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番外編
番外編 名を呼ばれぬ夜に
しおりを挟む夜は、後宮よりも静かだった。
焚き火のはぜる音だけが、山間の闇に溶けている。
玉玲は、薬草を刻む手を止め、火の向こうに座る玄曜を見た。
彼は相変わらず、少し離れた場所にいる。
近づきすぎれば壊れると、互いに知っている距離。
「……今日は、喰わなかったのですね」
何気ない声で言うと、玄曜は目を伏せたまま頷いた。
「ああ」
それだけ。
理由を問わなくても、玉玲には分かる。
今日は、人の気配が多かった。
村で起きた疫病の診立てに呼ばれ、子どもや老人に囲まれた一日だった。
玄曜は、そういう日の夜は喰わない。
「無理は、していませんか」
「している」
即答だった。
玉玲は、苦笑する。
「……正直ですね」
「誤魔化す意味がない」
彼は焚き火を見る。
炎の揺れが、鬼の影を一瞬だけ浮かび上がらせた。
「だが」
低い声。
「喰わない理由も、分かっている」
玉玲は、それ以上聞かなかった。
*
旅を始めて、季節が一つ変わった。
後宮にいた頃の玉玲は、薬師だった。
今は――ただの、女だ。
名を名乗らず、記録もなく、ただ必要とされる場所へ行く。
「薬師様」
そう呼ばれることもある。
だが、名は問われない。
(……楽ですね)
玉玲は、心の中で呟く。
名がないということは、
過去を問われないということでもあった。
*
「玉玲」
玄曜が、ふいに名を呼ぶ。
玉玲の手が、止まった。
「……どうしました」
「お前は」
言葉を探す間。
「名を捨てて、後悔しているか」
問いは、静かだった。
玉玲は、少し考えた。
「……いいえ」
答えは、すぐに出た。
「後悔は、あります。でも」
焚き火に、薬草を放り込む。
「名を持っていた頃の私には、戻りたくありません」
玄曜は、何も言わない。
だが、その沈黙は否定ではない。
*
玉玲は、袖をまくる。
手首の赤い痕は、薄くなったが、消えてはいない。
「これが残っている限り」
境界の証。
「私は、完全には人ではありません」
「……ああ」
「でも」
玉玲は、玄曜を見る。
「人であろうと、することはできます」
玄曜の目が、わずかに揺れた。
「……俺は」
喉の奥で、言葉が詰まる。
「人ではない」
「知っています」
玉玲は、遮らなかった。
「でも」
少しだけ、声を柔らかくする。
「人の側に、立つことはできます」
*
風が吹き、焚き火が揺れた。
玄曜は、ゆっくりと立ち上がり、玉玲の前に来る。
距離が、近い。
それでも、触れない。
「……俺が、もし」
低く、慎重な声。
「理性を失ったら」
「その時は」
玉玲は、迷わず答える。
「私が、止めます」
「……喰われるぞ」
「診てから、判断します」
薬師らしい返答に、玄曜は小さく息を吐いた。
「……相変わらずだな」
*
沈黙。
だが、重くはない。
玉玲は、ふと気づいた。
後宮では、こんな沈黙は許されなかった。
沈黙は、疑いであり、罪だった。
今は違う。
何も語らなくても、ここにいられる。
*
「玄曜様」
「……何だ」
「あなたは、名前を捨てたいですか」
不意の問い。
玄曜は、少し驚いたように瞬きをした。
「……分からない」
正直な答え。
「名を持てば、縛られる」
「そうですね」
「だが」
一瞬、視線が玉玲に向く。
「呼ばれるのは……悪くない」
玉玲は、微笑んだ。
「では」
焚き火の音に紛れるように。
「私が呼びましょうか」
玄曜は、何も言わない。
拒まない。
それが、答えだった。
*
夜が深まる。
遠くで、獣の声。
玄曜は、そちらを見てから、玉玲に言った。
「……今日は、ここまでだ」
「ええ」
玉玲は頷く。
横になる準備をしながら、ぽつりと呟く。
「明日は、峠を越えましょう」
「危険だ」
「必要とされる場所です」
玄曜は、短く笑った。
「……相変わらず、選ぶな」
*
眠りに落ちる前。
玉玲は、心の中で思う。
後宮では、選ぶことは罪だった。
今は違う。
選ぶことが、生きることだ。
名がなくても。
境界に立っていても。
誰にも記されなくても。
焚き火の向こうで、玄曜の気配が動く。
守るために。
喰わないために。
玉玲は、静かに目を閉じた。
名を呼ばれぬ夜は、それでも確かに――温かかった。
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