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第三章:母の禁薬
第9話 皇子の異変
しおりを挟む皇子が倒れたという知らせは、夜の後宮を引き裂く悲鳴のようだった。
*
殿の前には、すでに人垣ができていた。
女官、宦官、近侍――
誰もが口を噤み、ただ怯えた目で扉を見つめている。
玉玲は、鼻を押さえた。
(……濃い)
香でも毒でもない。
血が、燃える匂い。
「近づくな」
玄曜が、低く言った。
彼の身体から、抑えきれない鬼気が滲み出ている。
「中は……もう、人の気配じゃない」
*
扉が開かれた瞬間。
玉玲は、息を呑んだ。
寝台の上で、皇子が身をよじっている。
まだ十にも満たぬ少年。
白い肌の下で、何かが蠢いていた。
「……皇子殿下」
呼びかけても、返事はない。
代わりに、低い唸り声。
その背後に――影が揺れている。
(あやかし……いいえ)
玉玲は、はっきりと理解した。
「これは、“なりかけ”です」
「帝と同じか」
「……同じ道、です」
だが、違う点が一つ。
「まだ、戻れます」
*
女官の一人が、震える声で言った。
「助かるのですか……?」
玉玲は、答えなかった。
代わりに、玄曜を見る。
「……鬼血丹を使えば」
彼の瞳が、揺れた。
「助かる」
だが――
「完全な人には、戻れません」
殿内が、凍りついた。
「どういうことだ」
老宦官が詰め寄る。
「鬼血丹は、“境界を固定する薬”です」
玉玲の声は、静かだった。
「今の皇子殿下を、人でも鬼でもない――半端な存在として、生かす」
「それが、救いか!」
「……それしか、ありません」
*
沈黙。
やがて、誰かが言った。
「ならば、殺せばよい」
あまりにも簡単な言葉。
玉玲の胸が、強く締め付けられる。
「“完全な鬼”になる前に」
玄曜の手が、ぎゅっと握られる。
「それが、後宮の選択だ」
玉玲は、少年を見る。
苦しみ、怯え、何も理解できずにいる皇子。
(……母なら)
母は、選ばなかった。
では――私は?
*
玉玲は、懐から小さな丹を取り出した。
淡く紅に光る、鬼血丹。
殿内の視線が、一斉に集まる。
「……私が、使います」
老宦官が、眉を吊り上げる。
「お前が、責任を負えるのか」
「はい」
玉玲は、まっすぐ答えた。
「この子が生きるなら」
一瞬、言葉を切る。
「……私が、鬼に近づいても」
玄曜が、息を呑んだ。
「玉玲……!」
「大丈夫です」
振り返らずに言う。
「私は、“境界に立つ者”ですから」
*
鬼血丹を、舌に乗せる。
溶ける。
次の瞬間。
――熱。
胸の奥で、何かが弾けた。
「……っ!」
玉玲の膝が、崩れ落ちる。
同時に、皇子の身体から影が引き剥がされる。
黒い何かが、悲鳴を上げ――
玄曜が、それを喰った。
*
静寂。
皇子の呼吸が、次第に落ち着いていく。
人の匂いが、戻ってきた。
「……助かった」
誰かが、呟いた。
*
玉玲は、床に座り込んでいた。
視界が、霞む。
身体が、重い。
玄曜が、すぐそばに跪く。
「……無茶をしすぎだ」
「……成功、しましたね」
玉玲は、かすかに笑った。
だが――
「玉玲」
玄曜の声が、低くなる。
「お前……」
彼女の瞳が、一瞬だけ――赤く光った。
*
その夜。
後宮では、「皇子は奇跡的に回復した」とだけ伝えられた。
真実を知る者は、少ない。
そして。
玉玲は、自室で一人、鏡を見つめていた。
映る自分は、確かに自分だ。
だが、胸の奥に――
(……鳴いている)
鬼の血が、目を覚ましている。
扉の外で、玄曜が立っている気配がした。
入ってこない。
近づきすぎれば、壊れてしまうと知っているから。
玉玲は、そっと囁いた。
「……まだ、戻れますよね」
返事はない。
ただ、夜の底で――
帝の気配が、はっきりと目を覚ましつつあった。
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