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第二章:香と血の後宮
第5話 毒壺の蛇霊
しおりを挟む後宮の薬庫には、封を解いてはならぬ壺がある。
古い帳簿に名前だけが残り、用途も由来も記されていない。
ただ一行、朱でこう書かれている。
――「毒性強し。開封厳禁」
その壺が、夜半に鳴いた。
*
呼び出された玉玲が薬庫へ向かうと、入口にはすでに玄曜が立っていた。
「……ここから先は、覚悟が要る」
珍しく、彼はそう前置きした。
玉玲は胸の奥で小さく息を吸う。
「中にいるのは、あやかしですか」
「半分はな」
曖昧な答え。
薬庫の扉が開くと、冷えた空気が流れ出した。
薬草と乾いた土、そして――はっきりとした毒の匂い。
(……懐かしい)
そう感じてしまった自分に、玉玲は戦慄した。
棚の奥、封印符を幾重にも貼られた壺が一つ。
黒光りする胴には、蛇の文様が彫られている。
「この壺は?」
「二十年前、後宮で使われていた毒壺だ」
玄曜の声は低い。
「使用者は、処刑された」
玉玲の喉が、ひくりと鳴る。
「……名前は」
「記録にはない」
だが、二人とも分かっていた。
その沈黙が、何を指しているのか。
*
壺に近づくにつれ、匂いが濃くなる。
ただの毒ではない。
生き物の体温と、執念のようなものが混じっている。
(蛇……)
しかも、かなり大きい。
「玉玲」
玄曜が低く言う。
「これは、俺が喰う」
「……待ってください」
玉玲は、一歩前に出た。
「この壺の中の毒……母の調合です」
玄曜の動きが止まる。
「根拠は」
「匂いです」
玉玲は目を閉じ、深く息を吸った。
「人の毒に、あやかしの血を混ぜている。でも……完全じゃない」
だから、壺の中で“生きた”。
「母は、完成させなかった」
玄曜は、ゆっくりと壺を見つめる。
「……完成していれば、帝すら殺せた」
「はい」
だからこそ、母は処刑された。
*
――ごとり。
壺の中で、何かが動いた。
封印符が、一枚、剥がれ落ちる。
「……鳴くぞ」
女官たちが、後ずさる。
玉玲は、壺の前に膝をついた。
「蛇霊です」
「霊?」
「ええ。毒が、蛇の形を借りている」
玉玲は、壺に向かって静かに語りかけた。
「……苦しいでしょう」
返事はない。
代わりに、壺の口から、黒い靄が溢れ出す。
――しゅる。
長い胴体。
闇を吸い込んだような鱗。
蛇は、玉玲を見下ろしていた。
「……母は」
玉玲の声が、震える。
「あなたを、殺すつもりはなかった」
蛇が、ぴたりと動きを止める。
毒の匂いが、一瞬だけ――柔らいだ。
「でも……完成させられなかった」
玉玲は、唇を噛む。
「だから、あなたはここに閉じ込められた」
蛇の瞳が、細くなる。
――怒り。
――渇き。
――そして、強烈な執着。
(……母への)
*
「玉玲、下がれ」
玄曜が一歩、前に出る。
「こいつは、人を殺している」
「……知っています」
玉玲は立ち上がらなかった。
「でも」
蛇は、壺から完全に姿を現そうとしている。
このままでは、誰かが死ぬ。
「……私が、終わらせます」
玄曜の目が、見開かれた。
「喰わせろ」
「いいえ」
玉玲は、懐から小さな瓶を取り出した。
「母の未完成薬です」
透明な液体。
だが、その中に――鬼神の血に似た匂いがあった。
「完成させるのか」
「違います」
玉玲は、蛇を見据える。
「眠らせる」
*
瓶の栓を開けた瞬間、香が弾けた。
蛇が、苦しそうに身をくねらせる。
だが、逃げない。
まるで、待っていたかのように。
「……これで」
玉玲の声は、静かだった。
「あなたは、毒でも霊でもなくなる」
蛇の身体が、ゆっくりと溶けていく。
闇が、液体に戻る。
最後に残ったのは――ただの、黒い毒。
壺は、静かになった。
*
しばらく、誰も動かなかった。
「……終わったな」
玄曜が言う。
「はい」
玉玲は、深く息を吐いた。
足が、少し震えている。
「……なぜ、俺に喰わせなかった」
玉玲は、玄曜を見上げた。
「喰えば、あなたはまた鬼に近づく」
彼の胸元を、まっすぐ見つめる。
「……もう、十分です」
玄曜は、何も言わなかった。
ただ、玉玲の頭に、そっと手を置く。
一瞬だけ。
「……愚かだ」
低い声。
だが、その手は――温かかった。
*
その夜。
玉玲は、夢を見た。
母が、薬棚の前で微笑んでいる。
『よく、診たわね』
目が覚めると、涙が一筋、頬を伝っていた。
後宮の闇は、まだ深い。
だが、確かに――何かが、ほどけ始めていた。
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表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。
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