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52、王宮へ
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公爵邸の玄関前には、すでに王宮からの迎えの馬車が待機していた。
その馬車は、王族の紋章が刻まれた黒塗りのものだった。
近衛兵が数名、控えている。
(やけに厳重だな……)
ただの謁見にしては、異様な雰囲気だった。
エリオットはわずかに警戒しながらも、ゆっくりと馬車へと向かう。
「……奥様」
ふと、控えめな声が背後から聞こえた。
振り返ると、そこにはリディアが立っていた。
後ろにはオリヴィエも控えている。
「お支度の手伝いもできず、申し訳ありません。参内される前に少しだけ」
彼女は心配そうに、けれど凛とした顔でエリオットを見つめていた。
エリオットに近付くと、衣服や髪を手早く整えてくれる。
そしてオリヴィエが上着をそっと差し出した。
エリオットはそれを受け取り、羽織ると微かに微笑んだ。
「ありがとう二人とも。すぐ戻るよ」
そう言い残し、馬車へと乗り込む。
扉が閉まり、馬車は静かに動き出した。
※
馬車の中は静かだった。
窓の外を眺めれば、公爵邸が徐々に遠ざかっていく。
王宮の尖塔が、夕暮れの空にくっきりと浮かび上がる。
(王宮か……)
舞踏会以来の王宮。
しかし、今回はただの社交ではない。
皇帝と、王太子。
二人の王族が自分を呼び出した。
(何が目的なのか……)
シグルドが自分を守ろうとしているのは、わかる。
しかし、王太子が関わってくる理由が読めなかった。
彼とはほとんど面識がないはずだ。
なのに、なぜ——
考えても答えは出ない。
それに、今は考えるよりも目の前のことに集中するべきだろう。
(……王宮での振る舞いを、誤らないようにしないと)
エリオットは静かに息を整えた。
※
王宮の正門をくぐり、馬車は王宮の中庭へと進んだ。
控えていた近衛兵たちが整然と並ぶ中、馬車が静かに停まる。
「公爵夫人エリオット様、ご到着です」
馬車の扉が開かれた。
エリオットが降りると、そこには見慣れた姿があった。
「ようこそ、公爵夫人」
にこやかに出迎えたのは、王太子ライナスだった。
王太子ライナス・アルヴィオン。
金の髪を緩やかに流し、その身を包む服装は、宮廷らしい格式とは少し違っていた。
深みのある青の上着を無造作に肩へかけ、胸元は軽く開かれている。
洗練されてはいるが、どこか余裕を感じさせるその姿は、貴族というよりも遊び慣れた青年のようにも見えた。
だが、その蒼い瞳には鋭い光が宿っており、ただの軽薄な男ではないことを物語っている。
面差しがどこかアドリアンに似ている。血筋を考えれば、それも当然だろう。
だが、同じ血の生まれでも、纏う空気が決定的に違う。
アドリアンの蒼い瞳には、常に何かを押し殺したような冷徹さがあった。
それに対し、ライナスの蒼い瞳は、余裕と軽やかさを持ちながらも、その奥に隠された計算高さが透けて見える。
似ているようで、まるで違う。
「……王太子殿下」
エリオットは胸に手を当て一礼する。
ライナスはにっこりと微笑み、軽やかに手を差し出した。
「こんな急なお呼び立て、驚かせてしまったかな?」
エリオットはその手を取るべきか一瞬迷ったが、そっと取る。
すると、ライナスは軽く握り返しながら、自然な動作でエリオットを引き寄せた。
「——っ!」
思わず身を引こうとするが、ライナスは悪戯っぽく微笑む。
「そんなに警戒しないでほしいな。君に害意なんてない」
エリオットは静かに視線を上げる。
「……なぜ私を?」
「話したいことがあるからさ」
ライナスはゆったりとした動作で手を離し、エリオットを促すように宮殿の方へ向かう。
「……皇帝陛下もお待ちだ。さあ、中へ」
その言葉に、エリオットの背筋がわずかに強張る。
(……やはり、両方揃っているのか)
皇帝シグルドと、王太子ライナス。
この二人の前で、自分は何を問われるのか。
「……わかりました」
エリオットが案内されたのは王宮の奥──広々とした応接室だった。
そこにはすでに、シグルド・アルヴァンがソファに座っている。
普段とは違い、黒を基調とはしているが内輪でするようなくだけた出で立ちだ。
