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第二十六話「潜む影」
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重く閉ざされた扉の向こうから、声が響いた。
「……誰に、命じられた?」
クラウスの問いは、感情を削ぎ落とした刃のように冷たく、鋭く空気を裂く。
応接室は、先ほどとは別の空気に包まれていた。
王弟殿下の侍従、クラウス。殿下の“私”として采配を一任されているという男が、屋敷内の封鎖と同時に、毒を持っていた使用人の尋問を始めたのだ。
椅子に縛られたその男は、蒼白な顔のまま、しきりに唇を舐めている。
額に浮いた脂汗が、蝋燭の明かりで光っていた。
僕はその光景を、扉の脇の椅子から、息をひそめて見つめていた。
ランも傍らに控えている。父と兄は、今は別室で情報のすり合わせに入っている。クラウスひとりでこの尋問を任されていること自体が、この屋敷における彼の影響力を物語っていた。
「名を言え。私は、拷問は好まない」
穏やかな口調なのに、まるで重石のような言葉だった。
使用人の男は、小さく身を震わせた。
「……言えません……あの方に……あの方に知られたら……殺される……!」
「あの方?」
クラウスは問い返す。
男は目を伏せ、膝を震わせるばかりで、名前を告げようとはしない。
クラウスは無理に言葉をねじ込もうとはせず、沈黙の中に“相手が口を開く隙”を生み出そうとしていた。言葉より、気配で追い詰める。それがこの男の手法らしかった。
「……ま、まさかここにいるとは、思わなかったんです……セラ様が、まだ……」
唐突に、男が呟いた。
僕は僅かに身を強張らせた。クラウスがわずかに顔を動かす。
「……“まだ”?」
「……俺は、聞いただけなんです。あの方が、セラ様の“状態”を気にしていて……だから、その……」
身体が軋むような感覚。心の底から、ぞわりと何かが這い上がってくる。
僕を気にしていて、これほどまでに名を出されない人物。
(そんなの、1人しかいない……)
「……席を外してもいい。これは、おまえが背負う必要のない場面だ」
すぐ隣で、兄が言った。
いつの間にか部屋に戻っていたらしい。
けれど、僕は首を振った。
「僕は……残ります」
何もできないかもしれない。
ただ見ているだけで、誰かの怒りや苦痛に立ちすくむしかないかもしれない。
でもそれでも──僕は、逃げたくなかった。
あの夜、何もできなかった自分を思い出すたびに、喉の奥が焼けつくようになる。
だからせめて、今ここで、目を逸らさないと決めた。
兄はそれ以上、何も言わなかった。
尋問の場を離れたあと、僕は屋敷の中庭に出た。
静かな夜だった。風が、ほんの少しだけ肌をなでていく。
空には薄い雲がかかっていて、月の輪郭がぼやけていた。
草の香りと石の匂い。
そして──遠くから聞こえる馬の嘶き。
どれも懐かしく、けれど“前”とは違う気がした。
──思い出したのだ、少しだけ。
かつて、こんな風に、夜の庭で独り佇んだことがあった。
あのとき僕は、何も知らなかった。
王宮での仕組まれた毒、陰謀、そして“僕の死”。
すべてを知らず、ただ与えられるものを黙って受け入れていた。
あのときの僕は、人形のようだった。
だから、今だけは。
違う未来を、選びたい。
僕は拳を握った。
「……同じには、ならない」
それが、誰に届かなくても。
せめて、僕自身だけは知っていたい。
ここから先は、誰かに守られるだけじゃないと。
※
「……つまり、調合に関わった者が、すでに王宮の“内側”にいると?」
王弟殿下の執務室。
父と王弟が、低い声で言葉を交わしていた。
「そうだ。毒の成分は、宮廷の医師だった者にしか扱えぬものだ。流通経路を断っても無意味。これは内部から作られている」
王弟は、長く指を組み合わせて、しばし沈黙する。
「“あの男”は、まだ道具を手放していないようだな」
「アリスタン……」
父の声が低く落ちる。
その音に、重い怒りと諦念と、そしてわずかな悔しさが滲んでいた。
※
夜のバルコニーに立っていた。
風が、静かに頬を撫でていく。
灯火は遠く、星の光さえ霞むほどの夜。
その気配に、僕は振り向いた。
「兄上……」
「……空気を吸いたくてな」
セヴァンは、僕の隣に立った。
しばらくふたりとも何も言わなかった。何かを言えば、この静けさが壊れてしまいそうで。
「……怖くないんですか」
僕が先に口を開いた。
「毒や陰謀や、そういうものに巻き込まれて。兄上は……」
セヴァンは、少しだけ目を細めて、それから言った。
「怖いな、情けないが。……だが」
言葉が少しだけ宙に浮く。
「おまえがそこにいるなら、それだけで、価値があると思える」
その言葉に、心が揺れた。
意味を正確に汲み取れなかった。けれど、何かが、確かに僕の内側で灯った。
兄の横顔が、どこか懐かしかった。
昔、手を伸ばした背中。その先に、何も届かなかったときの、あの夜。
