『後宮薬師は名を持たない』

由香

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第四章:鬼神と帝

第12話 薬師の選択

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 後宮の門が閉じた音は、思いのほか静かだった。

 軋みも、怒号もない。

 ただ、区切りの音だった。



 玉玲と玄曜は、都の外れまで歩いていた。

 振り返らない。

 振り返れば、そこにあったものが、まだ“意味を持ってしまう”から。

「……これから、どうする」

 玄曜が、歩きながら言った。

「分かりません」

 玉玲は、正直に答えた。

「ただ」

 一拍、置く。

「薬師でいることは、やめません」



 川辺で、二人は足を止めた。

 水は澄んでいる。

 後宮の香も、血も、届かない場所。

 玉玲は、懐から小さな包みを取り出した。

 母の手記。

 もう、閉じられた頁。

「母は、後宮で死にました」

 ぽつりと、言う。

「でも」

 水面を見る。

「私は、後宮の外で、生きます」



 玄曜は、彼女を見る。

 人であり、鬼に近づいた存在。

「……後悔は」

「あります」

 玉玲は、笑った。

「たくさん」

 それでも。

「選ばなかった後悔より、選んだ後悔の方が、まだ耐えられます」



 玄曜は、少しだけ目を伏せる。

「俺は、どうすればいい」

 鬼神。

 喰う存在。

 居場所など、どこにもない。

「……一緒に来ますか」

 玉玲は、あっさり言った。

 玄曜が、驚いたように目を上げる。

「あなたは、喰います」

「それでも」

 玉玲は、彼を見た。

「喰う理由を、選べる」



 風が、吹いた。

 水面が、揺れる。

 玉玲は、袖をまくり、手首を見せた。

 かすかに、赤い紋。

 鬼血丹の痕。

「完全には、戻れません」

「……ああ」

「でも」

 微笑む。

「境界に立つ者として、生きることはできます」



 玄曜は、しばらく黙っていた。

 やがて、静かに言う。

「……守る」

 誓いというより、決意。

「喰う前に」

「ええ」

 玉玲は、頷いた。

「診てから、決めましょう」



 その後。

 都では、帝が目を覚ましたと噂された。

 だが、鬼の話は出なかった。

 皇子は、生きている。

 ただ、少しだけ、影を見るようになったという。

 蘇玉玲という名は、記録から消えた。

 処刑された薬師の娘としてではなく、存在しなかった者として。



 だが。

 街道を行く旅人の間で、こんな話が囁かれる。

――あやかしに遭った夜、

――鬼の影と、女の薬師に助けられた。

――彼女は、名を名乗らなかった。

――ただ、こう言った。

『選べるなら、生きなさい』



 夕暮れ。

 焚き火のそばで、玉玲は薬草を干している。

 玄曜は、少し離れた場所で、空を見ていた。

 人でも、鬼でもない空。

「……明日は、山を越えましょう」

「危険だ」

「ええ」

 玉玲は、笑った。

「でも、必要とする人がいます」



 炎が、ぱちりと鳴る。

 それは、後宮を焼いた炎とは違う。

 命を、温める火。

 玉玲は、母の手記を胸に抱いた。

 答えは、書かれていない。

 だからこそ。

 選び続ける。

 薬師として。
 境界に立つ者として。

 そして――

 人として。




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