『後宮薬師は名を持たない』

由香

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第二章:香と血の後宮

第6話 宦官の仮面

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 後宮では、宦官の過去を問うてはならない。

 彼らは名を捨て、血を断ち、個を削がれた存在だ。
 過去を持たぬ者として扱われる。

 だが――玄曜の過去は、最初から隠されていた。



 毒壺の一件から、数日が経った。

 後宮は不気味なほど静かで、香の匂いも薄い。
 嵐の前触れのような静けさだった。

 玉玲は薬庫で帳簿を整理していたが、集中できずにいた。

(……呼ばれる)

 理由は分からない。
 だが、確信だけがあった。

 その予感は、日暮れとともに現実になる。

「玉玲」

 薬庫の戸口に立つ、黒衣の影。

「玄曜様……?」

「来い」

 短い命令。
 だが、そこに拒絶はなかった。



 連れて行かれたのは、後宮の最奥――立ち入りを禁じられた旧殿だった。

 人の気配はなく、香も焚かれていない。
 空気は澄んでいるが、どこか冷たい。

「……ここは」

「昔の“処理場”だ」

 玄曜の声は、淡々としていた。

「あやかしが暴れ、人が死に、記録に残せないものを――消す場所」

 玉玲の胸が、きしむ。

「俺は、ここで育った」

 初めて、彼は自分のことを語った。



 殿の中央には、何もない。

 ただ、床に刻まれた無数の傷と、消えない染み。

「……宦官では、ないのですね」

 玉玲は、ずっと胸にあった疑問を口にした。

「身体は、そう作られた」

 玄曜は、静かに答える。

「だが……完全ではない」

 その言葉の意味を、玉玲は理解した。

 彼は、“去勢された宦官”ではない。
 そう扱われるために、造られた存在。

「鬼神の血が混じれば、子は残らない。欲も、情も、抑えられる」

「……失敗作だ」

 自嘲にも似た声。

「俺は、残りすぎた」

 感情も。
 記憶も。
 ――そして、欲も。



 玉玲は、そっと一歩近づいた。

「だから……喰い続けているのですね」

「ああ」

 玄曜は、壁に手をつく。

「喰えば、静かになる。考えずに済む。……人でなくなれる」

 月光が、彼の横顔を照らす。

 その影に、一瞬――角が揺れた。

「だが」

 玄曜は、低く言った。

「お前がいると……戻る」

 玉玲の喉が、鳴る。

「人に、ですか」

「……ああ」

 短い肯定。



 沈黙が落ちる。

 破れば、何かが壊れる。
 だが、破らねば、先へ進めない。

 玉玲は、意を決した。

「玄曜様」

「……何だ」

「もし」

 声が、わずかに震える。

「もし、あなたが“役目”を終えたら……どうなさるのですか」

 問いは、刃だった。

 玄曜は、すぐには答えなかった。

「……終わらない」

「それは」

「俺が、そう作られた」

 断定。

 だが、その声音の奥に――疲労が滲んでいた。



 玉玲は、胸元の香包を取り出した。

「これは、私の薬です」

 玄曜が、ちらりと見る。

「眠りを深くするだけの、弱いものですが……」

 玉玲は、そっと差し出した。

「今夜は、喰わないでください」

 一瞬、時間が止まる。

「……命令か」

「お願い、です」

 玄曜の指が、わずかに動く。

 そして――香包を、受け取った。

「……一度だけだ」

 それだけ言って、目を閉じる。

 玉玲は、初めて気づいた。

 彼の睫毛が、驚くほど長いことに。



 しばらくして、玄曜は静かに息を整えた。

 鬼の気配が、薄れている。

「……効いた」

「よかった」

 玉玲は、小さく笑った。

「人の薬でも、効くのですね」

「……お前の薬だからだ」

 不意に、玄曜がこちらを見る。

 距離が、近い。

 息が、かかる。

 触れれば――戻れなくなる。

 だが、彼は触れなかった。

「玉玲」

 低く、確かな声。

「俺は、お前を――」

 言葉が、途中で途切れる。

 代わりに、彼は視線を逸らした。

「……後宮から、逃がす」

 玉玲は、目を見開いた。

「なぜ……」

「ここにいれば、お前は」

 玄曜は、歯を食いしばる。

「俺と同じになる」

 それが、彼なりの――愛だった。



 夜更け。

 玉玲は自室に戻り、胸を押さえた。

 香包の残り香が、指に移っている。

(……逃げる、か)

 その言葉を、心の中で繰り返す。

 だが、同時に浮かんだのは――

 闇の中で、一人立ち続ける玄曜の背だった。

 後宮は、まだ彼を放さない。
 そして、彼自身も。

 だが。

 仮面は、確かにひび割れていた。




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