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第四章:鬼神と帝
第12話 薬師の選択
しおりを挟む後宮の門が閉じた音は、思いのほか静かだった。
軋みも、怒号もない。
ただ、区切りの音だった。
*
玉玲と玄曜は、都の外れまで歩いていた。
振り返らない。
振り返れば、そこにあったものが、まだ“意味を持ってしまう”から。
「……これから、どうする」
玄曜が、歩きながら言った。
「分かりません」
玉玲は、正直に答えた。
「ただ」
一拍、置く。
「薬師でいることは、やめません」
*
川辺で、二人は足を止めた。
水は澄んでいる。
後宮の香も、血も、届かない場所。
玉玲は、懐から小さな包みを取り出した。
母の手記。
もう、閉じられた頁。
「母は、後宮で死にました」
ぽつりと、言う。
「でも」
水面を見る。
「私は、後宮の外で、生きます」
*
玄曜は、彼女を見る。
人であり、鬼に近づいた存在。
「……後悔は」
「あります」
玉玲は、笑った。
「たくさん」
それでも。
「選ばなかった後悔より、選んだ後悔の方が、まだ耐えられます」
*
玄曜は、少しだけ目を伏せる。
「俺は、どうすればいい」
鬼神。
喰う存在。
居場所など、どこにもない。
「……一緒に来ますか」
玉玲は、あっさり言った。
玄曜が、驚いたように目を上げる。
「あなたは、喰います」
「それでも」
玉玲は、彼を見た。
「喰う理由を、選べる」
*
風が、吹いた。
水面が、揺れる。
玉玲は、袖をまくり、手首を見せた。
かすかに、赤い紋。
鬼血丹の痕。
「完全には、戻れません」
「……ああ」
「でも」
微笑む。
「境界に立つ者として、生きることはできます」
*
玄曜は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「……守る」
誓いというより、決意。
「喰う前に」
「ええ」
玉玲は、頷いた。
「診てから、決めましょう」
*
その後。
都では、帝が目を覚ましたと噂された。
だが、鬼の話は出なかった。
皇子は、生きている。
ただ、少しだけ、影を見るようになったという。
蘇玉玲という名は、記録から消えた。
処刑された薬師の娘としてではなく、存在しなかった者として。
*
だが。
街道を行く旅人の間で、こんな話が囁かれる。
――あやかしに遭った夜、
――鬼の影と、女の薬師に助けられた。
――彼女は、名を名乗らなかった。
――ただ、こう言った。
『選べるなら、生きなさい』
*
夕暮れ。
焚き火のそばで、玉玲は薬草を干している。
玄曜は、少し離れた場所で、空を見ていた。
人でも、鬼でもない空。
「……明日は、山を越えましょう」
「危険だ」
「ええ」
玉玲は、笑った。
「でも、必要とする人がいます」
*
炎が、ぱちりと鳴る。
それは、後宮を焼いた炎とは違う。
命を、温める火。
玉玲は、母の手記を胸に抱いた。
答えは、書かれていない。
だからこそ。
選び続ける。
薬師として。
境界に立つ者として。
そして――
人として。
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