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第1話 静かな婚約破棄
しおりを挟む大理石の床に、私の影だけが落ちていた。
王城の謁見の間。
豪奢な天井画の下、整然と並ぶ貴族たちの視線が、一斉にこちらへ向けられる。その重さに、背筋が自然と伸びた。
「――リリアーナ・フォン・エルヴェイン」
王太子アルフォンス殿下の声は、よく通る。
けれどそこに、かつて私に向けられていた温度はなかった。
「本日をもって、君との婚約を破棄する」
――やはり。
胸の奥が、きしりと音を立てた気がした。
驚きはなかった。むしろ、ようやく来た、という安堵に近い。
「理由は明白だ。君は度を越して傲慢で、嫉妬深く、聖女であるマリエルを幾度も陥れた」
背後で、誰かが息を呑む音がした。
マリエル様は、殿下の隣で小さく肩を震わせている。白いドレスが、よく似合っていた。
「……身に覚えが、ございますか?」
形式的な問い。
答えは、最初から決まっている。
私は一歩前へ出て、ゆっくりと頭を下げた。
「いいえ。ですが……私の言葉が、信じていただけないことは理解しております」
ざわり、と空気が揺れる。
おそらく“悪役令嬢らしくない”反応だったのだろう。
殿下の眉が、わずかに動いた。
「……弁明はしないのか?」
「いたしません」
私は顔を上げ、まっすぐ殿下を見た。
「殿下は、もうお決めになっている。ここで私が何を申し上げても、それは“言い訳”にしかならないでしょう」
沈黙が落ちた。
正直に言えば、怖くなかったわけではない。
けれど、それ以上に――疲れていた。
誰かの悪意を、何度も説明しようとして。
誰かの涙の裏を、誰にも見てもらえなくて。
「……では、罰を言い渡す」
殿下の声が冷たくなる。
「リリアーナ・フォン・エルヴェインは、王太子婚約者の地位を剥奪。王都での社交参加を禁じ、実家にて謹慎とする」
ざわめきが広がる。
“追放ではない”という点に、拍子抜けした者もいたかもしれない。
私は、静かに息を吐いた。
「……承知いたしました」
深く、深く礼をする。
それで終わりだ。私の役目は。
――そう思った、その時。
「リリアーナ様……!」
か細い声が響いた。
マリエル様だ。
「どうして……どうして、そんなに冷静でいられるのですか……?私、怖くて……」
涙を浮かべるその姿に、周囲がざわつく。
庇護欲を刺激する、完璧な仕草。
私は、思わず言葉を失った。
「私……あなたに嫌われていた理由が、わからなくて……」
――嫌ってなど、いない。
喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。
ここで何を言っても、彼女を傷つける“悪役”になるだけだ。
だから私は、微笑んだ。
「……どうか、お幸せに」
それだけ言って、再び頭を下げる。
その瞬間――
ぞわり、と背筋を走る感覚。
視線。
圧倒的な、怒気を孕んだそれ。
私は反射的に、扉の方を見た。
――立っていた。
黒い軍服を纏った、長身の男。
氷のような瞳で、謁見の間を睥睨している。
長兄、アルベルト。
その隣には、紫紺のローブを纏った次兄、レオンハルト。
そして、微笑みを貼り付けた三兄、ユリウス。
――どうして、ここに。
私が言葉を失うより先に、アルベルトが一歩踏み出した。
「……これは、どういう状況だ」
低く、抑えた声。
それだけで、場の空気が凍りつく。
殿下が、わずかに顔を強張らせた。
「エルヴェイン公爵家当主代理、アルベルト卿……これは正式な――」
「聞いている」
遮るように、兄は言った。
「婚約破棄。公開断罪。……そして」
彼の視線が、私へ落ちる。
その瞬間。
氷が溶けるように、表情が変わった。
「――俺の妹が、傷つけられた」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「兄、様……?」
呼びかけた声は、震えていた。
アルベルトは、ゆっくりと私の前に立ち、外套を脱ぐ。
そして――迷いなく、私の肩に掛けた。
「帰るぞ、リリアーナ」
その一言に、なぜか涙が滲んだ。
「……だが、覚えておけ」
兄は、謁見の間全体に向けて告げる。
「この件。エルヴェイン家は、決して忘れない」
静かな宣告だった。
けれどそれは――
この国で最も恐れられる、“最強一家”の名の下に放たれた、始まりの言葉だった。
私はまだ知らない。
この日を境に、自分がどれほどの愛に囲われていたのかを。
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