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第二十五話「偽りの客人」
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「──これは、毒です」
ランの声が静かに落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。
誰もが、その意味を悟っていた。
けれど、即座に反応できた者はいない。
その言葉はまるで凍った水面のように、静かに広がっていった。
王弟殿下は無言のまま席を離れ、卓上の瓶を見下ろす。
深く刻まれた眉間の皺。その奥にあるのは、怒りか、それとも──。
「確かか」
問われた声は低く、鋼のような重みを帯びていた。
「香料で覆われていますが、微かに独特な匂いがあります。……間違いありません」
ランの言葉に、殿下の眼差しがほんのわずかに深まった。
そして、静かに名を呼ぶ。
「クラウス」
その一声に応じるように、部屋の隅で控えていた初老の男が一歩、前へ出た。
銀が混じる髪をきちんと撫でつけ、質素な侍従服を纏っているが、まとう空気は並の臣とは異なる。
視線の鋭さに、静かな圧があった。
「この者はクラウス。私の侍従であり“私の手”として、すべての采配を任せている。ジークムントとも、古い付き合いだ」
紹介と同時に、クラウスが父へと向き直る。
「……お久しぶりでございます、閣下。相変わらず、沈着冷静なご様子で」
父は目を細め、低く息を吐いた。
「相変わらずのようだな」
ふたりの間に流れたのは、長年の信頼に裏打ちされた沈黙だった。
言葉の裏を測り合うような政治の駆け引きとは違う、もっと本質的なもの──。
クラウスは僕に向き直ると、やや低く頭を垂れる。
「セラ様ですね?イレーネ様に似ていらっしゃる。さて皆様、これより当屋敷については私にお任せいただきたく。……すでに封鎖は致しております」
その言葉が、この男の立ち位置を物語っていた。
レオグランツ殿下の“私”。
乳兄弟として育ったという話を、かつてどこかで聞いたことがある。
本物の采配が、ここから始まる。
クラウスはすぐさま数名の兵に指示を飛ばし、出入り口の封鎖、警備の再編、厨房の人員確認などを命じていった。
その背を見つめながら、父がぽつりと呟く。
「……やはり、壁の中に“敵”がいるということか」
王弟は頷いた。
「ここで見落とせば、次はない。もう迷っていられないらしい。アメリアに手を出すとはな……」
父はしばし黙し、次の瞬間、僕の横に立つ兄へと視線を移す。
「セヴァン」
「……はい」
「セラを頼む。おまえが適任だ」
兄は一歩進み出ると、迷いなく頭を下げた。
「承知しました」
それだけのやりとりだったのに、不思議と空気が動いた。
命令というにはあまりに短く、けれどそれ以上の意味を孕んでいた。
クラウスが礼をして、警備強化のために場を離れる。
王弟殿下と父も、低く何事かを交わしながら奥の執務室へと移っていった。
使用人たちも、それぞれの配置へと散り──気がつけば、広間に残されていたのは、僕と、兄だけだった。
誰かが意図したのか、それとも偶然か。
静寂がふたたび落ち、扉の閉まる音がやけに遠く響いた。
──ふたりきり。
そのことに気づいたとき、ふいに胸の奥がざわめいた。
さっきまで熱を持っていた空気が、妙に冷えて感じる。
「兄上は……王弟家に行かれるのですか?」
それは、問うつもりのなかった問いだった。
けれど口にしたとたん、もう取り消せなかった。
兄は短く目を伏せ、それから穏やかに、けれど迷いなく言った。
「まだ、決めていない。……だが、いずれは、選ばねばならない」
その声音に、嘘はなかった。
兄は揺れていたのではない。
ただ、何かを選び取るまでの時間を、自らに許していただけだった。
それが、どうしようもなく遠く感じた。
そこへ、ランが静かに近寄って来た。
「失礼いたします。瓶の中身について、追加でお伝えすべきことが──」
ランの声は静かで、しかし確かな切迫を帯びていた。
「毒には、継続的に摂取させることで、精神を蝕む成分が含まれています。妃殿下の症状──とくに気分の変調や動悸は、これによって引き起こされた可能性が高い」
「……精神に……?」
僕は、無意識に呟いた。
ランは頷く。その目が、まっすぐに僕を見ていた。
「この毒は、暗示のように作用します。微量を長く取り続けることで、意識の深層に揺らぎを生じさせる。本人にも、自覚はないまま」
「じゃあ……妃殿下だけじゃ、ない……?」
喉の奥が焼けるようだった。
吐き気に近い震えが、腹の奥からじわじわと広がる。
僕は知らずに、拳を握っていた。
──なぜ。
誰が、こんなことを。
王弟殿下に仕えた者たちの中に。
この屋敷の中に。
毒を運び、微笑みながらそれを差し出す者がいた。
どこに、その“手”は潜んでいるのか。
──そのとき。
部屋の奥、閉ざされた扉の隙間に、微かな気配があった。
振り返った僕の視界に、誰もいないはずの廊下の影が、かすかに揺れる。
