『後宮薬師は名を持たない』

由香

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第二章:香と血の後宮

第4話 狐の香炉

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 後宮には、触れてはならぬ香炉がいくつかある。

 焚けば必ず誰かが不幸になる。
 壊せば、より大きな災いを呼ぶ。
 理由は誰も知らない――ただ、代々そう言い伝えられてきた。

 その一つが、翠玉殿すいぎょくでんにあった。



「……また、妃が倒れた?」

 玉玲は薬箱を抱えたまま、思わず足を止めた。

「はい。今度は翠玉殿の麗妃さまです」

 女官の声は、どこか怯えている。

「笑っていらしたと思ったら、急に……“誰かが見ている”と」

 その言葉を聞いた瞬間、玉玲の鼻がひくりと動いた。

(……甘い)

 過剰なほどの、蜜の香り。
 花でも香木でもない、獣の匂いが混じっている。

「香炉は?」

「例の……触れてはならないと噂のものです」

 やはり。

 玉玲は胸の奥で息を整え、歩き出した。



 翠玉殿は、他の殿舎よりも華やかだった。

 玉の装飾、絹の帳、艶やかな色彩。
 だが、その中心に置かれた香炉だけが、異様に古びている。

 青緑の釉薬が剥げ、口元には細かな欠け。
 ――長く、使われすぎた器だ。

(溜まりすぎている……)

 玉玲は、香炉の前に立っただけで、そう感じた。

 そこへ。

「手を出すな」

 低い声が、背後からかかる。

 振り返るまでもない。

「玄曜様」

「この香炉は、俺が処理する」

 きっぱりとした口調。
 それは命令に近かった。

 だが、玉玲は一歩、前に出た。

「……これは、喰ってはいけません」

 玄曜の視線が、鋭くなる。

「理由は」

「喰えば、後宮全体に影響が出ます」

 玉玲は香炉を見つめながら言った。

「このあやかしは、香炉そのものと結びついています。無理に引き剥がせば……」

「暴走する、か」

「はい」

 玄曜は黙り込んだ。

 しばしの沈黙ののち、短く息を吐く。

「……診立てろ」

 許可。

 玉玲は静かに頷き、香炉の前に膝をついた。



 香炉に宿るものは、狐だった。

 姿は見えない。
 だが、匂いと気配が、そう告げている。

(若い……女)

 妃たちの嫉妬、寵愛への渇望。
 それらを吸い上げ、形を得た存在。

「……香炉に、話しかけます」

「正気か」

「はい」

 玉玲は、小さく香包を開いた。

 中に入っているのは、鎮静の薬草と、わずかな――甘酒。

 香炉の前に置き、静かに声をかける。

「……そこにいるのでしょう」

 空気が、ぴたりと止まる。

「ここは、もう危ない。あなたも、苦しいはずです」

 香が、ふわりと揺れた。

 甘さが増す。
 まるで、笑っているように。

(……いる)

「人の想いは、香よりも濃い」

 玉玲は、夢で聞いた言葉を思い出す。

「でも……あなたは、誰かを壊したいわけじゃない」

 その瞬間。

 ――きぃ。

 確かに、香炉が鳴いた。

 女官たちが、息を呑む。

 玉玲は、恐怖を押し殺し、続けた。

「寵を奪われる痛み。見られることへの渇き……それは、人のものです」

「あなたは、借りただけ」

 香が、すっと和らいだ。

 代わりに、寂しさの匂いが広がる。

「……だから、帰りましょう」

 玉玲は、香炉にそっと手を添えた。

 その瞬間。

 視界の端で、白い影が揺れた。

 九つに分かれそうな尾。
 細く、しなやかな輪郭。

 狐は、玉玲を見ていた。

 そして――

 ふっと、消えた。



 香炉は、ただの器になっていた。

 重苦しい匂いは消え、殿内の空気が澄んでいく。

「……終わった、のか」

 誰かが呟いた。

 玉玲は、深く息を吐く。

「はい。もう、焚いても問題ありません」

 玄曜は、香炉を一瞥し、玉玲に視線を戻した。

「……見事だ」

 短い言葉。

 だが、それは確かな評価だった。

「なぜ、喰わせなかった」

「……あれは」

 玉玲は、少し迷ってから答えた。

「人に、なりたがっていました」

 玄曜の指が、ぴくりと動く。

「狐は、人の真似をする」

「ええ。でも……それだけじゃない」

 玉玲は、彼を見上げた。

「あなたも」

 一瞬、空気が張り詰める。

 言ってしまった、と理解したときには遅かった。

 だが、玄曜は怒らなかった。

「……似ているかもしれんな」

 そう言って、視線を逸らす。

「だが、俺は戻れない」

 玉玲の胸が、痛んだ。

「それでも」

 彼女は、静かに言った。

「戻ろうとすることは、できます」

 玄曜は答えなかった。

 ただ、去り際に一言だけ残す。

「次の怪異は……もっと厄介だ」

 それは予告だった。



 その夜。

 玉玲は、久しぶりに夢を見なかった。

 代わりに、目覚めた後も、鼻腔に残る香があった。

 甘く、懐かしく――
 そして、少しだけ、人恋しい匂い。

 後宮の深奥で、
 あやかしたちは、まだ静かに息をしている。




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