『後宮薬師は名を持たない』

由香

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第四章:鬼神と帝

第11話 後宮炎上

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 後宮が燃えたのは、火を放たれたからではない。

 真実が、漏れたからだ。



 帝が倒れ、目覚めぬまま床に伏せた翌朝。

 後宮には、奇妙な噂が走った。

――帝は、呪われていた。

――皇子は、あやかしに喰われかけた。

――すべては、薬師の一族の業だ。

 噂は、正確ではない。
 だが、都合がよかった。



「薬師・蘇玉玲を捕らえよ」

 朝議が始まる前に、命は下った。

 理由は単純。

 帝が口を開けぬ今、責任を負わせる“生きた人間”が必要だった。



 玉玲は、薬庫にいた。

 静かだった。

 あまりにも。

「……来ますね」

 背後で、玄曜が息を殺す。

「ああ」

 廊下の先から、足音。

 人の数。
 武具の擦れる音。

 鬼ではない。
 人だ。



 扉が開く。

「蘇玉玲!」

 甲高い声。

「帝に禁薬を盛り、皇子を怪異に晒した罪――」

「違います」

 玉玲は、遮った。

「私は、救いました」

 宦官は、嗤う。

「それを決めるのは、お前ではない」



 玄曜が、一歩前に出る。

 鬼気が、溢れかける。

「下がって下さい」

 玉玲が、低く言った。

「……玉玲」

「あなたが出れば、“怪異の証明”になります」

 玄曜は、歯を噛みしめ、動きを止めた。



 玉玲は、宦官たちを見渡す。

「帝は、生きています」

「だが、眠ったままだ」

「それは――」

 言いかけて、やめた。

(……言っても、聞かれない)

 彼らは、結論を欲している。

 真実ではない。



「捕らえよ!」

 号令。

 その瞬間。

 ――轟音。

 遠くで、何かが崩れた。



 後宮の奥から、黒煙が上がる。

「な、何だ!」

「怪異だ!」

 悲鳴が、連鎖する。

 玉玲は、目を閉じた。

(……来てしまった)



 帝の夢から追い出された“残滓”。

 喰われきらなかった影。

 それは、人の恐怖を餌にして増える。

 後宮は、格好の棲み処だった。



 影が、柱を這う。

 女官が、倒れる。

 宦官たちが、我先にと逃げ出す。

 秩序は、一瞬で崩れた。

「……玄曜様」

「分かっている」

 彼は、もう抑えなかった。



 鬼神が、顕れる。

 炎のような鬼気。

 影は、悲鳴を上げた。

 喰われる。

 消える。

 だが――

「多すぎる」

 玄曜が、低く呟く。

「後宮全体に、広がっている」



 玉玲は、走った。

 人の悲鳴の中を。

 燃える灯。

 倒れる人。

 人が、人を踏み越える光景。

(……これが、炎上)

 怪異よりも、よほど恐ろしい。



 広場に出たとき。

 玉玲は、見た。

 人々が、一人の女官を囲んでいる。

「お前が、帝に薬を運んだ!」

「違います!」

 否定は、届かない。

 恐怖は、理由を欲しない。

「やめて!」

 玉玲が、叫ぶ。

 だが――

 石が、投げられた。



 その瞬間。

 玉玲の中で、何かが切れた。

「――やめなさい」

 声は、小さかった。

 だが。

 空気が、凍った。

 人々が、動きを止める。



 玉玲の瞳が、赤く光る。

 鬼血丹の残滓。

 境界の力。

「……怪異は、私が止めます」

 震えない声。

「でも」

 一歩、前に出る。

「それ以上、人を壊すなら」

 言葉を、選ばない。

「あなたたち自身が、怪異になります」



 沈黙。

 誰も、反論できなかった。

 なぜなら――

 彼女の背後に、鬼神が立っていたから。



 影は、すべて喰われた。

 後宮に、朝が戻る。

 瓦礫と、涙と、沈黙だけを残して。



 玉玲は、広場の中央で、膝をついた。

 身体が、重い。

 人の視線が、突き刺さる。

 恐れ。
 憎しみ。
 そして、わずかな――救われたという安堵。

 それらすべてが、向けられていた。



 老宦官が、前に出る。

「……蘇玉玲」

 声が、震えている。

「そなたは、もはや後宮に置けぬ」

 それは、処罰ではない。

 追放だった。



「分かりました」

 玉玲は、静かに答えた。

 抵抗は、しない。

「帝が目覚めたとき」

 老宦官が、続ける。

「そなたの名は、消される」

「……それで、結構です」



 玉玲は、立ち上がる。

 玄曜を見る。

「……行きましょう」

「ああ」



 後宮の門を出るとき。

 玉玲は、一度だけ振り返った。

 燃え尽きた場所。

 守られるはずだった世界。

(……母さん)

 あなたが守れなかった後宮を、私は――燃やしてしまいました。

 答えは、ない。

 だが。

 空は、静かに晴れていた。




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