまだあまりにも穏やかで、実務的だ。
 けれど、こうして一つの池を見つめ、互いの無事を確かめ合う。その積み重ねが、何よりも深く二人の根を絡ませていた。

「陛下。……この魚たち、繁殖したらもっと賑やかになりますね」
「……お前が望むなら、この池を魚で埋め尽くしてやってもいいぞ」
「それはやりすぎです。……でも、賑やかなのはいいですね」

 エリアンはそう言って、ヴァレリウスの腕の中に身を預けた。
 火山の城の冬は厳しいが、この温室の中だけは、永遠に絶えることのない命の熱に満ちていた。

「陛下、今夜のハーブ水には、この池のほとりで採れた『ミント苔』を入れてみますね。きっと、もっと美味しくなりますよ」
「……ああ。期待しているぞ、薬師様」

 二人の影が、青い水面に長く伸びる。
 不器用な皇帝と、マイペースな薬師。
 彼らのスローライフは、新しく加わった緋色の仲間たちと共に、また一歩、新しい季節へと歩み出していた。
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