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第5話 焦りは、仮面を歪ませる
しおりを挟む聖女マリエルは、鏡の前で自分の顔を見つめていた。
白く整えられた肌。
慈愛に満ちた微笑み。
――完璧な“聖女”の顔。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「私は、選ばれた存在。あの人は……もう、終わった」
そう。
婚約破棄は、成功したはずだった。
なのに。
「……どうして」
指先が、わずかに震える。
王城の廊下で交わされる、微妙な視線。
以前のような、無条件の崇拝が――薄れている。
理由は、分かっていた。
「エルヴェイン……」
あの家が、動いている。
――いや。
“動いていない”こと自体が、異常なのだ。
沈黙。
それは、最も雄弁な圧力だった。
*
「マリエル様」
控えめな声に、彼女は肩を跳ねさせた。
「……何?」
振り向いた先に立っていたのは、神殿付きの若い神官だった。
「本日の癒やしの儀式ですが……」
「ああ、ええ。いつも通りでいいわ」
笑顔を作る。
聖女の、完璧な微笑み。
「ただ……」
神官は、言いづらそうに視線を伏せた。
「参加者が、少なく……」
「……少ない?」
マリエルの声が、わずかに裏返る。
「どういうこと?」
「その……エルヴェイン公爵家の方々が、参加を見送られると……」
――その名を、聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「……あの家が、来ないだけでしょう?」
努めて冷静に言う。
「他にも、信徒は――」
「それが……」
神官は、さらに声を潜めた。
「最近、“様子を見る”という方が増えておりまして……」
様子を見る。
それは、信じていた“聖女”に対して向ける言葉ではない。
「……わかりました」
マリエルは、笑顔を保ったまま告げた。
「では――私が、直接動きます」
*
その日の午後。
王都の小さな広場で、聖女マリエルは人々に囲まれていた。
「皆さま……」
慈しむような声。
「最近、心を痛めている方が多いと聞きました。私にできることがあれば……」
集まった人々は、ざわつく。
以前なら、すぐに跪き、感涙にむせんだはずだった。
――けれど。
「……あの、聖女様」
一人の女性が、恐る恐る口を開いた。
「はい?」
「エルヴェイン公爵令嬢様の件……本当なのでしょうか?」
空気が、ぴたりと止まる。
マリエルの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……何を、仰りたいのですか?」
「その……あの方、本当に、私たちを陥れたり……」
「――当然です」
被せるように、強い口調で答えてしまった。
しまった、と思った時には遅い。
「彼女は、私を妬み……」
言葉を重ねるほど、周囲の視線が変わっていく。
「……でも」
今度は、年配の男性が言った。
「私の娘は、あの方に助けられました」
別の声。
「私もです」
「俺も……」
ぽつり、ぽつりと――
集まった人々が、口々に語り始める。
マリエルは、息を呑んだ。
――知らなかった。
リリアーナが、こんなにも多くの人に“記憶されていた”ことを。
「……それは、誤解です」
声が、少しだけ尖る。
「あの方は、表面上、優しく振る舞っていただけで――」
「……聖女様」
最初に声を上げた女性が、静かに言った。
「それ、本当に“見た”ことですか?」
胸を、鋭いもので突かれたような感覚。
「誰かから、聞いた話ではなく?」
――しまった。
その瞬間、マリエルは悟った。
これが、失策だと。
*
その夜。
王太子の執務室で、マリエルは焦りを隠せずにいた。
「殿下……人々が……」
「聞いた」
アルフォンスは、苛立たしげに言った。
「最近、お前の評判が――」
「違います!」
思わず、声を荒げる。
「全部、あの女が……!」
言い切った瞬間、空気が凍った。
アルフォンスが、ゆっくりとこちらを見る。
「……“あの女”?」
しまった。
慌てて口を押さえる。
「い、いえ……その……」
だが、もう遅い。
殿下の中で、何かが引っかかったのが分かった。
*
一方、その頃。
私は、屋敷の書庫で本を読んでいた。
「……?」
ふと、胸騒ぎがする。
理由は、わからない。
「リリアーナ」
ユリウス兄様が、静かに声をかけた。
「外で、少しだけ……面白い動きがあった」
「……面白い、ですか?」
「うん」
意味深な微笑み。
「君は、何もしなくていい」
その言葉に、私は小さく頷いた。
――何もしていないのに。
それでも、物語は進んでいく。
偽りの聖女は、自分で踏み出した一歩で――
“完璧な仮面”に、最初の亀裂を入れてしまったのだから。
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