──見られている。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
ランの声が静かに落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。
誰もが、その意味を悟っていた。
けれど、即座に反応できた者はいない。
その言葉はまるで凍った水面のように、静かに広がっていった。
王弟殿下は無言のまま席を離れ、卓上の瓶を見下ろす。
深く刻まれた眉間の皺。その奥にあるのは、怒りか、それとも──。
「確かか」
問われた声は低く、鋼のような重みを帯びていた。
「香料で覆われていますが、微かに独特な匂いがあります。……間違いありません」
ランの言葉に、殿下の眼差しがほんのわずかに深まった。
そして、静かに名を呼ぶ。
「クラウス」
その一声に応じるように、部屋の隅で控えていた初老の男が一歩、前へ出た。
銀が混じる髪をきちんと撫でつけ、質素な侍従服を纏っているが、まとう空気は並の臣とは異なる。
視線の鋭さに、静かな圧があった。
「この者はクラウス。私の侍従であり“私の手”として、すべての采配を任せている。ジークムントとも、古い付き合いだ」
紹介と同時に、クラウスが父へと向き直る。
「……お久しぶりでございます、閣下。相変わらず、沈着冷静なご様子で」
父は目を細め、低く息を吐いた。
「相変わらずのようだな」
ふたりの間に流れたのは、長年の信頼に裏打ちされた沈黙だった。
言葉の裏を測り合うような政治の駆け引きとは違う、もっと本質的なもの──。
クラウスは僕に向き直ると、やや低く頭を垂れる。
「セラ様ですね?イレーネ様に似ていらっしゃる。さて皆様、これより当屋敷については私にお任せいただきたく。……すでに封鎖は致しております」
その言葉が、この男の立ち位置を物語っていた。
レオグランツ殿下の“私”。
乳兄弟として育ったという話を、かつてどこかで聞いたことがある。
本物の采配が、ここから始まる。
クラウスはすぐさま数名の兵に指示を飛ばし、出入り口の封鎖、警備の再編、厨房の人員確認などを命じていった。
その背を見つめながら、父がぽつりと呟く。
「……やはり、壁の中に“敵”がいるということか」
王弟は頷いた。
「ここで見落とせば、次はない。もう迷っていられないらしい。アメリアに手を出すとはな……」
父はしばし黙し、次の瞬間、僕の横に立つ兄へと視線を移す。
「セヴァン」
「……はい」
「セラを頼む。おまえが適任だ」
兄は一歩進み出ると、迷いなく頭を下げた。
「承知しました」
それだけのやりとりだったのに、不思議と空気が動いた。
命令というにはあまりに短く、けれどそれ以上の意味を孕んでいた。
クラウスが礼をして、警備強化のために場を離れる。
王弟殿下と父も、低く何事かを交わしながら奥の執務室へと移っていった。
使用人たちも、それぞれの配置へと散り──気がつけば、広間に残されていたのは、僕と、兄だけだった。
誰かが意図したのか、それとも偶然か。
静寂がふたたび落ち、扉の閉まる音がやけに遠く響いた。
──ふたりきり。
そのことに気づいたとき、ふいに胸の奥がざわめいた。
さっきまで熱を持っていた空気が、妙に冷えて感じる。
「兄上は……王弟家に行かれるのですか?」
それは、問うつもりのなかった問いだった。
けれど口にしたとたん、もう取り消せなかった。
兄は短く目を伏せ、それから穏やかに、けれど迷いなく言った。
「まだ、決めていない。……だが、いずれは、選ばねばならない」
その声音に、嘘はなかった。
兄は揺れていたのではない。
ただ、何かを選び取るまでの時間を、自らに許していただけだった。
それが、どうしようもなく遠く感じた。
そこへ、ランが静かに近寄って来た。
「失礼いたします。瓶の中身について、追加でお伝えすべきことが──」
ランの声は静かで、しかし確かな切迫を帯びていた。
「毒には、継続的に摂取させることで、精神を蝕む成分が含まれています。妃殿下の症状──とくに気分の変調や動悸は、これによって引き起こされた可能性が高い」
「……精神に……?」
僕は、無意識に呟いた。
ランは頷く。その目が、まっすぐに僕を見ていた。
「この毒は、暗示のように作用します。微量を長く取り続けることで、意識の深層に揺らぎを生じさせる。本人にも、自覚はないまま」
「じゃあ……妃殿下だけじゃ、ない……?」
喉の奥が焼けるようだった。
吐き気に近い震えが、腹の奥からじわじわと広がる。
僕は知らずに、拳を握っていた。
──なぜ。
誰が、こんなことを。
王弟殿下に仕えた者たちの中に。
この屋敷の中に。
毒を運び、微笑みながらそれを差し出す者がいた。
どこに、その“手”は潜んでいるのか。
──そのとき。
部屋の奥、閉ざされた扉の隙間に、微かな気配があった。
振り返った僕の視界に、誰もいないはずの廊下の影が、かすかに揺れる。
──見られている。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
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