その金色の瞳が、エリオットが入室した瞬間、まっすぐに向けられた。
(……陛下)
シグルドの視線は、鋭くも冷静だった。
けれど、その奥にある何かが、エリオットには読めなかった。
「どうぞ、公爵夫人」
ライナスがにこやかに言いながら、エリオットの隣に立つ。
「では、本題に入ろうか」
シグルドがゆっくりと口を開く。
「昨夜の襲撃について、すでに近衛が調査を進めている」
エリオットは静かに頷く。
(……やはり、昨日の……)
「犯人の一人は捕らえたが、まだ全貌は掴めていない」
シグルドは視線を逸らさずに続ける。
「公爵夫人、本当に心当たりはないのか?」
ヴェロニクとのやり取りから、察しはついている。
けれど、そこに証拠はない。
ここで確証がないことを言っていいのか、どうか。
しかし、調査を進めているとなれば、自分が黙っていることは得策でもないように思えた。
少し迷っていると、ライナスがエリオットの横に座る。
「アドリアンには愛人がいるそうだな。しかも、公爵邸内に住まわせているとか」
ライナスがそう言うと、シグルドが眉を寄せた。
エリオットはただ、目をやや伏せた。
「なんだ、それは」
貴族に愛人がいることはさして珍しいことでもない。ましてや王族に至っては正式な妃と共に数人の側室がいることも普通だ。だが、要らぬ諍いを生まないためにも、愛人と正妻の立場は明確に区別されるべきであり、正妻と同じ屋根の下で暮らさせるなど、本来、常識ではありえない。王の後宮ですら、細かく居住区画の整理がされているくらいだ。
「……こちらではそういう風習なのか?」
まさか、とライナスは軽く肩を竦めた。
「わが父王においても正妃である母上の他に側妃のベルタ様をお持ちだが……ちゃんと二人を区別したうえで大事にしているように受け取れる。なので二人の仲は良好で、ベルタ様は私でさえも実の息子のように可愛がってくださったしね。さて、アドリアンはどうだろうか……公爵夫人?」
問いかけるような言葉に、エリオットは伏せた目を上げる。
「どうでしょうか。公爵閣下は公爵閣下なりのお考えをお持ちなのでしょう」
慎重に言葉を選ぶ。
シグルドは小さく息を吐くと足を組んだ。
「わからないな、私には。トラヴィスとは違いすぎて……」
「そう私に怖い顔をしないでほしいな。ただでさえ君は威圧感が半端ないんだからね、シグルド。そうそう、公爵夫人」
軽い調子でライナスは語り掛けた。
彼は上着の襟を軽く正しながら、エリオットの方へと視線を向ける。
「トラヴィスでは、皇帝と言えども番は一人しか持たないって知ってた?」
エリオットはその言葉に、わずかに瞬きをする。
「……聞いたことはあります。竜の信仰と関係がある、と」
「お、さすが」
ライナスはにこりと笑い、軽く指を鳴らす。
「その通り。トラヴィスは古くから竜の加護を受けている国でね。世界で唯一、竜と共に生きてきた国でもある」
彼の言葉に、エリオットは静かに耳を傾ける。
「竜というのは、一生に一度しか番を持たない。それが、トラヴィスの価値観の根底にあるんだ。だから、貴族でも側室を持つ者はほとんどいない」
「……それほどまでに、番というものが重い意味を持つのですね」
(まるで、違うんだな……)
ふと、アドリアンの顔が浮かび、エリオットは心中で苦笑を漏らしつつ、そう呟くと、隣にいたシグルドが口を開いた。
「……我々の血は、普通の人間よりも長命なんだ」
その低い声には、いつものような威圧感があった。
「番を持つことは、ただの形式ではない。竜神の加護は、唯一の伴侶にのみ与えられる。故に、選び間違えることは許されない」
エリオットは、思わずシグルドを見上げる。
彼の金色の瞳は静かで、しかしどこか熱を帯びていた。
「……つまり、皇帝陛下の番になるというのは、国の未来をも左右するほどの重みがある、ということですか?」
そう問いかけると、ライナスが肩をすくめながら答える。
「まあ、そういうことさ。シグルドが誰を選ぶかで、国の運命すら変わる……とはいえ、それは言い過ぎかもしれないけれどね」
そして、ふと唇の端を上げ、いたずらめいた笑みを浮かべる。
「で、どうやらこの皇帝陛下は、公爵夫人に興味がおありのようだ」
(……!?)
