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第二章:香と血の後宮
第4話 狐の香炉
しおりを挟む後宮には、触れてはならぬ香炉がいくつかある。
焚けば必ず誰かが不幸になる。
壊せば、より大きな災いを呼ぶ。
理由は誰も知らない――ただ、代々そう言い伝えられてきた。
その一つが、翠玉殿にあった。
*
「……また、妃が倒れた?」
玉玲は薬箱を抱えたまま、思わず足を止めた。
「はい。今度は翠玉殿の麗妃さまです」
女官の声は、どこか怯えている。
「笑っていらしたと思ったら、急に……“誰かが見ている”と」
その言葉を聞いた瞬間、玉玲の鼻がひくりと動いた。
(……甘い)
過剰なほどの、蜜の香り。
花でも香木でもない、獣の匂いが混じっている。
「香炉は?」
「例の……触れてはならないと噂のものです」
やはり。
玉玲は胸の奥で息を整え、歩き出した。
*
翠玉殿は、他の殿舎よりも華やかだった。
玉の装飾、絹の帳、艶やかな色彩。
だが、その中心に置かれた香炉だけが、異様に古びている。
青緑の釉薬が剥げ、口元には細かな欠け。
――長く、使われすぎた器だ。
(溜まりすぎている……)
玉玲は、香炉の前に立っただけで、そう感じた。
そこへ。
「手を出すな」
低い声が、背後からかかる。
振り返るまでもない。
「玄曜様」
「この香炉は、俺が処理する」
きっぱりとした口調。
それは命令に近かった。
だが、玉玲は一歩、前に出た。
「……これは、喰ってはいけません」
玄曜の視線が、鋭くなる。
「理由は」
「喰えば、後宮全体に影響が出ます」
玉玲は香炉を見つめながら言った。
「このあやかしは、香炉そのものと結びついています。無理に引き剥がせば……」
「暴走する、か」
「はい」
玄曜は黙り込んだ。
しばしの沈黙ののち、短く息を吐く。
「……診立てろ」
許可。
玉玲は静かに頷き、香炉の前に膝をついた。
*
香炉に宿るものは、狐だった。
姿は見えない。
だが、匂いと気配が、そう告げている。
(若い……女)
妃たちの嫉妬、寵愛への渇望。
それらを吸い上げ、形を得た存在。
「……香炉に、話しかけます」
「正気か」
「はい」
玉玲は、小さく香包を開いた。
中に入っているのは、鎮静の薬草と、わずかな――甘酒。
香炉の前に置き、静かに声をかける。
「……そこにいるのでしょう」
空気が、ぴたりと止まる。
「ここは、もう危ない。あなたも、苦しいはずです」
香が、ふわりと揺れた。
甘さが増す。
まるで、笑っているように。
(……いる)
「人の想いは、香よりも濃い」
玉玲は、夢で聞いた言葉を思い出す。
「でも……あなたは、誰かを壊したいわけじゃない」
その瞬間。
――きぃ。
確かに、香炉が鳴いた。
女官たちが、息を呑む。
玉玲は、恐怖を押し殺し、続けた。
「寵を奪われる痛み。見られることへの渇き……それは、人のものです」
「あなたは、借りただけ」
香が、すっと和らいだ。
代わりに、寂しさの匂いが広がる。
「……だから、帰りましょう」
玉玲は、香炉にそっと手を添えた。
その瞬間。
視界の端で、白い影が揺れた。
九つに分かれそうな尾。
細く、しなやかな輪郭。
狐は、玉玲を見ていた。
そして――
ふっと、消えた。
*
香炉は、ただの器になっていた。
重苦しい匂いは消え、殿内の空気が澄んでいく。
「……終わった、のか」
誰かが呟いた。
玉玲は、深く息を吐く。
「はい。もう、焚いても問題ありません」
玄曜は、香炉を一瞥し、玉玲に視線を戻した。
「……見事だ」
短い言葉。
だが、それは確かな評価だった。
「なぜ、喰わせなかった」
「……あれは」
玉玲は、少し迷ってから答えた。
「人に、なりたがっていました」
玄曜の指が、ぴくりと動く。
「狐は、人の真似をする」
「ええ。でも……それだけじゃない」
玉玲は、彼を見上げた。
「あなたも」
一瞬、空気が張り詰める。
言ってしまった、と理解したときには遅かった。
だが、玄曜は怒らなかった。
「……似ているかもしれんな」
そう言って、視線を逸らす。
「だが、俺は戻れない」
玉玲の胸が、痛んだ。
「それでも」
彼女は、静かに言った。
「戻ろうとすることは、できます」
玄曜は答えなかった。
ただ、去り際に一言だけ残す。
「次の怪異は……もっと厄介だ」
それは予告だった。
*
その夜。
玉玲は、久しぶりに夢を見なかった。
代わりに、目覚めた後も、鼻腔に残る香があった。
甘く、懐かしく――
そして、少しだけ、人恋しい匂い。
後宮の深奥で、
あやかしたちは、まだ静かに息をしている。
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