『後宮薬師は名を持たない』

由香

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第三章:母の禁薬

第7話 処刑された薬師

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 処刑された薬師の名は、記録に残らない。

 後宮の帳簿にあるのは、ただ一行。

――「禁薬に関与。極刑」

 それ以上でも、それ以下でもない。



 その日、玉玲は呼び出されていた。

 場所は、薬庫ではない。
 妃の殿でもない。

 内廷の記録殿――後宮の中枢だ。

(……なぜ、今)

 胸騒ぎが、はっきりと形を持っていた。

 記録殿は冷えていた。
 紙と墨の匂いの奥に、長年染みついた――恐怖の匂いがある。

「入れ」

 声の主は、年配の宦官だった。
 玄曜とは違う。人間で、権力に慣れた声。

「蘇玉玲だな」

「……はい」

「お前の母について、確認がある」

 その一言で、世界が軋んだ。



 机の上に、古い帳簿が置かれる。

「二十年前、後宮薬師が一人、処刑された」

 宦官は淡々と告げる。

「罪状は、皇族に対する禁薬の調合」

 玉玲の喉が、乾く。

「その薬師が、お前の母だ」

 確認ではない。
 宣告だった。

「……はい」

「否定はしないか」

「事実ですから」

 宦官は、ふむ、と低く唸った。

「ならば聞こう。あの女は、何を作っていた」

 玉玲は、視線を下げたまま答える。

「……人と、あやかしの境界を、越える薬です」

 室内の空気が、張り詰める。

「正確には」

 玉玲は、言葉を選びながら続けた。

「越えないための薬でした」



 宦官の眉が、ぴくりと動く。

「どういう意味だ」

「当時、皇帝陛下――いえ、先帝は」

 玉玲は、夢で見た光景を思い出す。

「すでに、あやかしに近づいていました」

 香と毒。
 呪と血。

 後宮は、それを止められなかった。

「母は、完全な“あやかし化”を防ぐための薬を作っていました」

 宦官が、鼻で笑う。

「結果、処刑された」

「はい」

「失敗作だったのだろう」

 玉玲は、首を横に振った。

「……いいえ」

 ゆっくりと、顔を上げる。

「成功していました」

 宦官の目が、鋭くなる。

「ならば、なぜ――」

「完成させなかったからです」

 沈黙。

「母は、選ばなかった」

 玉玲の声は、震えていた。

「帝を救うために、別の誰かを犠牲にすることを」

 その言葉の重さに、宦官は一瞬、言葉を失った。



「……愚かな女だ」

 やがて、そう吐き捨てる。

「後宮では、選ばねばならぬ」

「はい」

 玉玲は、はっきりと答えた。

「だから、母は――薬師でした」

 宦官は、玉玲をじっと見つめる。

「お前も、同じ道を歩くか」

 問いではない。
 試しだ。

 玉玲は、胸の奥で深く息を吸う。

「……分かりません」

 正直な答え。

「でも」

 目を逸らさずに続ける。

「選ばされるなら、自分で選びます」



 記録殿を出ると、廊下に玄曜が立っていた。

 最初から、そこにいたかのように。

「……聞かれたな」

「はい」

 短いやり取り。

 だが、二人には十分だった。

「母のこと、すべて話しました」

「そうか」

 玄曜は、それ以上問わない。

「……後悔は」

「ありません」

 玉玲は、少しだけ微笑んだ。

「母の選択を、否定したくありませんから」

 玄曜は、しばらく玉玲を見つめていた。

 その目に浮かぶのは、怒りでも悲しみでもない。

 ――決意。

「玉玲」

「はい」

「次に来るのは、薬師の裁きではない」

 低い声。

「帝の裁きだ」

 玉玲の背筋が、冷たくなる。

「……帝が、動くのですね」

「ああ」

 玄曜は、夜の奥を見据えた。

「夢ではない。現実で」



 その夜。

 玉玲は、母の夢を見なかった。

 代わりに、夢の中で――玉座を見た。

 香に満ちた殿。

 玉座に座る影は、人の形をしている。
 だが、その背後に――巨大な“何か”が蠢いていた。

 目が、こちらを向く。

『薬師の娘よ』

 声が、直接、頭に響く。

『お前も、選ぶがいい』

 玉玲は、逃げなかった。

 ただ、静かに答える。

「……はい」

 目覚めたとき、夜明け前だった。

 胸の奥に、恐怖はある。
 だが、それ以上に――覚悟があった。

 母が、そうだったように。

 そして。

 後宮の歯車は、薬師一人では止められない場所へと、確実に進み始めていた。




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