エリオットの呼吸が止まりそうになる。
「……ライナス」
シグルドの声が、わずかに低くなる。
「何だよ、シグルド。こうして堂々と王宮に招いてる時点で、気があるのは明白だろう?」
ライナスはひょうひょうとした様子で肩をすくめた。
「しかも、公爵夫人の安全確保のために王宮に滞在することを推奨、なんて。これ、もう『こっちで保護するから公爵夫人は俺のもの』って言ってるようなものじゃないか?」
「……!」
エリオットは思わず目を伏せる。
(そんなはずは……思い上がってはいけない)
しかし、シグルドは否定しなかった。
ただ、静かにエリオットを見つめていた。
それが、何よりも言葉以上の意味を持っているように思えて——エリオットは、胸の奥がざわつくのを感じた。
「さて、話がそれたので戻そうか。で、その公爵閣下の愛人だが──」
ライナスは、再びエリオットを見る。
「関わっているんじゃないかい?」
どこかその言葉は確信めいていた。
けれど、エリオットは絶対なる証拠は掴んでいない。
なので、迂闊に糾弾することは出来ないと考えていた。
「どうでしょうか……狙われる要素がないとは言えませんが。絶対とも言えません」
「なるほどなるほど。いいね、感情に流され叫ばないのも。だそうだよ、皇帝陛下」
シグルドは微かに目を細めた。
「そちらの線も調査に組み込めばいいだけだ」
その低い声に、ライナスが軽く口を挟んだ。
「とはいえ、犯人を特定するには少し時間がかかるだろうね。まあ、少し、だ。ちょっと雑な人間に依頼したようだからねぇ。この際だ、いい感じにネズミ捕りもさせてもらおう」
エリオットはライナスを見上げる。
「ありがとうございます。しかし……王太子殿下は、なぜ私と……?」
エリオットが聞く限り、この場にエリオットがおらずとも、ライナスは目星をつけているような口ぶりだった。で、あれば自分と顔を合わせる意味がいまいちわからない。
保護する人間を確認するため、といっても、必要不可欠かといえば、そうでもない。
ライナスは唇に笑みを浮かべたまま、少しだけ顔を近づけた。
「君が気になったからさ」
「……私が?」
「狩猟大会の時も思ったけれど……君は実に面白いね」
ライナスの瞳は、どこか愉快そうだった。
「皇帝陛下がこれほど執着する相手が、一体どんな人間なのか……興味が湧いてね」
エリオットは内心、驚いていた。
先ほどからまるで、ライナスはシグルドが何か特別な感情を自分に抱いていると知っているかのような口ぶりだ。
(……この人は、何をどこまで知っている?)
シグルドは、そんなライナスの言葉を聞いても、表情を崩さなかった。
「王太子殿下、余計な詮索は不要だ」
「詮索? ただの関心だよ」
ライナスは肩をすくめながら、楽しげに笑った。
「それに、これからのことを考えると、彼の安全は確保すべきだろう?」
シグルドがわずかに眉をひそめる。
「……何を考えている?」
「考えている?」
ライナスはまた笑う。
「君と同じさ。エリオット公爵夫人を、ここで保護するべきだと」
エリオットは思わず息を呑んだ。
(ここで……?)
「公爵家に戻すのは得策ではない。君だって、そう思うだろう?」
ライナスの言葉に、シグルドが無言でエリオットを見つめた。
その視線は、いつも以上に鋭く、何かを確かめるようだった。
もし戻れば、アドリアンが何をするかわからない。
それに、ヴェロニクが次に何を仕掛けてくるかも。
だが、ここに留まるということは——
「……」
エリオットは、静かに唇を噛んだ。
シグルドは低く息を吐くと、一歩エリオットへと近づいた。
「私は、君をここに置きたい」
シグルドの言葉が、静かに空気を震わせた。
金色の瞳がまっすぐにエリオットを捉える。
その瞬間、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
(——ここに、置きたい?)