今はまだ、何も変わっていないのかもしれない。
けれど、ほんの少しだけ、ふたりの間に風が吹いた気がした。
「……誰に、命じられた?」
クラウスの問いは、感情を削ぎ落とした刃のように冷たく、鋭く空気を裂く。
応接室は、先ほどとは別の空気に包まれていた。
王弟殿下の侍従、クラウス。殿下の“私”として采配を一任されているという男が、屋敷内の封鎖と同時に、毒を持っていた使用人の尋問を始めたのだ。
椅子に縛られたその男は、蒼白な顔のまま、しきりに唇を舐めている。
額に浮いた脂汗が、蝋燭の明かりで光っていた。
僕はその光景を、扉の脇の椅子から、息をひそめて見つめていた。
ランも傍らに控えている。父と兄は、今は別室で情報のすり合わせに入っている。クラウスひとりでこの尋問を任されていること自体が、この屋敷における彼の影響力を物語っていた。
「名を言え。私は、拷問は好まない」
穏やかな口調なのに、まるで重石のような言葉だった。
使用人の男は、小さく身を震わせた。
「……言えません……あの方に……あの方に知られたら……殺される……!」
「あの方?」
クラウスは問い返す。
男は目を伏せ、膝を震わせるばかりで、名前を告げようとはしない。
クラウスは無理に言葉をねじ込もうとはせず、沈黙の中に“相手が口を開く隙”を生み出そうとしていた。言葉より、気配で追い詰める。それがこの男の手法らしかった。
「……ま、まさかここにいるとは、思わなかったんです……セラ様が、まだ……」
唐突に、男が呟いた。
僕は僅かに身を強張らせた。クラウスがわずかに顔を動かす。
「……“まだ”?」
「……俺は、聞いただけなんです。あの方が、セラ様の“状態”を気にしていて……だから、その……」
身体が軋むような感覚。心の底から、ぞわりと何かが這い上がってくる。
僕を気にしていて、これほどまでに名を出されない人物。
(そんなの、1人しかいない……)
「……席を外してもいい。これは、おまえが背負う必要のない場面だ」
すぐ隣で、兄が言った。
いつの間にか部屋に戻っていたらしい。
けれど、僕は首を振った。
「僕は……残ります」
何もできないかもしれない。
ただ見ているだけで、誰かの怒りや苦痛に立ちすくむしかないかもしれない。
でもそれでも──僕は、逃げたくなかった。
あの夜、何もできなかった自分を思い出すたびに、喉の奥が焼けつくようになる。
だからせめて、今ここで、目を逸らさないと決めた。
兄はそれ以上、何も言わなかった。
尋問の場を離れたあと、僕は屋敷の中庭に出た。
静かな夜だった。風が、ほんの少しだけ肌をなでていく。
空には薄い雲がかかっていて、月の輪郭がぼやけていた。
草の香りと石の匂い。
そして──遠くから聞こえる馬の嘶き。
どれも懐かしく、けれど“前”とは違う気がした。
──思い出したのだ、少しだけ。
かつて、こんな風に、夜の庭で独り佇んだことがあった。
あのとき僕は、何も知らなかった。
王宮での仕組まれた毒、陰謀、そして“僕の死”。
すべてを知らず、ただ与えられるものを黙って受け入れていた。
あのときの僕は、人形のようだった。
だから、今だけは。
違う未来を、選びたい。
僕は拳を握った。
「……同じには、ならない」
それが、誰に届かなくても。
せめて、僕自身だけは知っていたい。
ここから先は、誰かに守られるだけじゃないと。
※
「……つまり、調合に関わった者が、すでに王宮の“内側”にいると?」
王弟殿下の執務室。
父と王弟が、低い声で言葉を交わしていた。
「そうだ。毒の成分は、宮廷の医師だった者にしか扱えぬものだ。流通経路を断っても無意味。これは内部から作られている」
王弟は、長く指を組み合わせて、しばし沈黙する。
「“あの男”は、まだ道具を手放していないようだな」
「アリスタン……」
父の声が低く落ちる。
その音に、重い怒りと諦念と、そしてわずかな悔しさが滲んでいた。
※
夜のバルコニーに立っていた。
風が、静かに頬を撫でていく。
灯火は遠く、星の光さえ霞むほどの夜。
その気配に、僕は振り向いた。
「兄上……」
「……空気を吸いたくてな」
セヴァンは、僕の隣に立った。
しばらくふたりとも何も言わなかった。何かを言えば、この静けさが壊れてしまいそうで。
「……怖くないんですか」
僕が先に口を開いた。
「毒や陰謀や、そういうものに巻き込まれて。兄上は……」
セヴァンは、少しだけ目を細めて、それから言った。
「怖いな、情けないが。……だが」
言葉が少しだけ宙に浮く。
「おまえがそこにいるなら、それだけで、価値があると思える」
その言葉に、心が揺れた。
意味を正確に汲み取れなかった。けれど、何かが、確かに僕の内側で灯った。
兄の横顔が、どこか懐かしかった。
昔、手を伸ばした背中。その先に、何も届かなかったときの、あの夜。
今はまだ、何も変わっていないのかもしれない。
けれど、ほんの少しだけ、ふたりの間に風が吹いた気がした。
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