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23、術痕
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屋敷に戻ったときには、午後の陽はすでに傾きはじめていた。
玄関前で馬車を降りると、出迎えた使用人たちが一斉に頭を下げた。その礼にわずかに会釈を返しながらも、僕の心はまだ遠く、記録庫の暗がりと、禁呪の名の残響の中にあった。
(“消される”って、どういうことなんだ……)
自分の存在が“世界から滑らされた”可能性――それを他人の言葉としてではなく、事実として認めた瞬間から、何かがうまく呼吸できない気がしていた。
夕食は断った。
無理に口にすれば吐いてしまいそうなほど、内臓が重かったからだ。
部屋の扉を閉め、上着を脱ぎ捨てたあと、僕はまっすぐ浴室へと向かった。蒸気の立ちこめる湯の中に身を沈めた瞬間、やっと呼吸が少し戻る。
静かだった。
湯面の波が、時おりわずかに灯りを揺らす。
(……存在の記録が失われる。誰の記憶にも引っかからなくなる。痕跡すら残さず……)
そんなことが、どうして可能なんだろう。
僕は自分の肩口に湯をかけ、ふと、鏡に映った自分の首筋に目をやった。
そして、そこで“それ”を見つけた。
「……っ」
思わず、小さく息を呑んだ。
うっすらと、皮膚の下に浮かび上がるような淡い“文様”。
傷ではない。刺青でもない。
どこか、魔法陣にも似た形状だった。
湯気と光の加減で、消えそうなほどに薄い。
けれど、たしかにそこにあった。
恐る恐る指を伸ばして触れてみると、微かに、火傷のような痛みが走る。
思わず手を引き、湯に沈める。
けれど目を離すことができなかった。
(……なんだ、これ)
何度見ても、見間違いとは思えなかった。
思わず目を閉じ、額に手を当てる――その瞬間。
ぐらり、と視界が傾いた。
「――っ……あ……」
頭の奥で、何かが脈打つように震える。
それは、言葉ではない。
映像でもない。
ただ、“肌の記憶”とでも言うような、得体の知れない感覚。
──金属の音。
──誰かの声。
──宙に浮かぶ、白い光。
──冷たい何かが、僕の額に触れた――。
そこで、意識がふっと戻った。
何が起きたのか、一瞬わからなかった。
ただ、湯に沈めた指先がかすかに震えているのを感じた。
(……これが、“消されかけた痕”……?)
誰かが僕に、何かを施した。
記録から消し去るための、強制的な術式。
それが、いまになって皮膚の下から浮かび上がってきたのだ。
(じゃあ、僕は“記録”じゃなくて、肉体に刻まれて……?)
今になってようやく、自分の“死”がどういう形で訪れたのか、現実味を持って迫ってくる。
記憶を消される、というのはまだ理解できる。
でも、存在そのものを“上書き”されるというのは、それだけで“魂”に触れるような行為だ。
そして、もしそれをした術者が、今もどこかにいるのだとしたら――
(……僕は、ただの生き残りなんかじゃない)
“失敗作”だ。
あるいは、“見落とされた誤差”。
だからこそ、今こうして生きているのかもしれない。
じゃあ、何の?
何にに使われる予定だった?