意味を深く考える前に、隣から軽やかな声が響いた。
「おやおや、シグルド。まるで求婚の言葉みたいじゃないか」
ライナスが悪戯っぽく笑いながら、肩をすくめる。
「ふむふむ。いいねぇ。そうだ、公爵夫人。私もまだ妃がいないんだよ。いっそ私の元に来るのも面白そうじゃないか?君一人を大事にするよ?こう見えても一途なんだ」
冗談めかして言いながらも、その青い瞳はどこか興味深げに輝いている。
シグルドは微かに眉を寄せ、ふざけるな、とだけライナスに告げると、ただ静かにエリオットを見ていた。
(まさか……そんなわけが……)
エリオットは内心で必死に否定する。
だが、シグルドがライナスの言葉に何も反応しないことが、逆に胸の奥を少し締め付ける。
「……お二人とも……戯れがすぎます……」
思わず、そう口にしていた。
しかし、その声はわずかに震えているようにも聞こえた。
ライナスが楽しげに片眉を上げる。
「へえ? じゃあ、公爵夫人はここに残るつもりはない?」
「……」
答えに詰まる。
ここに残れば、アドリアンの執着からは逃れられるかもしれない。
だが、その代わりに——この皇帝陛下の意志に飲み込まれることになる。
「どうする?」
再び、シグルドが問いかけた。
その声は静かだったが、拒絶を許さぬような圧を持っていた。
(どうすれば……)
エリオットは、静かに拳を握った。
//////////////////////////////
次の更新→2/28 PM10:30頃
⭐︎感想いただけると嬉しいです⭐︎
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その馬車は、王族の紋章が刻まれた黒塗りのものだった。
近衛兵が数名、控えている。
(やけに厳重だな……)
ただの謁見にしては、異様な雰囲気だった。
エリオットはわずかに警戒しながらも、ゆっくりと馬車へと向かう。
「……奥様」
ふと、控えめな声が背後から聞こえた。
振り返ると、そこにはリディアが立っていた。
後ろにはオリヴィエも控えている。
「お支度の手伝いもできず、申し訳ありません。参内される前に少しだけ」
彼女は心配そうに、けれど凛とした顔でエリオットを見つめていた。
エリオットに近付くと、衣服や髪を手早く整えてくれる。
そしてオリヴィエが上着をそっと差し出した。
エリオットはそれを受け取り、羽織ると微かに微笑んだ。
「ありがとう二人とも。すぐ戻るよ」
そう言い残し、馬車へと乗り込む。
扉が閉まり、馬車は静かに動き出した。
※
馬車の中は静かだった。
窓の外を眺めれば、公爵邸が徐々に遠ざかっていく。
王宮の尖塔が、夕暮れの空にくっきりと浮かび上がる。
(王宮か……)
舞踏会以来の王宮。
しかし、今回はただの社交ではない。
皇帝と、王太子。
二人の王族が自分を呼び出した。
(何が目的なのか……)
シグルドが自分を守ろうとしているのは、わかる。
しかし、王太子が関わってくる理由が読めなかった。
彼とはほとんど面識がないはずだ。
なのに、なぜ——
考えても答えは出ない。
それに、今は考えるよりも目の前のことに集中するべきだろう。
(……王宮での振る舞いを、誤らないようにしないと)
エリオットは静かに息を整えた。
※
王宮の正門をくぐり、馬車は王宮の中庭へと進んだ。
控えていた近衛兵たちが整然と並ぶ中、馬車が静かに停まる。
「公爵夫人エリオット様、ご到着です」
馬車の扉が開かれた。
エリオットが降りると、そこには見慣れた姿があった。
「ようこそ、公爵夫人」
にこやかに出迎えたのは、王太子ライナスだった。
王太子ライナス・アルヴィオン。
金の髪を緩やかに流し、その身を包む服装は、宮廷らしい格式とは少し違っていた。
深みのある青の上着を無造作に肩へかけ、胸元は軽く開かれている。
洗練されてはいるが、どこか余裕を感じさせるその姿は、貴族というよりも遊び慣れた青年のようにも見えた。
だが、その蒼い瞳には鋭い光が宿っており、ただの軽薄な男ではないことを物語っている。
面差しがどこかアドリアンに似ている。血筋を考えれば、それも当然だろう。
