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第三章:母の禁薬
第8話 禁薬「鬼血丹」
しおりを挟む禁薬には、名がある。
名を与えられた時点で、それは薬ではなく――
選択そのものになる。
*
記録殿から戻った夜、玉玲は眠れずにいた。
薬庫の奥。
母が最後に使っていた調合台。
誰も触れぬよう、半ば忘れ去られていた場所だ。
(……ここに)
灯りを点けた瞬間、匂いが立ち上った。
乾いた血。
香木。
そして――微かに、鬼神の匂い。
玉玲の胸が、締め付けられる。
「……やはり」
調合棚の最奥。
二重底の箱の中に、母の手記があった。
震える指で、頁をめくる。
――鬼血丹
――未完成
そう記された文字。
*
『鬼神の血は、毒にも薬にもなる』
『人は、それに耐えられない』
『だが、“境界に立つ者”ならば』
頁の端に、小さな追記。
『――玉玲なら』
視界が、滲んだ。
(……母さん)
玉玲は、手記を胸に抱きしめる。
そのとき。
「やはり、ここにいたか」
背後から、低い声。
「玄曜様……」
「帝が、動き始めた」
短い言葉。
「近いうちに、皇族の誰かが“変わる”」
玉玲は、手記を隠さなかった。
「……禁薬のこと、知っていますね」
「俺が、運ばされた」
淡々とした答え。
「完成すれば、帝を救える。あるいは――」
「完全な鬼に、する」
玄曜は、はっきりと言った。
*
玉玲は、手記を開いた。
「母は、完成させられなかった。でも……」
視線を上げる。
「私なら、できます」
玄曜の目が、揺れた。
「……代償は」
「あります」
玉玲は、迷わなかった。
「鬼血丹は、“境界に立つ者”の血を触媒にします」
「つまり」
「私自身が、薬になる」
沈黙。
重く、逃げ場のない沈黙。
*
「駄目だ」
玄曜が、低く言った。
「それは、俺の役目だ」
「違います」
玉玲は、首を振る。
「あなたは、喰う者。私は、診る者」
静かな断言。
「母が果たせなかった役目は……私が継ぐ」
玄曜は、拳を握りしめる。
「……それで、お前は人でいられるのか」
玉玲は、一瞬だけ目を伏せた。
「……分かりません」
正直な答え。
「でも」
再び、彼を見る。
「鬼になるより、選ぶ人でいたい」
玄曜は、何も言えなかった。
*
調合は、夜明けまで続いた。
薬草。
毒。
そして――玉玲の血。
最後に、ほんの一滴。
丹は、淡い紅に光った。
「……完成、ですね」
「……ああ」
鬼血丹は、小さく、重かった。
掌に載せると、脈打つように熱を持つ。
「これを、誰に使う」
玄曜の問い。
玉玲は、答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら――
*
そのとき、外で悲鳴が上がった。
「皇子様が――!」
女官の声。
「皇子様が、倒れられました!」
玉玲と玄曜は、同時に顔を上げる。
「……来たな」
玄曜が、低く呟く。
玉玲は、鬼血丹を握りしめた。
(……選ぶ時が)
*
走る廊下。
広がる香。
それは、帝よりも若く、未熟な匂い。
だが――確実に、人ではない。
玉玲は、胸の奥で呟いた。
(母さん……)
あなたが避けた選択を、私は――
殿の扉の前で、玄曜が立ち止まる。
「玉玲」
「はい」
「……戻れなくなっても」
一瞬、言葉を探すような間。
「俺は、お前を守る」
それは、誓いだった。
玉玲は、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
扉の向こうで、人とあやかしの境界が、悲鳴を上げていた。
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