後宮薬師は名を持たない

由香

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第三章:母の禁薬

第8話 禁薬「鬼血丹」

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 禁薬には、名がある。

 名を与えられた時点で、それは薬ではなく――
 選択そのものになる。



 記録殿から戻った夜、玉玲は眠れずにいた。

 薬庫の奥。
 母が最後に使っていた調合台。

 誰も触れぬよう、半ば忘れ去られていた場所だ。

(……ここに)

 灯りを点けた瞬間、匂いが立ち上った。

 乾いた血。
 香木。
 そして――微かに、鬼神の匂い。

 玉玲の胸が、締め付けられる。

「……やはり」

 調合棚の最奥。
 二重底の箱の中に、母の手記があった。

 震える指で、頁をめくる。

――鬼血丹きけつたん
――未完成

 そう記された文字。



『鬼神の血は、毒にも薬にもなる』

『人は、それに耐えられない』

『だが、“境界に立つ者”ならば』

 頁の端に、小さな追記。

『――玉玲なら』

 視界が、滲んだ。

(……母さん)

 玉玲は、手記を胸に抱きしめる。

 そのとき。

「やはり、ここにいたか」

 背後から、低い声。

「玄曜様……」

「帝が、動き始めた」

 短い言葉。

「近いうちに、皇族の誰かが“変わる”」

 玉玲は、手記を隠さなかった。

「……禁薬のこと、知っていますね」

「俺が、運ばされた」

 淡々とした答え。

「完成すれば、帝を救える。あるいは――」

「完全な鬼に、する」

 玄曜は、はっきりと言った。



 玉玲は、手記を開いた。

「母は、完成させられなかった。でも……」

 視線を上げる。

「私なら、できます」

 玄曜の目が、揺れた。

「……代償は」

「あります」

 玉玲は、迷わなかった。

「鬼血丹は、“境界に立つ者”の血を触媒にします」

「つまり」

「私自身が、薬になる」

 沈黙。

 重く、逃げ場のない沈黙。



「駄目だ」

 玄曜が、低く言った。

「それは、俺の役目だ」

「違います」

 玉玲は、首を振る。

「あなたは、喰う者。私は、診る者」

 静かな断言。

「母が果たせなかった役目は……私が継ぐ」

 玄曜は、拳を握りしめる。

「……それで、お前は人でいられるのか」

 玉玲は、一瞬だけ目を伏せた。

「……分かりません」

 正直な答え。

「でも」

 再び、彼を見る。

「鬼になるより、選ぶ人でいたい」

 玄曜は、何も言えなかった。



 調合は、夜明けまで続いた。

 薬草。
 毒。
 そして――玉玲の血。

 最後に、ほんの一滴。

 丹は、淡い紅に光った。

「……完成、ですね」

「……ああ」

 鬼血丹は、小さく、重かった。

 掌に載せると、脈打つように熱を持つ。

「これを、誰に使う」

 玄曜の問い。

 玉玲は、答えなかった。

 答えられなかった。

 なぜなら――



 そのとき、外で悲鳴が上がった。

「皇子様が――!」

 女官の声。

「皇子様が、倒れられました!」

 玉玲と玄曜は、同時に顔を上げる。

「……来たな」

 玄曜が、低く呟く。

 玉玲は、鬼血丹を握りしめた。

(……選ぶ時が)



 走る廊下。
 広がる香。

 それは、帝よりも若く、未熟な匂い。

 だが――確実に、人ではない。

 玉玲は、胸の奥で呟いた。

(母さん……)

 あなたが避けた選択を、私は――

 殿の扉の前で、玄曜が立ち止まる。

「玉玲」

「はい」

「……戻れなくなっても」

 一瞬、言葉を探すような間。

「俺は、お前を守る」

 それは、誓いだった。

 玉玲は、小さく笑った。

「……ありがとうございます」

 扉の向こうで、人とあやかしの境界が、悲鳴を上げていた。




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