だが、同じ血の生まれでも、纏う空気が決定的に違う。
アドリアンの蒼い瞳には、常に何かを押し殺したような冷徹さがあった。
それに対し、ライナスの蒼い瞳は、余裕と軽やかさを持ちながらも、その奥に隠された計算高さが透けて見える。
似ているようで、まるで違う。
「……王太子殿下」
エリオットは胸に手を当て一礼する。
ライナスはにっこりと微笑み、軽やかに手を差し出した。
「こんな急なお呼び立て、驚かせてしまったかな?」
エリオットはその手を取るべきか一瞬迷ったが、そっと取る。
すると、ライナスは軽く握り返しながら、自然な動作でエリオットを引き寄せた。
「——っ!」
思わず身を引こうとするが、ライナスは悪戯っぽく微笑む。
「そんなに警戒しないでほしいな。君に害意なんてない」
エリオットは静かに視線を上げる。
「……なぜ私を?」
「話したいことがあるからさ」
ライナスはゆったりとした動作で手を離し、エリオットを促すように宮殿の方へ向かう。
「……皇帝陛下もお待ちだ。さあ、中へ」
その言葉に、エリオットの背筋がわずかに強張る。
(……やはり、両方揃っているのか)
皇帝シグルドと、王太子ライナス。
この二人の前で、自分は何を問われるのか。
「……わかりました」
エリオットが案内されたのは王宮の奥──広々とした応接室だった。
そこにはすでに、シグルド・アルヴァンがソファに座っている。
普段とは違い、黒を基調とはしているが内輪でするようなくだけた出で立ちだ。
その金色の瞳が、エリオットが入室した瞬間、まっすぐに向けられた。
(……陛下)
シグルドの視線は、鋭くも冷静だった。
けれど、その奥にある何かが、エリオットには読めなかった。
「どうぞ、公爵夫人」
ライナスがにこやかに言いながら、エリオットの隣に立つ。
「では、本題に入ろうか」
シグルドがゆっくりと口を開く。
「昨夜の襲撃について、すでに近衛が調査を進めている」
エリオットは静かに頷く。
(……やはり、昨日の……)
「犯人の一人は捕らえたが、まだ全貌は掴めていない」
シグルドは視線を逸らさずに続ける。
「公爵夫人、本当に心当たりはないのか?」
ヴェロニクとのやり取りから、察しはついている。
けれど、そこに証拠はない。
ここで確証がないことを言っていいのか、どうか。
しかし、調査を進めているとなれば、自分が黙っていることは得策でもないように思えた。
少し迷っていると、ライナスがエリオットの横に座る。
「アドリアンには愛人がいるそうだな。しかも、公爵邸内に住まわせているとか」
ライナスがそう言うと、シグルドが眉を寄せた。
エリオットはただ、目をやや伏せた。
「なんだ、それは」
貴族に愛人がいることはさして珍しいことでもない。ましてや王族に至っては正式な妃と共に数人の側室がいることも普通だ。だが、要らぬ諍いを生まないためにも、愛人と正妻の立場は明確に区別されるべきであり、正妻と同じ屋根の下で暮らさせるなど、本来、常識ではありえない。王の後宮ですら、細かく居住区画の整理がされているくらいだ。
「……こちらではそういう風習なのか?」
まさか、とライナスは軽く肩を竦めた。
「わが父王においても正妃である母上の他に側妃のベルタ様をお持ちだが……ちゃんと二人を区別したうえで大事にしているように受け取れる。なので二人の仲は良好で、ベルタ様は私でさえも実の息子のように可愛がってくださったしね。さて、アドリアンはどうだろうか……公爵夫人?」
問いかけるような言葉に、エリオットは伏せた目を上げる。
「どうでしょうか。公爵閣下は公爵閣下なりのお考えをお持ちなのでしょう」
慎重に言葉を選ぶ。
シグルドは小さく息を吐くと足を組んだ。
「わからないな、私には。トラヴィスとは違いすぎて……」
「そう私に怖い顔をしないでほしいな。ただでさえ君は威圧感が半端ないんだからね、シグルド。そうそう、公爵夫人」
軽い調子でライナスは語り掛けた。
彼は上着の襟を軽く正しながら、エリオットの方へと視線を向ける。
「トラヴィスでは、皇帝と言えども番は一人しか持たないって知ってた?」
エリオットはその言葉に、わずかに瞬きをする。
