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第四章:鬼神と帝
第11話 後宮炎上
しおりを挟む後宮が燃えたのは、火を放たれたからではない。
真実が、漏れたからだ。
*
帝が倒れ、目覚めぬまま床に伏せた翌朝。
後宮には、奇妙な噂が走った。
――帝は、呪われていた。
――皇子は、あやかしに喰われかけた。
――すべては、薬師の一族の業だ。
噂は、正確ではない。
だが、都合がよかった。
*
「薬師・蘇玉玲を捕らえよ」
朝議が始まる前に、命は下った。
理由は単純。
帝が口を開けぬ今、責任を負わせる“生きた人間”が必要だった。
*
玉玲は、薬庫にいた。
静かだった。
あまりにも。
「……来ますね」
背後で、玄曜が息を殺す。
「ああ」
廊下の先から、足音。
人の数。
武具の擦れる音。
鬼ではない。
人だ。
*
扉が開く。
「蘇玉玲!」
甲高い声。
「帝に禁薬を盛り、皇子を怪異に晒した罪――」
「違います」
玉玲は、遮った。
「私は、救いました」
宦官は、嗤う。
「それを決めるのは、お前ではない」
*
玄曜が、一歩前に出る。
鬼気が、溢れかける。
「下がって下さい」
玉玲が、低く言った。
「……玉玲」
「あなたが出れば、“怪異の証明”になります」
玄曜は、歯を噛みしめ、動きを止めた。
*
玉玲は、宦官たちを見渡す。
「帝は、生きています」
「だが、眠ったままだ」
「それは――」
言いかけて、やめた。
(……言っても、聞かれない)
彼らは、結論を欲している。
真実ではない。
*
「捕らえよ!」
号令。
その瞬間。
――轟音。
遠くで、何かが崩れた。
*
後宮の奥から、黒煙が上がる。
「な、何だ!」
「怪異だ!」
悲鳴が、連鎖する。
玉玲は、目を閉じた。
(……来てしまった)
*
帝の夢から追い出された“残滓”。
喰われきらなかった影。
それは、人の恐怖を餌にして増える。
後宮は、格好の棲み処だった。
*
影が、柱を這う。
女官が、倒れる。
宦官たちが、我先にと逃げ出す。
秩序は、一瞬で崩れた。
「……玄曜様」
「分かっている」
彼は、もう抑えなかった。
*
鬼神が、顕れる。
炎のような鬼気。
影は、悲鳴を上げた。
喰われる。
消える。
だが――
「多すぎる」
玄曜が、低く呟く。
「後宮全体に、広がっている」
*
玉玲は、走った。
人の悲鳴の中を。
燃える灯。
倒れる人。
人が、人を踏み越える光景。
(……これが、炎上)
怪異よりも、よほど恐ろしい。
*
広場に出たとき。
玉玲は、見た。
人々が、一人の女官を囲んでいる。
「お前が、帝に薬を運んだ!」
「違います!」
否定は、届かない。
恐怖は、理由を欲しない。
「やめて!」
玉玲が、叫ぶ。
だが――
石が、投げられた。
*
その瞬間。
玉玲の中で、何かが切れた。
「――やめなさい」
声は、小さかった。
だが。
空気が、凍った。
人々が、動きを止める。
*
玉玲の瞳が、赤く光る。
鬼血丹の残滓。
境界の力。
「……怪異は、私が止めます」
震えない声。
「でも」
一歩、前に出る。
「それ以上、人を壊すなら」
言葉を、選ばない。
「あなたたち自身が、怪異になります」
*
沈黙。
誰も、反論できなかった。
なぜなら――
彼女の背後に、鬼神が立っていたから。
*
影は、すべて喰われた。
後宮に、朝が戻る。
瓦礫と、涙と、沈黙だけを残して。
*
玉玲は、広場の中央で、膝をついた。
身体が、重い。
人の視線が、突き刺さる。
恐れ。
憎しみ。
そして、わずかな――救われたという安堵。
それらすべてが、向けられていた。
*
老宦官が、前に出る。
「……蘇玉玲」
声が、震えている。
「そなたは、もはや後宮に置けぬ」
それは、処罰ではない。
追放だった。
*
「分かりました」
玉玲は、静かに答えた。
抵抗は、しない。
「帝が目覚めたとき」
老宦官が、続ける。
「そなたの名は、消される」
「……それで、結構です」
*
玉玲は、立ち上がる。
玄曜を見る。
「……行きましょう」
「ああ」
*
後宮の門を出るとき。
玉玲は、一度だけ振り返った。
燃え尽きた場所。
守られるはずだった世界。
(……母さん)
あなたが守れなかった後宮を、私は――燃やしてしまいました。
答えは、ない。
だが。
空は、静かに晴れていた。
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