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第二十六話
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城に戻る頃には、夜の帳が火山の裾野を深く包み込んでいた。
城下町で手に入れた茶葉の袋を抱え、エリアンは足早に自分の調合室へと向かう。背後からは、相変わらず無口な、けれど確かな熱を帯びた質量を伴ってヴァレリウスが付いてきていた。
「陛下、まだお部屋に戻らなくてよろしいのですか?」
「……茶を淹れると言ったのはお前だろう。毒見もせずに放り出すつもりか」
ヴァレリウスは不器用な言い訳を口にしながら、調合室の重厚な椅子に腰を下ろした。
この部屋は、今や彼にとって執務室よりも落ち着く場所になりつつある。棚に並んだ色とりどりの薬瓶や、微かに漂う乾燥ハーブの香りが、彼の荒ぶる竜の血を穏やかに鎮めてくれるからだ。
「そうでしたね。では、今日一番の贅沢な一杯を淹れますよ」
エリアンは魔法のコンロに火を灯した。
シュンシュンと小気味よい音を立てて沸騰するお湯。その間に、彼はイリサの店で買った『陽炎の実』のハチミツ漬けを、丁寧に銀のスプーンですくい上げた。
琥珀色のとろりとした蜜が、ランプの光を透かして宝石のように輝く。
「……良い匂いだ」
ヴァレリウスが深く息を吸い込む。
香ばしいナッツのような香りと、ハチミツの濃厚な甘み。それが熱いお湯に溶け出した瞬間、部屋中の空気が一気に華やいだ。
「どうぞ。まずはそのまま、香りを愉しんでください」
エリアンが差し出したのは、彼が調合室で見つけた、少し縁の欠けた古い陶器のカップだ。高級な銀器ではないが、厚みのあるその手触りは、今の二人の距離感にちょうど良かった。
ヴァレリウスは大きな手でカップを包み込み、ゆっくりと口に運ぶ。
ゴクリと喉が鳴り、彼の端正な顔立ちが、湯気の向こうでふわりと綻んだ。
「……温かいな。……いや、身体の芯が、春の日差しに溶かされるようだ」
「それは良かった。イリサさんの言った通り、血の巡りを整えてくれるんです。……陛下、街では少し、お疲れでしたよね?」
エリアンはヴァレリウスの正面に座り、自分の分のカップを両手で持った。
「……疲れてなどいない。……ただ、少しだけ、慣れなかっただけだ」
「慣れない? 人混みですか?」
「……お前に『ヴァル様』などと呼ばれ、あのような場所で手を握られることにだ」
ヴァレリウスの低い声に、エリアンは自分の頬が急激に熱くなるのを感じた。
お忍びのための呼び名だったはずが、口にした瞬間の、あの心臓が跳ねるような感覚が蘇る。
「……嫌、でしたか?」
「嫌なら、その場で焼き切っている。……お前の手は、驚くほどしっくりと馴染んだ」
ヴァレリウスはカップを置くと、テーブル越しにエリアンの手をそっと取った。
指先が触れ合う。
マッサージの時のような実務的な接触ではない。ただお互いの温もりを確かめるような、静かで、けれど強い意志の感じられる重なり。
「エリアン。……お前は、本当に私と二人きりが良いのか」
「……はい。陛下といると、私の『調律師』の血が喜んでいるのがわかるんです。……何より、私自身が、あなたの隣にいたいと思っていますから」
エリアンは若草色の瞳を真っ直ぐにヴァレリウスに向けた。
魔力を持たない自分。実家では「無能」とされた自分。
けれど今、この巨大な竜の化身である男が、自分の小さな言葉一つにこれほどまでに心を揺らしている。
「…………。お前という奴は、いつもそうだ」
ヴァレリウスは苦笑を漏らすと、握ったエリアンの手を引き寄せ、その甲にそっと唇を寄せた。
熱い。
火山の溶岩よりも、もっと深い場所から湧き上がるような、純粋な愛着の熱。
「……明日も、明後日も、私を診ろ。……茶を淹れ、庭の草を自慢し、私を振り回せ。……それがお前の役目だ」
「それは、終身雇用の宣言ですか?」
「……それ以上の、一生を賭けた契約だ。……お前以外に、私の熱を御せる者はいない」
エリアンはふふっ、と声を立てて笑った。
「承知いたしました、私の陛下。……お礼に、明日の朝食には、中庭で採れたばかりのベリーで作ったジャムを添えましょうね」
琥珀色の茶は、すっかり空になっていた。
けれど、二人の間に漂う甘い香りは、夜が更けても消えることはなかった。
「……陛下、そろそろお部屋に。……明日も早いですよ」
「……もう少しだけ、ここにいろ。……茶の余韻が消えるまでだ」
ヴァレリウスはエリアンの手を離さず、そのまま静かに目を閉じた。