「……聞いたことはあります。竜の信仰と関係がある、と」
「お、さすが」
ライナスはにこりと笑い、軽く指を鳴らす。
「その通り。トラヴィスは古くから竜の加護を受けている国でね。世界で唯一、竜と共に生きてきた国でもある」
彼の言葉に、エリオットは静かに耳を傾ける。
「竜というのは、一生に一度しか番を持たない。それが、トラヴィスの価値観の根底にあるんだ。だから、貴族でも側室を持つ者はほとんどいない」
「……それほどまでに、番というものが重い意味を持つのですね」
(まるで、違うんだな……)
ふと、アドリアンの顔が浮かび、エリオットは心中で苦笑を漏らしつつ、そう呟くと、隣にいたシグルドが口を開いた。
「……我々の血は、普通の人間よりも長命なんだ」
その低い声には、いつものような威圧感があった。
「番を持つことは、ただの形式ではない。竜神の加護は、唯一の伴侶にのみ与えられる。故に、選び間違えることは許されない」
エリオットは、思わずシグルドを見上げる。
彼の金色の瞳は静かで、しかしどこか熱を帯びていた。
「……つまり、皇帝陛下の番になるというのは、国の未来をも左右するほどの重みがある、ということですか?」
そう問いかけると、ライナスが肩をすくめながら答える。
「まあ、そういうことさ。シグルドが誰を選ぶかで、国の運命すら変わる……とはいえ、それは言い過ぎかもしれないけれどね」
そして、ふと唇の端を上げ、いたずらめいた笑みを浮かべる。
「で、どうやらこの皇帝陛下は、公爵夫人に興味がおありのようだ」
(……!?)
エリオットの呼吸が止まりそうになる。
「……ライナス」
シグルドの声が、わずかに低くなる。
「何だよ、シグルド。こうして堂々と王宮に招いてる時点で、気があるのは明白だろう?」
ライナスはひょうひょうとした様子で肩をすくめた。
「しかも、公爵夫人の安全確保のために王宮に滞在することを推奨、なんて。これ、もう『こっちで保護するから公爵夫人は俺のもの』って言ってるようなものじゃないか?」
「……!」
エリオットは思わず目を伏せる。
(そんなはずは……思い上がってはいけない)
しかし、シグルドは否定しなかった。
ただ、静かにエリオットを見つめていた。
それが、何よりも言葉以上の意味を持っているように思えて——エリオットは、胸の奥がざわつくのを感じた。
「さて、話がそれたので戻そうか。で、その公爵閣下の愛人だが──」
ライナスは、再びエリオットを見る。
「関わっているんじゃないかい?」
どこかその言葉は確信めいていた。
けれど、エリオットは絶対なる証拠は掴んでいない。
なので、迂闊に糾弾することは出来ないと考えていた。
「どうでしょうか……狙われる要素がないとは言えませんが。絶対とも言えません」
「なるほどなるほど。いいね、感情に流され叫ばないのも。だそうだよ、皇帝陛下」
シグルドは微かに目を細めた。
「そちらの線も調査に組み込めばいいだけだ」
その低い声に、ライナスが軽く口を挟んだ。
「とはいえ、犯人を特定するには少し時間がかかるだろうね。まあ、少し、だ。ちょっと雑な人間に依頼したようだからねぇ。この際だ、いい感じにネズミ捕りもさせてもらおう」
エリオットはライナスを見上げる。
「ありがとうございます。しかし……王太子殿下は、なぜ私と……?」
エリオットが聞く限り、この場にエリオットがおらずとも、ライナスは目星をつけているような口ぶりだった。で、あれば自分と顔を合わせる意味がいまいちわからない。
保護する人間を確認するため、といっても、必要不可欠かといえば、そうでもない。
ライナスは唇に笑みを浮かべたまま、少しだけ顔を近づけた。
「君が気になったからさ」
「……私が?」
「狩猟大会の時も思ったけれど……君は実に面白いね」
ライナスの瞳は、どこか愉快そうだった。
「皇帝陛下がこれほど執着する相手が、一体どんな人間なのか……興味が湧いてね」
エリオットは内心、驚いていた。
先ほどからまるで、ライナスはシグルドが何か特別な感情を自分に抱いていると知っているかのような口ぶりだ。
(……この人は、何をどこまで知っている?)
