後宮薬師は名を持たない

由香

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第四章:鬼神と帝

第10話 帝の夢に棲む影

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 帝は、眠っていた。

 だがそれは、休息ではない。

 逃避だった。



 内廷最奥、誰も近づかぬ寝殿。

 玉玲は、玄曜と共にそこへ通された。

 香が、重い。

 甘く、腐りかけた香。

(……夢の匂い)

 玉玲は、はっきりと感じ取った。

「ここから先は」

 老宦官が言う。

「帝の“夢”だ」

 扉の向こうは、現でありながら、現ではない。



 一歩、踏み出した瞬間。

 景色が、歪んだ。

 床は消え、霧の海。

 玉座だけが、浮かんでいる。

 そこに、帝が座っていた。

 人の姿を保っている。

 だが、影は――異様だった。

 背後に、幾重もの腕と角。

「……やはり、夢に棲みついている」

 玉玲が、呟く。



『来たか、薬師の娘』

 帝の口が動いた。

 だが、声は影から響く。

『母と同じ顔だ』

 玉玲は、視線を逸らさない。

「……帝は、なぜ鬼になろうとされたのですか」

 問いは、直球だった。

 影が、嗤う。

『老いが、怖かった』

 あまりにも人間的な答え。

『王朝を守るため?違う。朕自身が、朽ちるのが、耐えられなかった』



 玄曜の気配が、強くなる。

『そこで、鬼神を喰らった』

 帝が、続ける。

『だが、完全にはなれなかった』

 影が、揺らぐ。

『鬼神の血が、拒んだのだ』

 玉玲は、はっとした。

「……玄曜様」

 彼が、わずかに頷く。

「俺は……失敗作だ」



 帝が、笑った。

『鬼神と人の間に生まれた器』

『喰わせるために、育てた』

 言葉が、刃のように刺さる。

 玉玲の胸が、怒りで震えた。

「……それで、あの方を」

『ああ』

 帝は、当然のように言う。

『だが、喰われなかった』



 玄曜が、一歩前に出る。

「……俺は、道具じゃない」

 帝の影が、ざわめく。

『ならば、何だ』

「……俺は」

 一瞬、言葉に詰まる。

 だが――

「選ばれなかった存在だ」

 玉玲は、隣で頷いた。



「帝」

 玉玲が、声を張る。

「母は、あなたを救えた」

 帝の目が、細くなる。

「でも、選ばなかった」

 はっきりと、告げる。

「あなたが、誰かを犠牲にする未来を」



『ならば、お前は』

 帝の声が、低くなる。

『朕を、どうする』

 玉玲は、懐から小瓶を取り出した。

 鬼血丹――ではない。

「これは、夢醒めの薬です」

「……完成させたのか」

 玄曜が、驚く。

「母の手記に、ありました」

 玉玲は、静かに言う。

「鬼血丹の“逆”」



 帝の影が、身構える。

『それを使えば』

「夢から、引き剥がします」

「人に、戻す」

 沈黙。

『……代償は』

 帝が、低く問う。

「記憶です」

 玉玲は、躊躇わなかった。

「鬼に手を伸ばした――その欲を」

 帝は、しばらく黙っていた。

 やがて、苦笑する。

『王としては、失格だな』

「はい」

 玉玲は、肯定した。

「でも、人としては」

 一拍、置いて。

「……まだ、間に合います」



 帝は、玄曜を見る。

『朕を、恨むか』

「……分からない」

 玄曜は、正直だった。

「だが」

 視線を逸らさずに言う。

「喰わない」

 それが、答えだった。



 玉玲は、薬を差し出した。

 帝は、それを受け取る。

 躊躇いなく、飲み干した。

 次の瞬間。

 影が、悲鳴を上げた。

 霧が、裂ける。

 夢が――壊れる。



 玉座が、崩れ落ちる。

 帝の身体が、倒れる。

 だが、影は消えなかった。

 宙に浮かび、最後に言う。

『……選ばれぬ世界など』

『弱い』

 そして。

 玄曜が、一歩踏み出す。

「……それでも」

 低く、確かに。

「俺は、選ばない」

 影は、彼に喰われた。



 目を覚ますと、寝殿だった。

 帝は、深く眠っている。

 ただの――老いた人として。

「……終わった?」

 玄曜が、呟く。

「いいえ」

 玉玲は、静かに首を振る。

「ここからが、現実です」

 外では、すでに――
 後宮が、ざわめき始めていた。




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