『後宮薬師は名を持たない』

由香

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番外編

番外編 名を呼ばれぬ夜に

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 夜は、後宮よりも静かだった。

 焚き火のはぜる音だけが、山間の闇に溶けている。
 玉玲は、薬草を刻む手を止め、火の向こうに座る玄曜を見た。

 彼は相変わらず、少し離れた場所にいる。
 近づきすぎれば壊れると、互いに知っている距離。

「……今日は、喰わなかったのですね」

 何気ない声で言うと、玄曜は目を伏せたまま頷いた。

「ああ」

 それだけ。

 理由を問わなくても、玉玲には分かる。
 今日は、人の気配が多かった。
 村で起きた疫病の診立てに呼ばれ、子どもや老人に囲まれた一日だった。

 玄曜は、そういう日の夜は喰わない。

「無理は、していませんか」

「している」

 即答だった。

 玉玲は、苦笑する。

「……正直ですね」

「誤魔化す意味がない」

 彼は焚き火を見る。
 炎の揺れが、鬼の影を一瞬だけ浮かび上がらせた。

「だが」

 低い声。

「喰わない理由も、分かっている」

 玉玲は、それ以上聞かなかった。



 旅を始めて、季節が一つ変わった。

 後宮にいた頃の玉玲は、薬師だった。
 今は――ただの、女だ。

 名を名乗らず、記録もなく、ただ必要とされる場所へ行く。

「薬師様」

 そう呼ばれることもある。

 だが、名は問われない。

(……楽ですね)

 玉玲は、心の中で呟く。

 名がないということは、
 過去を問われないということでもあった。



「玉玲」

 玄曜が、ふいに名を呼ぶ。

 玉玲の手が、止まった。

「……どうしました」

「お前は」

 言葉を探す間。

「名を捨てて、後悔しているか」

 問いは、静かだった。

 玉玲は、少し考えた。

「……いいえ」

 答えは、すぐに出た。

「後悔は、あります。でも」

 焚き火に、薬草を放り込む。

「名を持っていた頃の私には、戻りたくありません」

 玄曜は、何も言わない。

 だが、その沈黙は否定ではない。



 玉玲は、袖をまくる。

 手首の赤い痕は、薄くなったが、消えてはいない。

「これが残っている限り」

 境界の証。

「私は、完全には人ではありません」

「……ああ」

「でも」

 玉玲は、玄曜を見る。

「人であろうと、することはできます」

 玄曜の目が、わずかに揺れた。

「……俺は」

 喉の奥で、言葉が詰まる。

「人ではない」

「知っています」

 玉玲は、遮らなかった。

「でも」

 少しだけ、声を柔らかくする。

「人の側に、立つことはできます」



 風が吹き、焚き火が揺れた。

 玄曜は、ゆっくりと立ち上がり、玉玲の前に来る。

 距離が、近い。

 それでも、触れない。

「……俺が、もし」

 低く、慎重な声。

「理性を失ったら」

「その時は」

 玉玲は、迷わず答える。

「私が、止めます」

「……喰われるぞ」

「診てから、判断します」

 薬師らしい返答に、玄曜は小さく息を吐いた。

「……相変わらずだな」



 沈黙。

 だが、重くはない。

 玉玲は、ふと気づいた。

 後宮では、こんな沈黙は許されなかった。
 沈黙は、疑いであり、罪だった。

 今は違う。

 何も語らなくても、ここにいられる。



「玄曜様」

「……何だ」

「あなたは、名前を捨てたいですか」

 不意の問い。

 玄曜は、少し驚いたように瞬きをした。

「……分からない」

 正直な答え。

「名を持てば、縛られる」

「そうですね」

「だが」

 一瞬、視線が玉玲に向く。

「呼ばれるのは……悪くない」

 玉玲は、微笑んだ。

「では」

 焚き火の音に紛れるように。

「私が呼びましょうか」

 玄曜は、何も言わない。

 拒まない。

 それが、答えだった。



 夜が深まる。

 遠くで、獣の声。

 玄曜は、そちらを見てから、玉玲に言った。

「……今日は、ここまでだ」

「ええ」

 玉玲は頷く。

 横になる準備をしながら、ぽつりと呟く。

「明日は、峠を越えましょう」

「危険だ」

「必要とされる場所です」

 玄曜は、短く笑った。

「……相変わらず、選ぶな」



 眠りに落ちる前。

 玉玲は、心の中で思う。

 後宮では、選ぶことは罪だった。
 今は違う。

 選ぶことが、生きることだ。

 名がなくても。
 境界に立っていても。

 誰にも記されなくても。

 焚き火の向こうで、玄曜の気配が動く。

 守るために。
 喰わないために。

 玉玲は、静かに目を閉じた。

 名を呼ばれぬ夜は、それでも確かに――温かかった。




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