シグルドは、そんなライナスの言葉を聞いても、表情を崩さなかった。
「王太子殿下、余計な詮索は不要だ」
「詮索? ただの関心だよ」
ライナスは肩をすくめながら、楽しげに笑った。
「それに、これからのことを考えると、彼の安全は確保すべきだろう?」
シグルドがわずかに眉をひそめる。
「……何を考えている?」
「考えている?」
ライナスはまた笑う。
「君と同じさ。エリオット公爵夫人を、ここで保護するべきだと」
エリオットは思わず息を呑んだ。
(ここで……?)
「公爵家に戻すのは得策ではない。君だって、そう思うだろう?」
ライナスの言葉に、シグルドが無言でエリオットを見つめた。
その視線は、いつも以上に鋭く、何かを確かめるようだった。
もし戻れば、アドリアンが何をするかわからない。
それに、ヴェロニクが次に何を仕掛けてくるかも。
だが、ここに留まるということは——
「……」
エリオットは、静かに唇を噛んだ。
シグルドは低く息を吐くと、一歩エリオットへと近づいた。
「私は、君をここに置きたい」
シグルドの言葉が、静かに空気を震わせた。
金色の瞳がまっすぐにエリオットを捉える。
その瞬間、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
(——ここに、置きたい?)
意味を深く考える前に、隣から軽やかな声が響いた。
「おやおや、シグルド。まるで求婚の言葉みたいじゃないか」
ライナスが悪戯っぽく笑いながら、肩をすくめる。
「ふむふむ。いいねぇ。そうだ、公爵夫人。私もまだ妃がいないんだよ。いっそ私の元に来るのも面白そうじゃないか?君一人を大事にするよ?こう見えても一途なんだ」
冗談めかして言いながらも、その青い瞳はどこか興味深げに輝いている。
シグルドは微かに眉を寄せ、ふざけるな、とだけライナスに告げると、ただ静かにエリオットを見ていた。
(まさか……そんなわけが……)
エリオットは内心で必死に否定する。
だが、シグルドがライナスの言葉に何も反応しないことが、逆に胸の奥を少し締め付ける。
「……お二人とも……戯れがすぎます……」
思わず、そう口にしていた。
しかし、その声はわずかに震えているようにも聞こえた。
ライナスが楽しげに片眉を上げる。
「へえ? じゃあ、公爵夫人はここに残るつもりはない?」
「……」
答えに詰まる。
ここに残れば、アドリアンの執着からは逃れられるかもしれない。
だが、その代わりに——この皇帝陛下の意志に飲み込まれることになる。
「どうする?」
再び、シグルドが問いかけた。
その声は静かだったが、拒絶を許さぬような圧を持っていた。
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エリオットは、静かに拳を握った。
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執着をやめた途端、執着される側になったオメガが、次こそ間違えないようにと、可愛くも真面目に奮闘する物語!
執着アルファ×回帰オメガ
本編では明かされなかった、回帰前の出来事は外伝に掲載しております。
性描写が入るシーンは
※マークをタイトルにつけます。
物語お楽しみいただけたら幸いです。
***
2022.12.26「第10回BL小説大賞」で奨励賞をいただきました!
応援してくれた皆様のお陰です。
ご投票いただけた方、お読みくださった方、本当にありがとうございました!!