調律師の力か、あるいはただの安らぎか。
今夜、竜の王を包む空気は、どこまでも凪いでいた。
城下町で手に入れた茶葉の袋を抱え、エリアンは足早に自分の調合室へと向かう。背後からは、相変わらず無口な、けれど確かな熱を帯びた質量を伴ってヴァレリウスが付いてきていた。
「陛下、まだお部屋に戻らなくてよろしいのですか?」
「……茶を淹れると言ったのはお前だろう。毒見もせずに放り出すつもりか」
ヴァレリウスは不器用な言い訳を口にしながら、調合室の重厚な椅子に腰を下ろした。
この部屋は、今や彼にとって執務室よりも落ち着く場所になりつつある。棚に並んだ色とりどりの薬瓶や、微かに漂う乾燥ハーブの香りが、彼の荒ぶる竜の血を穏やかに鎮めてくれるからだ。
「そうでしたね。では、今日一番の贅沢な一杯を淹れますよ」
エリアンは魔法のコンロに火を灯した。
シュンシュンと小気味よい音を立てて沸騰するお湯。その間に、彼はイリサの店で買った『陽炎の実』のハチミツ漬けを、丁寧に銀のスプーンですくい上げた。
琥珀色のとろりとした蜜が、ランプの光を透かして宝石のように輝く。
「……良い匂いだ」
ヴァレリウスが深く息を吸い込む。
香ばしいナッツのような香りと、ハチミツの濃厚な甘み。それが熱いお湯に溶け出した瞬間、部屋中の空気が一気に華やいだ。
「どうぞ。まずはそのまま、香りを愉しんでください」
エリアンが差し出したのは、彼が調合室で見つけた、少し縁の欠けた古い陶器のカップだ。高級な銀器ではないが、厚みのあるその手触りは、今の二人の距離感にちょうど良かった。
ヴァレリウスは大きな手でカップを包み込み、ゆっくりと口に運ぶ。
ゴクリと喉が鳴り、彼の端正な顔立ちが、湯気の向こうでふわりと綻んだ。
「……温かいな。……いや、身体の芯が、春の日差しに溶かされるようだ」
「それは良かった。イリサさんの言った通り、血の巡りを整えてくれるんです。……陛下、街では少し、お疲れでしたよね?」
エリアンはヴァレリウスの正面に座り、自分の分のカップを両手で持った。
「……疲れてなどいない。……ただ、少しだけ、慣れなかっただけだ」
「慣れない? 人混みですか?」
「……お前に『ヴァル様』などと呼ばれ、あのような場所で手を握られることにだ」
ヴァレリウスの低い声に、エリアンは自分の頬が急激に熱くなるのを感じた。
お忍びのための呼び名だったはずが、口にした瞬間の、あの心臓が跳ねるような感覚が蘇る。
「……嫌、でしたか?」
「嫌なら、その場で焼き切っている。……お前の手は、驚くほどしっくりと馴染んだ」
ヴァレリウスはカップを置くと、テーブル越しにエリアンの手をそっと取った。
指先が触れ合う。
マッサージの時のような実務的な接触ではない。ただお互いの温もりを確かめるような、静かで、けれど強い意志の感じられる重なり。
「エリアン。……お前は、本当に私と二人きりが良いのか」
「……はい。陛下といると、私の『調律師』の血が喜んでいるのがわかるんです。……何より、私自身が、あなたの隣にいたいと思っていますから」
エリアンは若草色の瞳を真っ直ぐにヴァレリウスに向けた。
魔力を持たない自分。実家では「無能」とされた自分。
けれど今、この巨大な竜の化身である男が、自分の小さな言葉一つにこれほどまでに心を揺らしている。
「…………。お前という奴は、いつもそうだ」
ヴァレリウスは苦笑を漏らすと、握ったエリアンの手を引き寄せ、その甲にそっと唇を寄せた。
熱い。
火山の溶岩よりも、もっと深い場所から湧き上がるような、純粋な愛着の熱。
「……明日も、明後日も、私を診ろ。……茶を淹れ、庭の草を自慢し、私を振り回せ。……それがお前の役目だ」
「それは、終身雇用の宣言ですか?」
「……それ以上の、一生を賭けた契約だ。……お前以外に、私の熱を御せる者はいない」
エリアンはふふっ、と声を立てて笑った。
「承知いたしました、私の陛下。……お礼に、明日の朝食には、中庭で採れたばかりのベリーで作ったジャムを添えましょうね」
琥珀色の茶は、すっかり空になっていた。
けれど、二人の間に漂う甘い香りは、夜が更けても消えることはなかった。
「……陛下、そろそろお部屋に。……明日も早いですよ」
「……もう少しだけ、ここにいろ。……茶の余韻が消えるまでだ」
ヴァレリウスはエリアンの手を離さず、そのまま静かに目を閉じた。
調律師の力か、あるいはただの安らぎか。
今夜、竜の王を包む空気は、どこまでも凪いでいた。
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