後宮薬師は名を持たない

由香

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第二章:香と血の後宮

第5話 毒壺の蛇霊

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 後宮の薬庫には、封を解いてはならぬ壺がある。

 古い帳簿に名前だけが残り、用途も由来も記されていない。
 ただ一行、朱でこう書かれている。

――「毒性強し。開封厳禁」

 その壺が、夜半に鳴いた。



 呼び出された玉玲が薬庫へ向かうと、入口にはすでに玄曜が立っていた。

「……ここから先は、覚悟が要る」

 珍しく、彼はそう前置きした。

 玉玲は胸の奥で小さく息を吸う。

「中にいるのは、あやかしですか」

「半分はな」

 曖昧な答え。

 薬庫の扉が開くと、冷えた空気が流れ出した。
 薬草と乾いた土、そして――はっきりとした毒の匂い。

(……懐かしい)

 そう感じてしまった自分に、玉玲は戦慄した。

 棚の奥、封印符を幾重にも貼られた壺が一つ。
 黒光りする胴には、蛇の文様が彫られている。

「この壺は?」

「二十年前、後宮で使われていた毒壺だ」

 玄曜の声は低い。

「使用者は、処刑された」

 玉玲の喉が、ひくりと鳴る。

「……名前は」

「記録にはない」

 だが、二人とも分かっていた。
 その沈黙が、何を指しているのか。



 壺に近づくにつれ、匂いが濃くなる。

 ただの毒ではない。
 生き物の体温と、執念のようなものが混じっている。

(蛇……)

 しかも、かなり大きい。

「玉玲」

 玄曜が低く言う。

「これは、俺が喰う」

「……待ってください」

 玉玲は、一歩前に出た。

「この壺の中の毒……母の調合です」

 玄曜の動きが止まる。

「根拠は」

「匂いです」

 玉玲は目を閉じ、深く息を吸った。

「人の毒に、あやかしの血を混ぜている。でも……完全じゃない」

 だから、壺の中で“生きた”。

「母は、完成させなかった」

 玄曜は、ゆっくりと壺を見つめる。

「……完成していれば、帝すら殺せた」

「はい」

 だからこそ、母は処刑された。



 ――ごとり。

 壺の中で、何かが動いた。

 封印符が、一枚、剥がれ落ちる。

「……鳴くぞ」

 女官たちが、後ずさる。

 玉玲は、壺の前に膝をついた。

「蛇霊です」

「霊?」

「ええ。毒が、蛇の形を借りている」

 玉玲は、壺に向かって静かに語りかけた。

「……苦しいでしょう」

 返事はない。

 代わりに、壺の口から、黒い靄が溢れ出す。

 ――しゅる。

 長い胴体。
 闇を吸い込んだような鱗。

 蛇は、玉玲を見下ろしていた。

「……母は」

 玉玲の声が、震える。

「あなたを、殺すつもりはなかった」

 蛇が、ぴたりと動きを止める。

 毒の匂いが、一瞬だけ――柔らいだ。

「でも……完成させられなかった」

 玉玲は、唇を噛む。

「だから、あなたはここに閉じ込められた」

 蛇の瞳が、細くなる。

 ――怒り。
 ――渇き。
 ――そして、強烈な執着。

(……母への)



「玉玲、下がれ」

 玄曜が一歩、前に出る。

「こいつは、人を殺している」

「……知っています」

 玉玲は立ち上がらなかった。

「でも」

 蛇は、壺から完全に姿を現そうとしている。
 このままでは、誰かが死ぬ。

「……私が、終わらせます」

 玄曜の目が、見開かれた。

「喰わせろ」

「いいえ」

 玉玲は、懐から小さな瓶を取り出した。

「母の未完成薬です」

 透明な液体。
 だが、その中に――鬼神の血に似た匂いがあった。

「完成させるのか」

「違います」

 玉玲は、蛇を見据える。

「眠らせる」



 瓶の栓を開けた瞬間、香が弾けた。

 蛇が、苦しそうに身をくねらせる。

 だが、逃げない。

 まるで、待っていたかのように。

「……これで」

 玉玲の声は、静かだった。

「あなたは、毒でも霊でもなくなる」

 蛇の身体が、ゆっくりと溶けていく。

 闇が、液体に戻る。

 最後に残ったのは――ただの、黒い毒。

 壺は、静かになった。



 しばらく、誰も動かなかった。

「……終わったな」

 玄曜が言う。

「はい」

 玉玲は、深く息を吐いた。

 足が、少し震えている。

「……なぜ、俺に喰わせなかった」

 玉玲は、玄曜を見上げた。

「喰えば、あなたはまた鬼に近づく」

 彼の胸元を、まっすぐ見つめる。

「……もう、十分です」

 玄曜は、何も言わなかった。

 ただ、玉玲の頭に、そっと手を置く。

 一瞬だけ。

「……愚かだ」

 低い声。

 だが、その手は――温かかった。



 その夜。

 玉玲は、夢を見た。

 母が、薬棚の前で微笑んでいる。

『よく、診たわね』

 目が覚めると、涙が一筋、頬を伝っていた。

 後宮の闇は、まだ深い。
 だが、確かに――何かが、ほどけ始めていた。




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