☆☆☆
2024.3.13 書籍発売&レンタル開始いたしました!!!!
応援してくださった読者さまのお陰でございます。本当にありがとうございます。書籍化にあたり連載時よりも読みやすく書き直しました。お楽しみいただけたら幸いです。
巣ごもりオメガは後宮にひそむ【続編完結】
晦リリ@9/10『死に戻りの神子~』発売
BL
後宮で幼馴染でもあるラナ姫の護衛をしているミシュアルは、つがいがいないのに、すでに契約がすんでいる体であるという判定を受けたオメガ。
発情期はあるものの、つがいが誰なのか、いつつがいの契約がなされたのかは本人もわからない。
そんななか、気になる匂いの落とし物を後宮で拾うようになる。
第9回BL小説大賞にて奨励賞受賞→書籍化しました。ありがとうございます。
釣った魚、逃した魚
円玉
BL
瘴気や魔獣の発生に対応するため定期的に行われる召喚の儀で、浄化と治癒の力を持つ神子として召喚された三倉貴史。
王の寵愛を受け後宮に迎え入れられたかに見えたが、後宮入りした後は「釣った魚」状態。
王には放置され、妃達には嫌がらせを受け、使用人達にも蔑ろにされる中、何とか穏便に後宮を去ろうとするが放置していながら縛り付けようとする王。
護衛騎士マクミランと共に逃亡計画を練る。
騎士×神子 攻目線
一見、神子が腹黒そうにみえるかもだけど、実際には全く悪くないです。
どうしても文字数が多くなってしまう癖が有るので『一話2500文字以下!』を目標にした練習作として書いてきたもの。
ムーンライト様でもアップしています。
5回も婚約破棄されたんで、もう関わりたくありません
くるむ
BL
進化により男も子を産め、同性婚が当たり前となった世界で、
ノエル・モンゴメリー侯爵令息はルーク・クラーク公爵令息と婚約するが、本命の伯爵令嬢を諦められないからと破棄をされてしまう。その後辛い日々を送り若くして死んでしまうが、なぜかいつも婚約破棄をされる朝に巻き戻ってしまう。しかも5回も。
だが6回目に巻き戻った時、婚約破棄当時ではなく、ルークと婚約する前まで巻き戻っていた。
今度こそ、自分が不幸になる切っ掛けとなるルークに近づかないようにと決意するノエルだが……。
陰日向から愛を馳せるだけで
麻田
BL
あなたに、愛されたい人生だった…――
政略結婚で旦那様になったのは、幼い頃、王都で一目惚れした美しい銀髪の青年・ローレンだった。
結婚式の日、はじめて知った事実に心躍らせたが、ローレンは望んだ結婚ではなかった。
ローレンには、愛する幼馴染のアルファがいた。
自分は、ローレンの子孫を残すためにたまたま選ばれただけのオメガに過ぎない。
「好きになってもらいたい。」
…そんな願いは、僕の夢でしかなくて、現実には成り得ない。
それでも、一抹の期待が拭えない、哀れなセリ。
いつ、ローレンに捨てられてもいいように、準備はしてある。
結婚後、二年経っても子を成さない夫婦に、新しいオメガが宛がわれることが決まったその日から、ローレンとセリの間に変化が起こり始める…
―――例え叶わなくても、ずっと傍にいたかった…
陰日向から愛を馳せるだけで、よかった。
よかったはずなのに…
呼ぶことを許されない愛しい人の名前を心の中で何度も囁いて、今夜も僕は一人で眠る。
◇◇◇
片思いのすれ違い夫婦の話。ふんわり貴族設定。
二人が幸せに愛を伝えあえる日が来る日を願って…。
セリ (18)
南方育ち・黒髪・はしばみの瞳・オメガ・伯爵
ローレン(24)
北方育ち・銀髪・碧眼・アルファ・侯爵
◇◇◇
50話で完結となります。
お付き合いありがとうございました!
♡やエール、ご感想のおかげで最後まではしりきれました。
おまけエピソードをちょっぴり書いてますので、もう少しのんびりお付き合いいただけたら、嬉しいです◎
また次回作のオメガバースでお会いできる日を願っております…!
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