震える手でバスタオルを取り、身体を包む。
ふらつく足取りのまま、寝室へと戻る。
着替える気にもなれず、薄手のローブを羽織って、机の前に座った。
ペンと紙を取り出す。
何を書こうとしているのか、自分でもわかっていなかった。
でも、この痕があることだけは、どこかに記しておかなくてはいけない気がした。
(……記録に残らない記憶なら、自分で書き残すしかない)
紙の上に、震える筆跡で文様の形を描く。
自分が見たもの。
肌に残っていた、術痕。
僕だけが覚えていること。
僕にしか見えなかった“証拠”。
きっとそれが、今できる最初の一歩だった。
ペンを置くと、ゆっくりと背もたれに身を預けた。
呼吸はまだ浅いけれど、さっきよりはずっとましだった。
そして思う。
(……ますます、婚約破棄とか……できなくないか、僕。嫌われシナリオ、まだ残ってるんだけどなぁ……)
冗談のように浮かんだその言葉は、でも意外なほど僕の胸に真っ直ぐに刺さった。
消されかけた命。
でも、繋がれた縁。
ならば、もう少しだけ踏み込んでみても――いいのかもしれない。
揺れる灯りの中で、僕は目を閉じた。
玄関前で馬車を降りると、出迎えた使用人たちが一斉に頭を下げた。その礼にわずかに会釈を返しながらも、僕の心はまだ遠く、記録庫の暗がりと、禁呪の名の残響の中にあった。
(“消される”って、どういうことなんだ……)
自分の存在が“世界から滑らされた”可能性――それを他人の言葉としてではなく、事実として認めた瞬間から、何かがうまく呼吸できない気がしていた。
夕食は断った。
無理に口にすれば吐いてしまいそうなほど、内臓が重かったからだ。
部屋の扉を閉め、上着を脱ぎ捨てたあと、僕はまっすぐ浴室へと向かった。蒸気の立ちこめる湯の中に身を沈めた瞬間、やっと呼吸が少し戻る。
静かだった。
湯面の波が、時おりわずかに灯りを揺らす。
(……存在の記録が失われる。誰の記憶にも引っかからなくなる。痕跡すら残さず……)
そんなことが、どうして可能なんだろう。
僕は自分の肩口に湯をかけ、ふと、鏡に映った自分の首筋に目をやった。
そして、そこで“それ”を見つけた。
「……っ」
思わず、小さく息を呑んだ。
うっすらと、皮膚の下に浮かび上がるような淡い“文様”。
傷ではない。刺青でもない。
どこか、魔法陣にも似た形状だった。
湯気と光の加減で、消えそうなほどに薄い。
けれど、たしかにそこにあった。
恐る恐る指を伸ばして触れてみると、微かに、火傷のような痛みが走る。
思わず手を引き、湯に沈める。
けれど目を離すことができなかった。
(……なんだ、これ)
何度見ても、見間違いとは思えなかった。
思わず目を閉じ、額に手を当てる――その瞬間。
ぐらり、と視界が傾いた。
「――っ……あ……」
頭の奥で、何かが脈打つように震える。
それは、言葉ではない。
映像でもない。
ただ、“肌の記憶”とでも言うような、得体の知れない感覚。
──金属の音。
──誰かの声。
──宙に浮かぶ、白い光。
──冷たい何かが、僕の額に触れた――。
そこで、意識がふっと戻った。
何が起きたのか、一瞬わからなかった。
ただ、湯に沈めた指先がかすかに震えているのを感じた。
(……これが、“消されかけた痕”……?)
誰かが僕に、何かを施した。
記録から消し去るための、強制的な術式。
それが、いまになって皮膚の下から浮かび上がってきたのだ。
(じゃあ、僕は“記録”じゃなくて、肉体に刻まれて……?)
今になってようやく、自分の“死”がどういう形で訪れたのか、現実味を持って迫ってくる。
記憶を消される、というのはまだ理解できる。
でも、存在そのものを“上書き”されるというのは、それだけで“魂”に触れるような行為だ。
そして、もしそれをした術者が、今もどこかにいるのだとしたら――
(……僕は、ただの生き残りなんかじゃない)
“失敗作”だ。
あるいは、“見落とされた誤差”。
だからこそ、今こうして生きているのかもしれない。
じゃあ、何の?
何にに使われる予定だった?
震える手でバスタオルを取り、身体を包む。
ふらつく足取りのまま、寝室へと戻る。
着替える気にもなれず、薄手のローブを羽織って、机の前に座った。
ペンと紙を取り出す。
何を書こうとしているのか、自分でもわかっていなかった。
でも、この痕があることだけは、どこかに記しておかなくてはいけない気がした。
(……記録に残らない記憶なら、自分で書き残すしかない)
紙の上に、震える筆跡で文様の形を描く。
自分が見たもの。
肌に残っていた、術痕。
僕だけが覚えていること。
僕にしか見えなかった“証拠”。
きっとそれが、今できる最初の一歩だった。
ペンを置くと、ゆっくりと背もたれに身を預けた。
呼吸はまだ浅いけれど、さっきよりはずっとましだった。
そして思う。
(……ますます、婚約破棄とか……できなくないか、僕。嫌われシナリオ、まだ残ってるんだけどなぁ……)
冗談のように浮かんだその言葉は、でも意外なほど僕の胸に真っ直ぐに刺さった。
消されかけた命。
でも、繋がれた縁。
ならば、もう少しだけ踏み込んでみても――いいのかもしれない。
揺れる灯りの中で、僕は目を閉じた。
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